「研修」
そんな嚙み合わないようなデートっぽい付き合いをしていた糸川であったが、新年会の余韻がようやく抜けた頃の仕事中に見知らぬ電話番号からの着信を受け、帰宅後スマホを動かした。
「和賀正美です」
「ああはい、糸川です」
ほどなくして飛んで来た声の主の名は、和賀正美。
野川の同僚の女性からの着信。一応はあの食堂で話した事もあるし野川からも頼れる先達であると言う話を聞いていた彼女からの連絡に、ようやく気を抜こうとしていた糸川は背筋を正す。
「糸川さんはうちの野川とお付き合いしているとか」
「ええはい一応」
「野川も糸川さんの事を好いているようで」
「そうですかね、なんか僕毎回毎回漫画の話を教えてるって言うか聞いてるだけって感じで、これが好感度の現れなのか分かりませんよ」
「女性だけの町では漫画の話なんかしないそうですから、それこそ未知のそれに触れて語り合えるのが嬉しいんじゃないでしょうか」
「その気持ちはわかります。未知の存在に触れて行くのが嬉しいのは…まあわかりますよ」
未知の存在が楽しいのは、ひとえに若さのおかげだろう。
私などはこの年になるとどうにも見知らぬ存在に突っ込んで行くのは億劫である。もっともこの商売などは好奇心がなくなれば死ぬしかないようなお仕事でありそれでも無理矢理に動くしかない面はあるがそれでも「女性だけの町」にかなりの部分を突っ込んでしまった以上その先を見つけるのに四苦八苦しているのが現状である。
私などをはるかに凌駕している野川拓海の存在は糸川久太郎にとっても良い意味での刺激物であり、まだそれほど仕事に慣れず苦労も多い糸川の心を癒していた。
「それでなんですが…」
「何かあったんですか」
「彼女、もうすぐうちの職場を去る予定なんです」
そんな彼女が、いきなり仕事を辞める—————。
仕事の話も聞くが不満など感じた事のない感じだったのに、なぜいきなりそんな事になるのか。
「まさか寿退社」
「落ち着いて下さい!落ち着いて下さいってば!」
「ああすみません、で、何故ですか!」
「理由については本人から聞いてないんですけど、最初から一年か二年ほど勤めたらと言う予定で、まあいわゆる契約社員って訳で。所長も正社員でって言ってたんですけど」
「断られたと」
「はい。所長も残念がっておりました。このままいけば俺の跡を継いで所長になれるかもとか浮かれていたんですが」
野川拓海が正社員採用されそうなのは糸川には納得だった。女性しかいない中で出会った男性たちに対して無暗に警戒するでもなく敵意をむき出しにするでもなくフラットに接し、それでいて全く未知の存在をうまく体系的にまとめしっかりと咀嚼している能力の高さを思えば合点が行く事が多すぎた。
「一年と言いますと…」
「ええ、あと二か月でここを去ると…」
「あと二か月で!?」
「正確には再来月末ですが」
再来月末。要するに三月末。時期としてはわからないではないが、それでもあまりにも早すぎる。
それこそわずか一年だけで外の世界を去り元の女性だけの町へと戻るにはあまりに勿体ない。
「それってまさか!僕が何かを!」
「その件についてはうかがっておりません。では」
そこまでで通話は切れた。かけ直してもつながらない。
あまりに唐突な別れ。直接的でこそないが、男である糸川久太郎にとってはそれこそ絶対に乗り越えられない厚い壁。
性転換者はおろかキウイフルーツのような雄花の存在する植物ですら侵入できない他国への転居、と言うか帰国。
そうなれば、もう二度と会う機会など巡って来ない。
「もしもし!もしもし!もしもし!」
五分ほど制止していた糸川は、目を覚ますと矢も楯もたまらずと言った風情で野川の番号を打ち込んだ。メルアドもLINEも知っていたし番号など登録されているはずだったが、それでも右手の親指が勝手に動いた。
すぐ返事が返って来る訳がないのにもしもしと連呼し、必死に相手を求める。
「申し訳ありません、どうしましたか」
そして七分ほど叫んで声が枯れかかった頃、ようやく野川の声が入った。
「ああもしもし!今、和賀さんって人、ああ野川さんの上司の方からお電話をいただきまして!」
「和賀さんがですか、それで何と」
「えっと、その、もうすぐ、今の会社を辞めるとか!あの、その、それが、本当なのかどうか!教えて下さい!」
「すいません、本当です……」
真っ赤に染まった頬と手と上がり切った体温をぶつけるかのように、叫ぶ青年。側に居たら耳が痛くなる事必死の声を、野川拓海は冷静に受け止める。
そのフレーズは、残酷だったが。




