「ごめんなさい」
出社する前に近所迷惑を詫びた程度には理性が残っていた糸川であったが、上司に言われてなおなかなか踏み出せない。
相手の家など知らない糸川にとって連絡方法はスマホを介したそれしかないが、それを踏み出す勇気がない。
やはり女性だけの町の住民は女性だけの町の住民であり、男性を受け入れない土壌の存在なのか。自分が手段として利用されていたのはこの際いいとしても、それでも自分としてはわかり合えていたはずの存在と結局分かり合えないのかと思うと無力感も湧いて来る。
結局、糸川が動くのには一週間の時を要した。
もっとも、即決していたとしても次の休みまでそれだけあったので同じではあったのだが。
とにかく、糸川は何度か通った古本屋の側の喫茶店に野川を呼び出し、そこで思いを伝えようと決めた。
フラれるならばそれでいい。一応財布の中身も膨らませ一張羅を身にまとい、自分なりに勉強して来たつもりだった。
「本当に遅れてしまい申し訳ありません!それで、お話って」
「僕と付き合って下さい!」
ほんの二分遅れてやって来た野川に向かって深々と頭を下げるその姿は、乾坤一擲の大勝負を仕掛ける男の姿だった。
「えっと、それって…私がここを離れても親交を持ってくださいと言う事ですか……」
「いえ、そんな!僕と一緒にここで過ごしてください!」
その一発目の一撃が響かないと知った糸川の二発目の攻撃は、もはや誰がどう見ても明らかなほどのプロポーズであった。
「……大変申し訳ありませんけど、その気にはなれません……」
そして、空振った。
糸川に負けじと深く頭を下げた野川であったが、その顔からにじみ出る申し訳なさと悲しさも糸川に負けていなかった。
「何故です!僕に何か不満があるんですか!」
その顔が視界に入ってしまってなお、糸川は攻撃をやめる事が出来なかった。その魅力的な肉体へと抱き着こうとするのをこらえて二本の足で立ち、必死に自分の責めを探し求める。
野川はそんな糸川を喫茶店のよく沈むソファに座らせ、自分も向かいのそれと同じぐらい沈むソファに腰掛ける。アイスコーヒー二杯を持って来たウェイトレスに向けて頭を下げる野川とそんな余裕もない糸川の対比が鮮やかであり、元から集まっていた視線をさらに集めるには十分すぎた。
「確かに糸川さんの事は個人的に頼れる方だと思っています。
ですが今の仕事場は楽しいですし、和賀さんや梶原さん、高田さんと言った方も親切です。和賀さんは優しくて的確な人ですし、梶原さんは真面目な方ですし、高田さんは親しみやすい人です。まるで私の母たちのように」
和賀正美、梶原保美、高田康江。糸川も知っている野川拓海の上司及び同僚。
そして、野川拓海の「母」たち。
言うまでもなく彼女に「父」などいない。いつ何時得られたのか分からない受精卵を16ケタのガチャとでも言うべきそれの中から決められた「女児」が届けられ、それを育てるのが女性だけの町の子育てだ。
——————————そう、野川拓海もまたそうなるつもりだった。
「あの、二人母親がいるってのは今まで聞いてませんでしたけど……どんな気持ちなんでしょうか」
「特にどうとも思いません。私の母は水道管工事をする母と誠心治安管理社で働く母がいて子育てをしてくれたのは伯母でありその伯母さんの娘である従姉妹と一緒に育ったんです」
「専業主婦ってのは女性だけの町にもいるんですか」
「いますよ。私だっていずれそうなると思います」
野川拓海は、生涯現役とか言う気もなかった。
確かに自分はエリートとして育てられているし自分でもそのつもりだったが、いずれは自分も身を引く時が来る。もちろん定年退職とかかもしれないが、婚姻と共に引退してと言う可能性も存在していた。
実際私が取材した薫と静香と言う婦婦は元々ゴミ回収業と出版社勤務であり、出版社勤務であった静香と言う女性の方が薫子と言う娘を儲けるに当たり退職して専業主婦になった。
「って言うか婦婦だなんて本当にあるんですか!」
「あります」
「離婚とかもあるんですか!」
「一応、ありますけど…」
そして一応と言う言葉は実に正しい。
女性だけの町の中での婦婦の離婚率は、外の世界の二分の一である。これは婦婦が不仲になっても親族が支え合うと共に男性から「ほれ見ろ女同士はすぐに衝突する」と言われるのを避けるために離婚を忌避する教育がされているとも言われているが、実際女性だけの町でいわゆる片親家庭は少なくあったとしても伯母叔母祖母などが関わるのでいわゆるワンオペ育児にはなりにくい。元々核家族が少ない事もあり大家族同士の離婚は問題が肥大化しやすい事もあり避けられがちで、それらが離婚の二文字を尚更遠くしていた。




