アンチもいない存在の意義
私はノンフィクション作家と言う事になっているが、もちろんフィクションも読む。書けはしないが、読む。
そして小説に限らず話には、どうしても悪役が要る。恋愛小説でも「恋敵」と言うぐらいだからその手の存在はおり、その手の存在はどうしても読者から不興を買う。
いや、不興を買うために存在している。
「嫌われもしないキャラに何の意味がある」
誰かがそう言った通り、本来のライバルキャラの影が薄くなりすぎてあわてて別キャラを出世させたとか言う話は結構ある。
ノンフィクションの不自由な点は、そんな都合のいい悪役など存在しないと言う事だ。それゆえにリアリティがあるとも言われるが、本と言うのが一種の増幅装置である以上どこか奇形じみた存在にしなければならない。100%の正確な把握など無理であり、例え出来たとしてもその時点でのそれでしかない以上日々刻々と変化する状況の中では下手すれば一日経てば時代遅れになっている危険性さえある。
だから
「本で読んだのと違う」
と言う指摘をされたら甘んじて受けるしかない現実については平謝りする他ない現実を、これから私たちの後を追おうとする存在には踏まえていただきたい。
「トムトムさんにもそういう人って」
「いませんよ。同人なんてニッチにニッチを極めたようなものですからね。さすがに落丁とか乱丁は怒られますけど、まあ二次創作はまだしもオリジナルには。ただそれでも大っぴらには言えませんけどね、作風が18禁ものなのもありますけど」
「18禁と言うのは18歳以上ならばOKとも言えますからね」
18禁とか言う基準についてうんぬん言う気はここではないが、それでも18禁と言う言葉はなかなか破壊力がある。まだそこに踏み込めない中高生からしてみれば時間が解決とか言うまだるっこしい現実と知識欲の間で揺れ動く存在であり未知のフロンティアだ。
その際にその手の欲望を抑えこみ高尚なそれに変化するのを心理学用語で「昇華」と言うが、そんな理想的な反応ができるユウトウセイはそんなにいない。多くの人間はその手に付いての欲望を満たすべく先達たちに聞き出し、親や法律の想定よりも早くその情報を得ようとする。親に聞かないのは第二次反抗期の時期にあるのと親にそういう期待を抱けない事をわかっているからだろう。
だが理科や保険の授業でその手の事は知識としては知ってしまうとか知らなければならなくなるし、どんなに興味なしを振りかざしても逃げる事は出来ない話だった。
言うまでもなく、大人とはその手の教育を受けた人間のはずだ。それなのに、
——————————らしい。
「私はあの第三次大戦の実行犯の女性にインタビューした事があります。なぜ女性だけの町へと移って来たのかと。そうしたら彼女は、ちまたに溢れる煽情的なそれが許せず、それを見聞したくなかったがゆえにと言う平均的な言葉をくれました」
「平均的な言葉…」
「もちろんその時には第三次大戦から時も経っていましたが彼女は一人の女性を殺した罪により終身刑となっていまして。曰く、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかったと」
「公共物ですよね」
「公共物とは何もお役所大企業がやっているシロモノとは限りません。この情報が光速で広まる時代、存在するだけで公共物です」
その公共物にさえ、いやむしろ公共物だからこそ噛み付く人種だと言うのが女性だけの町が出来る前の女性だけの町の住人の平均的な姿であり、現在におけるJF党の平均的イメージだった。
彼女たちを自分が不健全だと見なした存在に対してまるでハイエナの如く噛み付いては食い尽くすと言う批評もあれば、ハイエナと呼ぶのはハイエナに失礼だと言う人もいるほど苛烈な存在であると彼女たちを批評する人もいる。
実際ハイエナがいなければライオンに襲われた死体は腐敗し環境を悪化させるからハイエナの存在は必要不可欠であるが彼女たちの存在は不必要だとか言う事らしいが、実際彼女たちが噛み付くのは新鮮なシマウマだった。
シマウマと言う草食動物をライオンたちが食べるのを阻み、自分だけで食い尽くそうとする。そんな事をすればライオンは絶滅する。ライオンの寡欲さを持たないハイエナはそれこそシマウマを徹底的に食い荒らし、シマウマすら絶滅させるかもしれない。ハイエナが寡欲になればシマウマは滅びないかもしれないが、そのハイエナに価値はあるのか。
ハイエナは死肉を食い尽くすが彼女たちは生肉を食い荒らし、死肉にしてライオンに投げ付ける。そしてその死肉を食うのはハイエナだけであり、これでは繁栄するのはハイエナだけである。そしてその顛末は言うまでもなくシマウマの絶滅からのハイエナの絶滅であり、勝者など誰もいないバッドエンディングである。




