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星と海

星はなち

作者: 雨足怜

 一瞬にして、視界を星が瞬いた。それは、かつて見上げた星空のようで、そして彼が語った煌めく夜の海を思わせた。

 それが、ぼくが見た最後の世界だった。





 うまれつき、体に持病を抱えていた。

 そのせいで人より成長は遅く、体も弱く、運動もできなかった。

 周りの人が、妬ましくて仕方がなかった。

 どうして自分だけこんなにも辛い思いをしているのか――窓の外から聞こえてくる同世代の元気な声を聴きながら、ぼくはベッドに横になっていた。

 ある程度体が育ち、体力もついたころに正式な治療が始まった。家と病院を行き来して、学校にもほとんどいけなかった。

 元々体が弱いせいで、クラスからは浮いていた。ガキ大将みたいなやつが、どうしてぼくだけ体育に参加しないのかと文句のようなものを言い、それからハブられるようになった。

 だから学校はどうでもよかった。ただどうにも、病院という場所が嫌いだった。

 病院は、死を思わせる。漂う消毒液の香り、病的に清潔な白い壁、絶望した患者さん。絶望程度ならまだよかった。怖かったのは、虚ろな人。生きる気力が根こそぎ尽きたような、虚無を抱える人を見て、ぼくは激しい恐怖に襲われた。見てはいけないと、そう思った。

 そんな世界は、ぼくにとって鳥かごのような、牢獄のような場所だった。

 それでも耐えられたのは、献身的に支えてくれた人達がいたからだろう。両親に、姉、そして、ぼくの初恋の人でもある看護師さん。


 治療は成功し、ぼくはとうとう平凡な人になった。体力はなくて運動もからっきしだったけれど、闘病生活で獲得した忍耐だけは人一倍あって、じっと座って勉強しているのだって苦にはならなかった。

 そうしてぼくは、順風満帆な高校生活を始めた。


 生物部に入ったぼくは、先輩と共同で研究発表を行っていた。微生物が作り出すたんぱく質を抽出し、それを元に生分解性プラスチックを作ることを目標に掲げていた。

 論文を読み、色々と試しながら抽出操作を進めた。エタノールは酒税もかかって高いからメタノールで、なんて言われた時にはそれでいいのかと思った。

 菌の培養に失敗して、むせ返るような臭気に実験室が包まれた日もあった。納豆の十倍は臭かったと思う。

 毎日が楽しかった。それは、ぼくが求めてやまなかった日常だった。ありふれた、誰もが当たり前に享受している平凡な生活。

 ぼくは、希求していたそれをついに手に入れていた。

 友人もたくさんできた。親友と呼べるようなやつだってできた。彼女こそいなかったけれど、おおむね幸せな学校生活だった。

 ただ一つ、経過観察として病院に足を運ばなければならないことを除けば。


 それは、何の脈絡もなく訪れた。

 高校一年の二学期、文化祭などのめぼしい行事を終えて、どこか緩慢とした空気が学校に流れていた。

 家庭科の時間。気取った年配の女性の先生がやれアミロースだアミロペクチンだと話している中、突如ぼくの視界に星が瞬いた。

 ぶわりと広がるそれは、まるで長年掃除していなかった部屋で窓を開き、吹き込んだ風によって舞い上げられた埃が差し込む光に煌めいたようだった。あるいは、薄暮に煌めく星を見ているような感覚だろうか。

 きれいで、同時にひどく怖いものだった。

 光は強まり、世界は閃光に染まった。

 真っ白な視界の中、ぼくは自分が白昼夢に陥ったような面持ちでいた。眠いのかと、そう思いながら腕の皮膚を軽く抓っているうちに目のくらみは収まった。

 何だったのだろうと思いながらも授業を受け、学校を休んで病院に向かった。

 治療の後遺症という可能性は否定された。気になるようだったら眼科に行くようにとは言われたけれど、これ以上他の病院になんて行きたくはなかったから気にしないことにした。

 心に根を張ったわずかな不安から目をそらし、ぼくは日常に戻った。


 最初の一回から一週間ほど経った日、再び視界を閃光が瞬いた。

 さらに数度続いたところで、ぼくは定期検診の際に再び光のことを話した。

 異常はなく、ぼくは「このヤブ医者め」と毒づきながら、眼科に行くことはなかった。

 街に一つしかない、年寄りの男性がやっている眼科は、住民たちの間で恐怖の病院と呼ばれていたことも、ぼくの足が遠のいた理由だった。

 耄碌しているんじゃないかと思える、手の震えが酷い医者なのだ。滑舌が悪くて、ぼそぼそとした声はほとんど聞き取れず、瞼が垂れてほとんど閉じてしまった目からわずかに覗く暗い眼光は、幼いぼくの心に強いトラウマを刻んだ。


 高校二年になっても、時折光がぼくの視界を飲み込んだ。それはもはやぼくの日常の一部となっていた。

 だから、定期検診に向かう最中も、ぼくがそのことを相談しようと思うことはなかった。

 ぼくが生まれ育ったのは、海沿いの街だ。なだらかな丘を中心に、東側に海岸線が続く。

 その麓、海に近い場所に、ぼくが通う病院はあった。

 潮風にさらされた外観は色褪せ、夜には前を歩くのだってお断りしたいようなおどろおどろしい姿をさらす。海沿いの道にぽつりぽつりと存在する街灯。その光を浴びて暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる白い塗装の病院は、それはもう不気味だった。

 そしてその日は、急患が入ってしまったせいで医師の手が空かず、ぼくは完全に待ちぼうけを食らっていた。

 病院の中を歩き回る趣味もない。いつも通りすぐに検診を受けることになると思っていたから暇つぶし用のものだって持ってきていない。いつ呼ばれるかもわからなかったから一度家に帰るというのもためらわれ、ぼくは何となく階段を上り、解放された屋上へと足を運んだ。

 西日で真っ赤に照らされた空に背を向け、暗がりに沈む海を眺める。段々と黒く染まっていく海は、まるで世界の全てを飲み込もうとしているようだった。

 迫るそれにわずかな恐怖を感じながら、ぼくは無意識のうちに体を抱いていた。

「……怖いか?」

 ふと、吹きすさぶ風の音に紛れて、低い声が聞こえて来た。

 思わず振り向けば、杖を突いた枯れ木のようにやせ細った男性が、たった一つ、出入り口の陰に隠れるようにぽつんと置かれたベンチに座ってぼくを見ていた。白髪交じりの、シルバーフレームの眼鏡を掛けた、少しきつい印象の男性だった。50代、くらいだろうか。

 じっと、どこか焦点のあっていない瞳が、真っすぐにぼくへ向けられていた。果たして、彼はぼくを見ていないようにも思えた。ぼくの体を透かし見るような、不思議な光を帯びた瞳。

 自然と唾を飲み、拳を握っていた。気圧されたみたいで、なんだかくやしかった。

「……ええと?」

「海が、怖いか?」

 ああ、この人はぼくの奥にある海を見ているのだと、そう気づいた。こうして対峙して話している今も、彼の目はぼくを捉えてはいなかった。ただじっと、海――その遥か彼方、水平線の向こうを見ているようだった。

 何か、あるのだろうか。そう思いながら、ぼくは闇に沈んで行く空をにらんだ。

 のっぺりとした海。曇りや嵐の日には、おどろおどろしい海も、曇っていなければ怖くなどない。

 怖い、か。そう考えたとき、心にあるわずかな恐怖が目についた。それから目をそらし、海を見る。母なる世界。ぼくたち生命が生まれた水の世界。

「……怖くは、ない、です」

「そう、か」

 言いながら、男性はゆっくりと立ち上がり、杖を突きながらぼくの横に歩み寄った。さび付いた鉄柵の奥、星を映す海面を、ただじっと、目を細めて見つめる。

「……海は、怖いですか?」

 気づけば、そんなことを聞いていた。初対面の相手に何を聞いているのだろうと思ったけれど、そもそも最初に聞いてきたのは彼だ。

 それになぜだか、彼がそう質問されたがっているようにぼくには感じられた。

「そう、だな。海は怖い。海は、僕の大切なものを奪っていった」

 一層鋭く細められた目。眼光には、激しい憎しみと、失意が宿っていた。大切な、もの――自然と、ぼくの視線は彼の手へと向いていた。無意識なのか、そっと撫でる左手の薬指、そこにはまった銀の指輪。

「……会えましたか?」

 それは、聞くべきではなかったかもしれない。おそらくは古い、傷をえぐる言葉。

 少しだけ目を開いた彼の顔には、わずかな驚きがあった。それから、唇を引き結んで小さく首を振った。

 大切な人が波にさらわれたのだと、そう思った。この辺りは強い離岸流で有名で、特にぼくたちの視界に広がるビーチは、遠泳禁止エリアに指定されている。時折、親の目を盗んだ子どもたちだけで遊んでいると、通りすがりの人が厳しく注意をする。

 ぼくも一度、病院帰りになんとなしに砂浜に座ってぼんやりと海を見ていた時、年老いた男の人に注意されたことがあった。

 ふと、横に立つ彼の顔に既視感を覚えた気がした。

「海は怖い。心にぽっかりと開いた悲しみは、長い時が経ってもまだ色褪せない」

 静かに語るその言葉は、打ち寄せては引いていく波のようだった。静かで、それでいて有無を言わせない、他者のことなど考慮しない自然のような声。

 ぼくに話しているのか、一人語っているのか。横顔からは、何もわからなかった。

 ただそこに確かに、まだ癒えぬ苦しみがあることだけがわかった。

「死んだと、そう思えない。まだ、彼女は生きているかもしれない、遠く、海からある日なんてことないような顔をしてやってくる……そんな日を、気づけば夢想している。夢に狂い、酒におぼれ、気づけば体を壊してこの様さ」

 飄々と肩を竦めてみせる彼の姿に、わずかな違和感を覚えた。じっと、横顔を見つめて、その正体に気づく。

 ぼくには計り知れない悲しみがそこにはあった。絶望と、夢にすがる自己への冷笑と失望、諦観。けれどその中に、かすかに明るい感情があったような、そんな気がした。

「……海は、好きですか?」

 嫌いだと、即座にそう返答がくると思った。けれど彼は、いつまで経っても好きとも嫌いとも言うことはなかった。

 ゆっくりと、彼が歩き出す。ベンチに向かう彼の背中を目で追う。

 気づけば太陽は沈んでおり、世界は夜に包まれ始めていた。

 闇の中を、青緑の服に身を包んだ彼が歩いていく。かつ、かつと杖が鳴り、ゆうらりゆらりと体が揺れる。

 海の波のように、潮風に揺れる草木のように。

 緩慢な動きでベンチに座った彼は、おもむろに空を見上げる。ぼくもまた、その視線を追った。

 どこまでも広がる星の海が、そこにあった。

 街の中心からやや離れたここは、人工の光が少なく、家のあたりよりずっときれいに星が見えた。

「……きれい」

「そう、だな」

 空が迫ってきているような気がした。不思議と、怖くはなかった。大自然の中にぼくの体が溶け込んで、一つになるような感覚。闇の中に瞬く星々の明かりが、そっとぼくの体を包んだ気がした。

 星に向かって、手を伸ばす。近くにあるようで遠いそれを、小さい頃、つかもうと必死になったことを思い出した。父さんの肩車で、空へ、空へと手を伸ばす。

「昔、星を掬おうとしたことがあった」

 童心に帰っていたぼくの耳に、彼の低い声が響いた。波紋のように心にしみわたるような声を噛みしめながら、首をひねる。星を、救う?

 そんなぼくの疑問に気づいているのかいないのか、彼は訥々と語り始めた。かつての、出逢いのことを。

「もう二十年ほど昔か。妻を失ってしばらくした頃に、海岸に一人でいた……三、四歳ほどの少女を見かけたんだ」

 虚空を見上げるその目には、きっとかつて出会ったという少女の姿が映っている。それはきっと、彼にとって大切な出会いだったのだと思う。先ほどまでの、孤独と失意に沈んだ顔に、わずかな赤みが戻っていた。

「死んだ両親の星をつかもうと手を伸ばす彼女と、海面に映った星を、傘で掬ったんだ。手放してしまったそれは、不安定ながらもひっくり返ることなく遥か遠くへと流れて行ったよ……妻が眠る、海の先へ」

 目を、閉じた。

 視界の中、星屑を瞬かせる海面に、まだ若い彼と小さな女の子が傘を突き刺す。傘の色は黒、だろうか。女の子を抱いた彼と女の子の手から離れた傘は、海から切り離された小さな暗い水面に映る星を運ぶように、静かに海の先へと流れて行く。その行方を、二人が見えなくなっても見続ける――

 死が、そこにあった。悼みがあった。ぼくにとって近くて遠い、永遠の別れ。

「……祖父に引き取られて行った彼女は、元気だろうか」

 ぽつりとこぼして、彼はそれっきり口を閉ざして水平線の向こうを見つめ続けた。

 ギィ、と扉が軋む音がする。うしろめたさを感じながら、ぼくは扉の方を振り向いた。まさか、ぼくを探してここまでやって来たのだろうか。

 果たして、さび付いた扉の向こうから屋上へと姿を現わしたのは、顔なじみの看護師である大垣さんだった。長い黒髪を後ろ手一つにまとめた、どこか浮世離れした気配を纏う彼女は、ぼくたちを視界に捉えて目を瞬かせた。

「遠藤さん……それに中野くんまで。そろそろ暗くなりましたし、中に入りましょう?」

「……そう、だな」

「はい」

 どうやらぼくと話していた男性――遠藤さんのことを探しに来たらしい大垣さんは、彼に気を配りながら、目くばせをくれた。遠藤さんとの会話に付き合ってくれてありがとうという、ただそれだけの意味のはずだ。

 けれど思春期の体は、たったそれだけでひどく動揺した。屋上を吹きすさぶ潮風が頬の熱を冷ますのを感じながら、ぼくは大垣さんたちを追って室内に戻った。

「中野くんは、今日も定期検診でしたか?」

「あ、はい。でもその……急患のせいかずっと呼ばれなくて」

「ああ、申し訳ありません。今日はどうしても医師の都合がつかなかったものですから」

「いえ!気にしないでください!全く問題ありません!」

「すみませんね。定期検診はまた後日に振り替えということで連絡をさせていただきます。……それと、できればもう少しだけ静かにお願いします」

 しー、と口に人差し指を当てる大垣さんを見て、胸に手を当てて呼吸を整える。落ち着け、ぼく。なぜだかぼくたちを見て、遠藤さんは眩しそうに目を細くしていた。いや、ただ目が悪いから細めになっているだけだろうか。

 なんだか生温かい視線を感じて、ぼくは再び頬が熱を帯びるのを感じた。

 なんとなく遠藤さんの病室までついていったぼくは、大垣さんと共に薄暗い廊下を歩く。

 ひたりひたりと、冷たい足音が響く。それはなぜだか、生者のものではないように聞こえた。背筋に、寒気が走った。

「もうだいぶ、日の入りが早くなりましたね」

「そうですね。既に外は真っ暗でしたね。そういえば、中野くんは遠藤さんと屋上で何を話されていたのですか?」

「ああ、遠藤さんの昔話です。二十年くらい前だったかな、海岸で両親を亡くした女の子と一緒に、海面に映った星を傘で掬おうとしたって話です」

 ふと、隣の足音が止まり、ぼくは数歩進んでから大垣さんへと振り返った。何かを考えるようにうつむき、床を睨んでいた大垣さんは、すぐに顔を上げてゆるりと首を振って歩き出した。

「傘で星を……メルヘンというか、とても心温まる光景が想像できますね」

「あ、はい。ぼくも同じことを思いました。話していた遠藤さんも、なんかこう、どことなく楽しそうで。遠藤さんの中で海が辛いだけのものじゃないのは、その子との時間のお陰なんじゃないかなって」

 驚いたように大垣さんが目を瞠った。零れ落ちそうな真っ黒な瞳が眼窩にゆれる。

「遠藤さんとは以前からの顔見知りなのですか?」

「いえ、さっき初めて話しました。その……海は怖いかって」

「……なるほど」

 多分、遠藤さんは中々他人を自分の懐に入れない人なんだと思う。どこまでも孤独で、過去の時間の中にある大切な人の記憶を、一人抱えて生きて来たんだと思う。

 そんな遠藤さんの話を、ぼくと、そしてたぶん大垣さんも知っているのだ。大垣さんと同じで、ぼくは遠藤さんに認められたということだろうか。

 だとしたら、うれしい。大垣さんの隣に肩を並べられた気がする。

 こうしている今も、大垣さんと隣り合って歩いているけれど、ぼくたちの間には大きな差がある。年齢の、生活習慣の、その他たくさんの差が。

 ちらりと、高身長な大垣さんを見る。ぼくよりほんの数センチほど背が低い彼女の長い睫毛が、小さく揺れていた。凛とした立ち振る舞い、仕事ではあるけれどどこまでも真摯になって接してくれる懐の深さ、時折こぼれる微笑み、その全てに、気づけばぼくは惹かれていた。

 ああ、好きだ――

 パチ、と蛍光灯が明滅する。

 そこで我に返って、ぼくは慌てて大垣さんから視線を逸らす。

「……どうかしましたか?」

「あ、いや、なんでもないです。延期になった定期検診はいつでも大丈夫なので、連絡ください」

 慌てて頭を下げる。

 せっかちですね、とおかしそうに笑う大垣さんを見たせいか、顔が熱かった。

 多分真っ赤になっている顔を隠し、逃げるようにぼくは病院の外に出た。

 大垣さんの笑顔が、脳裏から離れなかった。無数の大垣さんの顔が、姿が、浮かんでは消えていく。

 ふと、床を睨んでいた、先ほどの大垣さんの姿を思い出す。そのたたずまいに、なぜだか遠藤さんと同じ孤独を見た気がした。

 そういえばぼくは大垣さんのことを何一つ知らない。ただ、生まれたこの街に帰って来て看護師をやっているということだけ。

 大垣さんは、どんな人生を送って来たのだろうか。

 なぜだか、彼女は大きな死を背負っている気がした。


 時間は過ぎるように去った。

 行きたくもない病院も、大垣さんに会うためだと思えば苦ではなかった。それどころか、もっと頻繁に行ってもいいだなんていう気持ちもあった。

 高校三年に上がった。進路が目の前に迫っていた。勉強疲れのせいか目の焦点が合わなくて、コンタクトを使うようになった。

 疲れた目を閉じながら、考える。

 ぼくは、どうなりたいんだろう。どう生きたいんだろう。

 頭をよぎるのは大垣さんのことばかり。彼女の隣に並びたい、彼女と並んで、違和感のない大人になりたい。

 早く、大人になりたかった。七歳ほどの歳の差は、大人になれば多分あまり気にならないだろう。

 でも、美人な大垣さんは、きっといつ彼氏ができてもおかしくない。

 告白する勇気は、なかった。ただ、大垣さんの笑顔を見られるだけで幸せだった。

 いつまでもずっと、平凡な日々は続かない。進学で街を離れるかもしれない。就職したら、忙しくて大垣さんに会えなくなるかもしれない。

 そもそも、いつ定期検診が終了するかもわからない。ひょっとしたら、次にはもう、病院に行く理由がなくなるかもしれない。

 そうしたら、ぼくが大垣さんに会う方法はなくなってしまう。

「ハル?おーい、ハルー?」

 友人に話しかけられて、ぼくは慌てて顔を上げた。

 三限の、体育の時間のことだった。種目はバレー。前のチームの試合が終わって交代になり、ぼくは友人に言われるまま立ち上がり、コートに向かって一歩を踏み出して――

 視界を、星屑が埋め尽くした。わずかに黄色がかった白色の無数の点が、視界をちらついていた。それはあっという間に視界を埋め尽くした。

 それはまるで、世界に星を放ったようだった。

 なぜだか、それをきれいだと思うぼくがいた。

 それに恐怖するぼくがいた。

 もう一年ほど前、遠藤さんと見上げた星空のことを思い出した。吸い込まれそうな闇の中に光る星々。

 その夜空のように、無数の光は解けるように消え、そして世界は闇に閉ざされた。

「…………え?」

 世界から、音が消えた。自分という存在さえ、消えた気がした。

 けれど確かに、ぼくはそこにいた。呼吸をしていた。鼓動を感じた。瞼を開閉する感覚があった。

 それなのに、ぼくの視界は闇に閉ざされていた。

「……え?」

 うつむき、視界に両手をかざす。

 何も、見えなかった。

「ハル?」

 友人の声が響く。顔を、上げる。そこに、友人の姿は見えなかった。

 どれだけ目を凝らしても、どれだけ睨んでも、何も、光の一つさえ、見ることは叶わなかった。


 その日、ぼくは失明した。

 理由は、部活で使っていたメタノール。別名メチルアルコール――すなわち、目散るアルコール。

 大量の蒸気を日々の部活で吸い込み、それが視神経を侵し、傷つけ、最終的に失明に至ったらしい。

 学校側の管理問題とか、賠償だとか、怒り狂う両親の声を、どこか遠くのことのように聞いていた。

 ただ、怖かった。

 ぼくの目は何も映さない。もう一生、何を見ることも叶わない。

 一瞬、光が瞼の裏に灯った気がした。

 その時脳裏をよぎったのは、大垣さんの笑顔だった。あのかすかな微笑みも、もう見ることは叶わない。

 それに気づいたとき、ぼくはそれまで以上の絶望に、足元が崩れ去ったような感覚を味わった。

 声を出して泣いた。泣き続けた。

 それ以外にできることなんてなかった。何も思いつかなかった。

 神様は不平等だ。生まれつきの病気だけじゃなくて、ぼくに失明という試練を与えて来る。

 どうしろと言うんだ。目が見えなきゃ、何もできない。勉強の意味だってない。生きていくことが、日々の生活がおぼつかない。

 幼い頃にだってできた些細なことができなくなる。

 怒りと絶望で気が狂いそうだった。

 いいや、多分気がくるっていた。

 ぼくは、おかしくなっていたんだ。


 その日は、病院で再び診断を受けた。もう何度目になるかわからない精密検査は、やっぱりぼくの視力を回復させるのが絶望的なことだけが分かった。

 ぼく以上に怒りと絶望に叫ぶ両親の声を聴きながら、ぼくは立ち上がり、歩き出した。

 それなりに慣れてしまっている病院を、手で探りながら進んだ。手すりを伝い、聴覚だけを頼りに、暗闇の中を歩いた。

 もう、全てがどうでもよかった。もう、終わりにしたかった。こんな人生に、価値なんて感じられなかった。

 ぼくの人生は、終わった。けれど最後に、もう一度だけ、なぜだか彼に、遠藤さんに会いたかった。

 彼なら、ぼくのこの苦しみを共感してくれると思った。激しい絶望と怒りと喪失感。種類は違えど似たような失意を抱いて生きて来たであろう遠藤さんなら、ぼくを止めてくれるのではないかと思った。

 果たして、軋む扉を開いた先。屋上にはたぶん誰もいなかった。

 激しい潮風が頬をくすぐった。海の匂いが、香って来た。肌を刺す陽光のせいで、体が熱を帯びた。

 ふらり、ふらりと、ぼくは先へ進んだ。その先に、解放がある。前に伸ばしていた手が、手すりに触れた。ざらりとした錆びを感じた。

 ぼくの方向感覚が狂っていなければ、その先には海が広がる。

 耳を澄ます。潮の音。ひいては押し寄せる潮騒が、ぼくの鼓動に重なる。

 体が、世界と一つになる。吹き抜ける風が、ぼくを誘う。

 真っ暗な世界に、光が瞬いた気がした。意識の中、暗い海に浮かんだ傘が、星を抱えて彼方へと流れて行く。光が、遠ざかっていく。

 嫌だ、行くな。返してくれ、ぼくの視力を!

 手を、伸ばす。

 体が宙に浮いた。

 ああ、そうだ。ここは屋上の柵の手前だった――

 落ちる。

 不思議と、怖くはなかった。

 解放感だけが心を満たしていた。

 ようやく、この苦痛に満ちた人生が終わる――

「中野くん!」

 走馬灯だろうか、声が聞こえた気がした。大垣さんの、声。

 ガシ、と胴体をつかまれた。体が、後方へと引っ張られる。

 しりもち。やわらかいものに、乗っていた。

 ぼくと、それから誰かのうめき声。

「どうして死のうとなんてするの!?」

 悲鳴のような声が聞こえた。声を荒らげる彼女は、ぼくの勘違いでなければ大垣さんのものだった。

 無性に怒りが湧いた。自立した大人として生きている大垣さんには、きっと今のぼくの苦しみなんてわかるはずがない。だって、ぼくにはもう、未来がない。未来が見えない。いや、未来どころか今現在だって見えない。文字通り、お先真っ暗だった。

 こんなぼくのことなんて、大垣さんには分からない。分かるはずがない。この絶望を、この痛みを、この苦しみを!もどかしい自分に対する怒りを!病院に行かなかった自分への憎悪を!後悔を、彼女は理解できない!

 もがく。見えてないぼくと見えている大垣さんの差か、あるいは運動能力の違いか、ぼくは自分を捕まえる大垣さんの腕から逃れることはできなかった。

 代わりに慟哭のような絶叫が喉を迸った。溢れる激情が、涙となって頬を伝った。

「放っておいてください!もう、嫌なんだ!だって、こんな人生、これ以上生きてる価値がない!」

「価値がないわけないじゃない!」

 悲痛な声が聞こえた。大垣さんのものとは思えない声。すがるように、大垣さんがぼくを背中から抱きしめた。行かないでと親にせまる、幼子のように。

「……大垣、さん」

 途端に、気恥ずかしさが心に満ちた。死にたいという思い以上に、大垣さんの前でみっともない姿をさらしていることが心に重くのしかかった。

「ぼくは、どうしたらいいですか?どうすれば、いいですか?」

 唇をわななかせながら、物を知らぬ子どものようにぼくは尋ねた。ぼくの価値を、尋ねた。ぼくの未来を、尋ねた。大垣さんの中にいる「ぼく」のことを、尋ねた。その、大きさを、大垣さんにとってのぼくという存在の、価値を。

 いいや、本当はわかっていた。大垣さんにとって、ぼくは一患者に過ぎないと。必死にぼくを抱き留め、言葉を投げかけて来る大垣さんは、けれどぼくと話してはいなかった。まるで、ぼくに重ねた誰かと、話しているようだった。大垣さんの心の中にいる誰かへ、彼女は言葉を投げかけていた。

 だからこそ、続く言葉はある程度予想がついた。そしてその言葉は、ぼくが歩き出すための理由に足るものだと、確信していた。

 だって、大垣さんは、ぼくが好きになった、ぼくが今でも好きな人だから。

「……わたしがあなたの、導きの星になるから。だから生きて。死なないで。お願いだから、もう二度とわたしを、一人にしないでッ」

 二人っきりの屋上に、大垣さんの慟哭が響いた。背中が、熱いものでぬれる。震える大垣さんを励ますように、ぼくはそっと、自分を抱き留める彼女の腕に手を添えた。

 折れてしまいそうな細い腕。それは、ぼくを現世につなぎとめる呪縛であり、ぼくが生きる理由そのものだった。

 導きの星――ああ、ぼくにとって彼女は、大垣さんはぼくを導く希望の星だ。未来へと続く道を指し示してくれる光だ。枯れ果てたぼくの心に、生きる動機を与えてくれる慈雨の存在だ。

「……生きるよ。生きる。だから……待っていて」

 彼女は、何も答えなかった。ただ、小さくすすり泣く音だけが、ぼくの耳に届いていた。

 カラスの鳴き声が消えていく。肌を冷たい風が撫でる。

 ぶるりと体を震わせながら、ぼくは空を見上げる。何も映ることのない虚無の先には、きっとどこまでもまばゆい、美しい星空が広がっている。

 ゆっくりとぼくの体を離した大垣さんと片手を握りながら、ぼくは暗闇の先へと手を伸ばす。

 その時、ふっと、ぼくと大垣さんがつなぐ手から、強い熱が飛び出して、真っすぐ空へと上ったような気がした。

 その熱は遥か天高くまで飛び、空に並ぶ星々の一つに収まるのだ。

 その星はきっと、ぼくにだけ感じられることができる導きの星。

 空に放ったその星を追えば、ぼくはどこまでも歩いていける気がした。






『もう大丈夫そうだな』

 立ち直ったぼくは、生きるために、大垣さんの隣に並ぶために生き始めた。そんなぼくの前へとふらりとやって来た遠藤さんは、顔こそ見えないものの、けれどきっとすごく慈愛に満ちた顔をしている気がした。どこか楽しそうな声音で告げた彼は、訥々と語った。

 かつて、共に星を掬った少女の、名前を。そして、ぼくは彼に託された。

 大垣みういという人を、孤独から救い、共に生きることを。

 ぼくはあらん限りの覚悟を込めて「はい」と告げ、深く頭を下げた。


 それから一週間後、遠藤さんは眠るように息を引き取った。末期がんに侵されていた彼は、けれどホスピスに入ることも自宅で最期の時を過ごすこともなく、ただじっと、この病院で生きていた。その理由はもう、語るまでもないことだった。

 手を引く大垣さんの温もりを感じながら、ぼくは心の中で師匠と呼ぶ彼の旅立ちを祈った。

 そうしてまた一つ、空に星が昇った。

 昔、幼い少女は、空で見守っているという亡き両親に会いたくて、星をつかもうとしたという。けれど星は遥か遠く、さらには無数に瞬く星々の中から両親の星を見つけ出すことだってできやしなかった。

 それでも、遠藤さんは少女と一緒に星を掬った。

 そして、少女の小さな手のひらに両親の星を収めた後、その星たちは彼の妻が眠る海へと、向かっていった。

 まるで、彼から彼女への贈り物のように。

 自分はここにいるぞと、そんな言葉が籠っていたかもしれない星は、きっと届け先に届いたのだ。

 ああ、だって。

 空に向かって放たれた星は、ただ一直線に、彼を待つ光の下へと向かっていたから。

 小さな赤子を抱いた儚げな女性の姿が瞼に映った気がした。

 それはたぶん、ぼくの勘違い。闇に閉ざされたこの眼は、もう何を映すこともない。

 けれどそれでも、ぼくに向かって頭を下げる彼ら三人が、空で幸せに暮らしていくことができますようにと、ぼくは祈った。

 そして、彼らのような幸福に、ぼくもたどり着きたいと思った。

 他の誰でもない、孤独の星にいる、ぼくの隣に立つ女性と一緒に、幸せになりたい。


 星は願掛けの対象なのだと彼女は言う。

 星は必ずしも言葉を聞いてくれるわけではないけれど、空でわたしたちを見守っている星々は、たまに気まぐれに手を貸してくれるかもしれないと。

 それから時折ぼくを襲った困難も、なぜだかとんとん拍子に解決した。

 ぼくはそんな時、いつも空を見上げ、そこに煌めく星々のことを想った。


 天蓋へと放たれた星々は、今日もぼくたちを見守っている。


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