崩れた決意
彼に取って、一人っきりでの旅行はその時が初めてだった。
大学生になって一人暮らしをするようになったとは言え、その大学は家からでも徒歩二時間半、電車を使えば四十分と言う通学圏内。一人っきりでの外出と言えば学校か塾か一人暮らしになってからの買い物かぐらい。それこそ、新幹線で遠くまで行くなど初めてだった。もちろん乗り方などわかっていたが、それでも家族旅行以外では初めてとでも言うべき遠出であり、文字通りの自立への道のりだった。
彼女から聞かされた、悪。
その悪により、一人の女性が多くをと言うかほぼ全てを失ってしまったと言う現実。
「そんな物を見せてヘラヘラと笑うような無神経な人間にはならないで下さい、そしてそういう女性をどうか選ばないで下さい」
そして、その女性の心底からの涙。
彼女の口からつらつらと挙げられた「悪行」の数々。
大学生の彼にふさわしい「大学ノート」に記された彼女の苦難の日々。
その全てが、彼を動かしていた。
彼女から借り受けたノートを開き、目を爛々と輝かせる。
恐ろしく勉強熱心であった彼はその悪を正確に覚え込み、得られた情報を頼りに像を作り上げた。
拝金主義者、大衆迎合、欲望塗れ。
世間的には勝ち得るすべてのそれを手に入れた代わりに人間としては全く誰にも尊敬されない存在であり、独裁者であり暴虐な支配者。それも自分たちだけではなく、世界を支配する存在。
そんな事を、本気で思っていたと言う。
「相談もしました。しかしそれって女外されるようなBBAじゃないかと言われて頭に来てしまったんです」
「BBA…」
「私だってその言葉は知っていましたが、誰だって好き嫌いと言う物はあるからわざわざそんな蔑称で呼ぶ必要はないと思いまして」
BBAことビクビクおばさんの事は彼も知っていた。それでも人の趣味趣向など人それぞれでありわざわざそんな風にレッテル貼りをする必要もないと思っていた。思っていたのに、そんな事をしてしまったのはなぜか。
「その過程でいくらでもチャンスがあったのに気が付かなかった、そうよく言われます。大学に帰ってからも友人たちに散々馬鹿にされましたよ、素直に気が付かなかったと言ったらまた親しくなれましたけど」
「あなたはいい友達を持ちましたね」
「とにかく、ボランティア活動の一環だったのかもしれません。やらない善よりやる偽善とか言いますけど、やらない独善よりやる独善なんでしょうか」
独善こそ、女性だけの町の本質だと言う評論家もいる。最初から自分たちの要求こそ絶対正義とまでに思い上がらねばこんな事など出来ないと言う見方であるが、そんなのはどっちもどっちでしかない。
多くの偉業と言うのはえてして最初は独善として見られ、それは科学的発展においてもしかりである。客観的なデータを証明しきれないような時代や環境においてなされた偉大な発見は多くが独善の烙印を押され、それに負けずに突き進むか仲間をかき集めてさらに正しさを証明するか、死後になってしっかりとしたデータなど客観的なデータを持った存在に発掘されるかまた別の方向で見つけられるかのどれかにしかならない。
女性だけの町が偉大なる行いであったがただの暴走であったかが決まるまでは、まだ数百年とかかるかもしれない。もちろんそれまでぶつくさ言わず黙っていろと言うのは暴論だが、それでも人間はそこまで忍耐力はない。
—————だから。
「え、ちょっと……」
その男が待っていると言う町にたどり着いた彼はアポイントメントも取らずに、会いに行こうとした。今になって思うとこの時点でかなり恥ずかしかったと言っているが、その上にタクシーで案内された場所を見てだんだん顔が赤くなり、そして青くなって行ったと言う。
どう見ても、墓地。
「そんな…………」
彼は、全身から力が抜けていた。
その男が既に、亡くなっている事すら知らなかった。
しかも、一年も前に。
「ニュースでも相当に話題になっていたはずなのに、なぜ」
「アンテナが狂っていたんだと思います」
そう簡単に言う彼であったが、それでもそんな重大なニュースを知らないと言う自分が情けなくなった。
国民的、いや世界的漫画家を知らずに過ごして来た自分がどれほどまでに視野が、いや了見が狭いか。
その事を思い知らさせれた彼は墓と言うか記念館の前で熱狂的ファンのように泣き崩れ、その姿を耳目にさらした。
恨みつらみを記したノートをそこで見せなかった事と、
「悪い女に引っかかったもんだな」
と言う仲間の言葉が、何よりのなぐさめであり、何よりの事実だった。




