「田中氏の作品はまだご覧になりませんが」
顧みず、声も出せず、私は玄関を飛び出して、体を震わせながら、口に出さずにいられなかった。
「この展示会、いったいなんだったんだ」
入試に合格したとはいえ、ただの始まりである。四月から始まる新学期の為にも、将来の就職のためにも、この冬休みを無駄にせず、充実に過ごすようにと、入試合格の通知を受けてすぐ、心の中で誓った。
しかし、兎小屋は狭すぎて、おまけに玄関が水のたまりになるほど湿気っていたため、対処に草臥れた私はいっそ諦め、極寒を忍んで、学校の図書館で勉強するようにした。
二月下旬の日、早朝の寒気を凌いで、辛うじて図書館に着いたら、正面玄関の向こうの展示室のことに気づいた。
扉が大きく開いて、片側に大きなポスターが貼ってある。
「美術学部作品展示会」
「もう二月下旬で真冬とは言えないものの、冬休みの最中にこんな展示会を行うとは、さすがに頭が可笑しすぎるんじゃないか。」
心の中にツッコんだが、興味が唆された私は、結局足に裏切られ、中に入り込んだ。
何故だか、中には一人もいない。あるのは扉の隣にある小さなテーブルと開いたノート、その黄ばんで、皴だらけの紙にまたツッコみを促された。
「国立大のくせに、学部の展示会に一冊のノートも用意できないか」
紙上には誰の名前も書いてない。決まっているだろう。今は十時で、開館したばかりで、きっと前のページにあるだろう。
しかし前のページにも何も書かれてない。
「私としたことが、昨日ここにまだ何も行われてないじゃないか。」
厳かにペンを取り上げて、「教育学部」と書きつけようとしたが、インクが一滴も出なかった。「教育学部」どころか、「教」さえ書けなかった。
「なんでこんなに不用意なんなの」と、またツッコみたくなった。
仕方ない、自分のペンで書こう。分厚い本に挟まれ、かばんの底に押されたが、辛うじて取り出して、「教育学部」と名前を、その古びた紙に書き残した。
「学部の展示会のくせに、もっといいノートといいペンを用意してやれよ」
書きながら、ツッコんだ。
「どうぞごゆっくりしてください。」
書き終わって頭を上げると、二人の女性が目の前に現れてきた。
「あっ」と、びっくりして思わず声を出した。先まで誰もいなかったはずなのに、彼女たちはどこから現れたのか。
「あの、失礼ですが、お二人はいつ来たのか。先まで誰もいなかったはずですが。」
失礼極まりないかもしれないが、思わず口から出した。
二人の女性はくすくす笑って、「ずっとここにいたんですが、びっくりさせましたか。」と言いながら、テーブルに置かれたパンフレットを渡してくれて、
「この展示会は今年美術学部の卒業生たちの作品展示会です、どうぞごゆっくり」
気のせいかな、正直視線の盲点ということもあって、多分気づけなかっただけだろう。私も子供の頃親戚の家を訪ねたとき、人に気づかず、失礼なことして親に叱られたことがあるから。
なんだか不気味な感じがしたが、二人の何気ない様子を見て、自分の勘を疑わずにいられなくなった。
「ありがとうございます」
と、左の女性からパンフレットを受取って、作品をゆっくり味わっていった。
二十平方メートルぐらいの部屋で、十数枚の絵画が飾られている。二三枚は九条作で、五枚は神林、残りは田中と二ノ宮のもの。テーマは作者ごとに別々だが、どちらもグロスティックな感じで、気分がやや悪くなる。
幸い、今までpoxivを遊んで、R18もR18⁻Gも見まくった私にはそれぐらいのグロは全然大丈夫なんだ。とはいえ、やはりツッコみたくなった。
「現代芸術って、我々凡人にはわからないなあ」
この前もネットで現代芸術の動画を見たが、ナレーターさんも現代芸術をすこし突っ込んだ。やはり私見だけではなさそうだな。
鑑賞は左側の九条の作品から始まった。「九条…名門出身かな。」
絵より名前。やはり歴史の書物に拭けたせいか、頭もちょっとおかしくなった。
「おかしい展示会にはおかしい人、はああ」
当然、そのダジャレは二人が聞かされていないはずだ。
絵の内容は腐れかけた果物と側に立っている骸骨、その骨盤の形からして、さぞかし女性の骸骨だろう。
空虚だなあ。「芸術のことも分かってるね。」と、「我ぞ天才」のようにうぬぼれた。
しかし、それはネットの動画で学んだもので、やはり天才とは言えない。
あくまで心の考えで、やはり二人が聞かされていない。
近代芸術の復興かな、そういえばノスタルジーの作品も度々世に出ったんだな。自分もこの前、よっぽどの大金をかけてオークションに出回った勲一等の勲章と頸飾の複製品を買い取って、西園寺公望の気取りをした。有爵者大礼服と何の政治権力も持っていないんですが。
「西園寺も森有礼も、どんな気分だったかな…」
思いがだんだん遠くなっていった。そして風船の如く、遠方に飛んだ思いを私が引っ張って取り戻した。
でも、見れば見るほど、絵画の中身が本物に見える。とくにその蜜柑に生えたカビ、まるで生えているみたい。
「細密画にも負けない存在だな。ほら、その毛のようなカビ、近づいてみると一本一本、胞子まではっきり見えているじゃない。手で触ってみると、一本一本の存在も感じ取れるし、指にも…」
ええっ!?それに驚いた私は絵の側から眺めてみた。しかしあきらかに表面が平たく、でこぼこは少しあるが、一本一本生えているようなものなんて、全く見えなかった。
再び正面に戻ったら、蜜柑のカビはまだそこにある。しかし触ってみても生えたものなんて全然感じ取っていなかった。カビも、明らかに本物ならず、ただの絵だった。
手を見てみても、指には何もついていない。
あまり気分が悪くして、神林の作品に目を移った。
先の九条のと違って、こちらの作品はすべて油絵である。しかし内容は大差なく、グロスティック度がさらに高い。
描かれたのは押しつぶされたトマトと葡萄、そして朝鮮人参、真っ二つかズタズタにつぶされたか、散乱して幾つかが潰された内容であった。
生えたカビも、骸骨もない。果物だけだった。
惜しい。トマトや葡萄はともかく、朝鮮人参まで押しつぶされたなんてことには許さん。そんな焚琴煮鶴なことをするなら、私にくれればいいのに。こんな大きさだと、一キロを下らないだろう。相場では300グラムだけでも5000円以上かかる。一キロ以上だと1万円以上だろう。一万円あればファミリーレストランでサーロインステーキ八皿も食える。惜しいなあ…
思いに逃がされた。私はすぐ行動をとり、そいつを再逮捕した。
しかし、怪しいことに、そのトマトも葡萄も、朝鮮人参も、どんどん崩れ、生首、目玉、そして真っ二つされた人間に見えてしまう。葡萄の表面には瞳がついていて、そしてそのトマトの裂いたところも人間の目、人間の口に見え、朝鮮人参も真っ二つされて、死にかけ呻いている人間のように見えてきた。
疲れたかな。
わたしは眼鏡をはずし、少し目体操をやってみて、また近づいて見ようとした。
「助けて、死にたくない」
あまりの異音で、私は後ろに倒れた。眼鏡も外れた。驚きのせいか、動きたくとも体がちっとも動けない。
「すみません、大丈夫ですか」
一人のスタッフがそばに駆けつけてきて、手を差し伸べて起こしてくれた。
「すみません、地面が滑りやすいみたいで」
「あの、この絵画の後ろには発声装置でもあるのか」
「何の話ですか」
立ち上がった私は眼鏡をかけ直して、再び近づいて、チェックしてみた。しかし、何の変りもない。葡萄もトマトも、いつもの葡萄といつものトマトで、目玉とか血まみれの生首には、全く見えなくなった。
まさか疲れのせいか。そういえば最近よく夜更かしして、冬休みなのに、平日と変わらないスケジュールだった。
謝って、また隣の絵に目を移った。
赤いピーマンの中に人間の臓器にぎっしり詰まった内容である。
気分を取り戻してまた見てみたら、たしかに臓器なのだ。
しかし、動いたり、呻いたりなどはしていない。ただの臓器の絵だった。
とはいえ、さきの怪奇もあって、私は鑑賞しながらも、注意した。
「なかなかうまいね、心臓、肺、肝臓…私は今まで見た解剖学の図鑑を思い出して、比較しはじめた。どちらも正しい位置に書かれてあるみたい。」
「でもピーマンに肉詰めはあるけど、臓器を詰めるってなに?この首も手も足もないピーマンに臓器詰めるなんて、この前見た人体改造の絵画みたいね。脳も目も、さらに女性器まで胸部に詰め込み、生命維持装置で命を延長させるってSF的な内容。そういえばピーマンの肉詰めといえば、食べたいな、今夜はそれにしよう…」
思いが再び引き戻された。累犯な思いだった。
でも、触ってみればどうなるかな。触っちゃいけないはずですが、自分にも訳が分からなく、とっぴな発想が浮かんだ。
肝臓のところに私は指で突いてみた。すぐに刺されたような激痛が私の中に襲い掛かってきた。宛ら長い剣に貫通されたみたいな感じだった。
あまりの激痛で手を引いた。そして激痛も貫かれた感じも消え、瞬く間に何の感じもなくなった。
痛みからの回復で、気のせいかと、自分もわからなくなった。最近よく夜更かしして、度々肝臓から激痛があった。
それに今は何の感じもない。先は本当に激痛とかあったか。それともただの幻なの?自分にもわからなくなった。
しかし、さきから変なカビ、変な呻き声、そして、今の変な激痛、それぞれを総合的に考えて、夜更かしのせいで狂ったか、祓うべきものがあるかという。そうじゃなきゃ、いったいなんだ。
とにかく、長居すべからざるものだ。私はここから身を引こうと、首を振り返ろうとした。
一生忘れられない風景が迎えてきた。
二人の女性はまだテーブルの側に腰をかけている。
しかし、一人は血まみれの顔から、なにか尾がついた丸いものを取り出して拭いていて、もう一人の女性は片方の脳天がもうどこかに消え、開けっ放しの脳室に何か豆腐の如きが入っている。
神経付きの人間の目玉と脳みそだ。目前の風景に吐き気が催された。
この二人は人間ではないだ、さきのことは幻であっても、今のことはなんだ。また幻か。
とにかく、帰るべきだ。
しかし、今すぐ帰ってはいけない。もしここが妖怪か悪霊の罠だったとしたら、相手が正体を露わにしているときに堂々と前を通すなんて、「お前の正体が分かった」と言い放つ同然じゃないか。もしやられたら、どうなるかもわからない。
私は首を先のところに戻し、ハラハラしながらも、ゆっくり、たっぷりと味わっているふりを見せた。
「お客さん、この作品は面白く感じますか。」
その一言で、体をガクっと震わせた。
「この絵、なかなか意味深いですね。ピーマンに人の臓器が詰まっていて、まるで生きているみたい。これはアニミズム、万物に霊宿れりという古来の伝統の再解釈でなかなか意味深い。しかもこの心臓もこの肺も、もし古代医薬の思想に対応してみたら、まさに「天人一にして」の現代芸術の再現だ。すばらしい、まったく素晴らしいっ!」
何を言っていたんだ。
自分にもわからないが、しかしはらはらした気持ちを押しつぶして敢えて語った。
「ちょっとすみませんが、こっちに来てももらえませんか。」
さき目玉を拭いていた「目玉子」が近づいてきた。
しかし、目玉に何の異常も見えない。
とはいえ、「よっしゃー!」と言えるほどセーフになったとは言えない。
「何の問題ですか。」懇切な声であって、異常があるとは、顔からも声からも見えない。
「この絵が欲しい、卒業生の創作とはいえ、譲っていただけないだろうか」
「申し訳ございません。」
さっきと同じような若々しい声であった。
「そうですね。やはり残念です」
私が何気なくポケットからスマホを取り出し、ちらっと時間を見るふりをした。
11時だった。
昼食の時間とは少し言い難いが、昼食を食べたいという気持ちであってもおかしくない時間だろう。
「残念ですね」
度胸をつけようか、私はあえて大声で言い出した。
「パンフレットをもう少し受け取っていただけないでしょうか」
扉を出るところ、またガクっと、足が止められた。
ハラハラした気持ちでまた数枚もらって、感謝のふりをして、そして自動扉が開けるとすぐ風の如く飛び出し、校門まで止まらず逃げ去ってしまった。
あくる日、その怪しい展示会はもはやどこにも跡が残っていない。
ガラス越しに中を覗いてみると、テーブルはあるが、それしかなかった。扉も、鍵がきちんとかかった。
閲覧室に入ったところ、中の若いお姉さんに問いかけてみた。
「昨日の展示会とはなんだったんだ、変な声だったり、変な受付係だったり」
と言いたいところ、口を転じて問いかけた。
「あの、昨日一階の展示室で美術学部の卒業生作品展示会が行われましたよね」
次の答えに、私は惑わされた。
「展示会?いいえ、昨日は閉館でした。美術学部の卒業生作品展示会も、別のところ、別の時間に行われるはずですが」
「しかし、昨日ここに来た時、たしか下の展示室にはあったんですが」
「もしかして、記憶の間違いじゃないか」
鞄を開けて、貰ったパンフレットを見せようとしたが。勉強の本とパソコン以外、何もなかった。
後ろのお兄さんが語りかけてくれた。
「この人はお客さんではありませんか」
その前のモニターに映った画面は信じられないことだった。
閉まったままの自動扉と展示室の扉を私は次々と通り抜け、手が浮かんだまま何もないテーブルに何かを書き、何もない真っ白な壁に触ったり、指で突いたりして、そして、空気に向かって何かを貰った様子をして、飛び出すように閉まった自動扉を通り抜け、逃げだした。
「あなたは一体、何者だ」
フロントのお姉さんとお兄さんが私に向かってきた。私は不気味さとあまりの驚きで何も言えなかった。
二分三分後、私が思い出した。確か自分のペンで何かを書いたはずだった。
「中のテーブルを見せてくれませんか」
展示室の扉を開けると、私がすぐさま目星を見つけた。
小さな木製のテーブルの表面に「教育学部」と私の名前が書かれている。
私があまりの驚愕と恐ろしさ、そして少しの惑わしで、腰を抜けた。
すぐ始まった調査だが、何もわからなかった。警察に不法侵入で通報されても、その不可思議な映像とテーブルの落書きはやはり証拠にはならなかった。
わからないまま、兎小屋にも戻らず、勉強の気がどっかに言ってしまった私が、暖かいネットカフェでゲームに夢中にしてその悪夢を忘れさせようとした。
気づいたらもう深夜一時、帰らないといけない時間だった。
狭き路地を通り抜けているところ、背後から突然、声をかけられてきた。
「田中氏の作品はまだご覧になりませんが」
[終]