ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアの烙印
JF党については幾たびも述べて来たが、彼女たちの思想はかつての女性だけの町の創始者のそれに近いと言われる事が多い。
JF党はマニフェストとして外部に対し第一次大戦の時のように強く吠えかかるべきであると強く宣言しており、何なら世界中を自分たちの思想で支配する事を目的としているとも言われた。
結果的に女性だけの町内での政権も奪えずテロ活動に走ってしまった以上かの第一次大戦の戦犯となった女性と同類項扱いされてしまったのもその扱いに拍車をかけており、その思想は危険思想の烙印を押されるに至ってしまった。
「大自棄に なったついでに よき人を 谷に押し込め 将の功成る」
第一次大戦の最中にある誌に掲載された短歌だが、実に言い得て妙である。
その第一次大戦にてさんざん言われたのが、「公序良俗」だった。
後の女性だけの町の住民は盛んに公序良俗の四文字を持ち出し、自分たちの眼鏡に叶わぬ存在を批判した。
だが頻発された言葉は摩耗する物であり、様々な形で「コージョーリョーゾク」を揶揄する存在が生まれた。
ある意味ではいかにも女性だけの町にてサンドバッグにされるために作られたような「萌えるゴミ」たちもその一環であり、ある意味完成された存在なのだろう。
そして、先の短歌もだった。
やけくそを極めた結果、力が暴発して本来守るべきよい人間を谷底に落として何とも思わず成功できるのだと言う自己都合に満ちた正義の勝手さを表していると同時に「おお自棄」「ついでに」「よき」「人を谷」となっている。歌そのものは即興であろうが、それでも第一次大戦の空気を感じさせる静かな戦いの歌だった。
だが無論これは彼女たちの逆鱗に触れる物であり、詠み人と言われた存在と雑誌は徹底的にバッシングを浴びた。そのバッシングが余計に説得力を高めていると揶揄された事もあるが、実際一番打撃の大きな方法だった。
表立って向かって来るならば対処もできるが、「功成る将」と言うあいまいな言葉により存在を微妙に濁している。古今東西、旧弊と言うか既得権益にしがみつき全てを失った例は枚挙に暇がない。そしてその旧弊が倒れる時と言うのは価値観の大幅な変化が起こり、旧来の「公序良俗」が崩れる時でもある。そういう意味で汎用性の高いその一首に刺さってのたうち回ると言うか騒ぎまくるその姿は、多くの先人たちの轍を踏んでいるようで実に滑稽に見えてしまったのだろう。
いっそ真正面から殴って来てくれた方がましだったかもしれないのに、こうして搦め手でやられるのは一番腹立たしいのはわかる。だが所詮言論で押している以上、言論で押し返されるのは自然な流れだった。
だが、それ以上に問題だったのはそんな事を言うのがいっぱいいっぱいな一般人たちではなく、大企業だった。
彼女たちが目を付けたのは室村社のような大企業であり、少しでも気に入らぬと見るや次々と非難声明と言う名の抗議文を送り付けた。抗議文と言っても紙の上に延々と書き連ねる訳でもなく、推敲した上でどうにかする訳でもなく、ぶっちゃけた話大半が感情まかせの羅列だった。そんな力任せの言葉を、散発的ではあるが力任せに投げ付ける。もちろんメインターゲットだけではなく至る所に、それをやれば自分たちにとって不幸になりますよと言わんばかりに。
だが無論その爆弾は非難を持って迎えられ、正しい意味で「命中」した人間たちはともかく、多くの一般人からは過剰反応の烙印を押されそれと同時に「金」の問題を出された。
—————彼女たちの言う事を聞いてその通りにしたとして、一体そのためにどれだけの費用が掛かるのか。
またさらにその結果どれだけの客が離れて行くのか。
そしてそこまで口にした連中が果たしてその自分が思い通りにした存在に金を落とすのか。
その三つの疑問に対し、彼女たちが正確な答えを出した事はない。
これだから拝金主義者は、これだから性欲の塊は、これだから愚民は。
言葉を飾っていてもその三つの結論に達してしまうせいで彼女らの主張は空虚なそれになってしまい、「ただ「私が嫌い」って言えばいいのに」」と言う全く身も蓋もない理屈が横行した。
実際、現在の女性だけの町の住民たちさえもこの問題に付いて語る事はしない。
「私たちはこの程度の存在としか思っていないが楽しいと思うなら勝手にやってろ」
と言うのがだいたいの基本姿勢であり現状好意的に受け止められている。
全く一方的に人様の楽しみを妨害するな、と言うのが彼女たちが敵視して来たそれを崇める人種の共通項であり、ある意味もっとも正しい付き合い方かもしれない。
それが出来ない人間の事を、世人は「ソーシャル・ジャスティス・ウォーリア」と呼んでいた。




