うちのお嬢は許嫁がいない
「ヴィクトリア!」
「……はい?」
突然背後からかけられた声に、お嬢は不機嫌そうに振り返りました。
お嬢の背後には私――セヴァスがおり、右隣りにはエトワール様がおられます。
見ていただいたらわかるとおり、お嬢は久々に友人との楽しい昼食をとられ、上機嫌に教室に戻っている最中でした。
そんな楽しい気分に水を差されたのがよほど気に障ったのでしょう。今のお嬢の視線は普段の三割増し狂暴です。
「まるで、普段から凶暴な目つきをしている。と言いたげですね、セヴァス」
「まだ何も言っていませんが?」
「おおよそ予想通りのことを言うつもりだったのは否定しないのね?」
呆れたようにため息をつくお嬢に無視され、声をかけてきた御仁は、声を震わせながらさらに叫ばれました。
「俺を無視しているのかっ!」
「まぁまぁ、そんな滅相もない! 我が帝国の第三皇子殿下を無視なんて……。木端貴族である私にはとてもとても」
「心にもないこと言うんじゃない!」
そう言って地団太を踏まれるのは、艶やかな黒髪を編み込まれ、強い力を感じる緑の瞳を吊り上げられた美少年でした。
彼の名前はルクセント・シャルルニア・オヴィロール・ウィ・ロマウス。
先ほども言ったように、ロレーヌ家が所属する大国――神聖ロマウス帝国の第三皇子殿で、
「それよりも貴様! また授業をさぼったそうじゃないか! 仮にもロマウスの公爵令嬢が何やっているんだ!」
「いいですよ、殿下! もっと言ってやってください!」
「どっちの味方ですの、セヴァス!?」
「この件に関しては殿下の味方です」
「それ以外は味方しないということか、貴様ぁああああああ!」
お嬢に毎度振り回される可哀そうな人だったりします……。その最たる例が、
「とにかく、今度からは授業サボるなんて真似はするな! ただでさえお前はおかしいと、ロマウス貴族内で言われているのだから、ロレーヌ家の家格が下がるだろうが!」
「あら、実家の心配までしてくださってほんとうにありがとうございます、殿下。ですが、御心配せずとも、ロレーヌ家の家格が下がろうが殿下には何ら不利益はないでしょう? ほら、婚約話はお流れになったんですし……」
「キッサマっ! 俺の前でその話題を出すなあっ、畜生めェ!」
血管切れるんじゃないかと、思わず心配しまうほどの量の青筋を額に浮かべ、殿下は涙目になりながら、捨て台詞を残して逃げて行かれました。
それに慌ててついていく殿下の取り巻きの方々を見送りながら、お嬢は不思議そうに首をかしげ、
「あら? 何か悪いことしたかしら?」
至って真面目な顔でそんな言葉をのたまいます。
そう、ルクセント殿下はあろうことか、お嬢との婚約話が持ち上がったあげく、初対面のお嬢にサクッと袖にされた、可哀そうなお方なのです。
…†…†…………†…†…
放課後。半泣きになって逃げて行った殿下のことなどすっかり忘れ、まじめに授業を受け終えたお嬢は、エトワール様と生徒寮への帰路についておられました。
蛇足ですが、世界各国から貴族が集まるがゆえにこの学園は全寮制です。ただ、入学金の額によって住める部屋が変わるので、お嬢やルクセント殿下は広々とした個室に住んでおられますが、エトワール様はルームメイトとシェアする、二人部屋だそうです。
「あの、ヴィクトリアさ」
「敬称禁止ですわよ?」
「あぁ、すいません。ヴィクトリア。あの、ルクセント殿下とそんなにひどい別れ方を?」
ともかく、お嬢とは違って普通の令嬢であるエトワール様。年相応に他人の色恋に興味があるのか、ほんの少し申し訳なさそうな顔をしつつも、お嬢にあの昼下がりの一件を訪ねてこられました。
というわけで、
「ひどい別れ方というか、そもそも別れる云々以前の問題でしたね」
「セヴァス、また余計なことを言うつもりではありませんわよね?」
「お嬢が言うとお嬢視点で脚色されたものになるでしょう? 公平性を欠くと思いましたので」
「ほほう、ならばあなたなら公平にあの状況を語れると? ならば語ってみなさいな」
「主命のままに! あれは三年前……お嬢がちょうど七歳になられたときでした。殿下の婚約話が持ち上がったのですが……エトワール様はロマウス帝室の王子事情に関してどの程度知っておられますか?」
「第一王子殿下は十星勇者に所属されておられて、王の執務を学ぶ余裕はなく、第二王子殿下はその……変わり者で、王位継承権に興味がないうえに、皇帝としての資質に欠けるという話は」
「その通り。こまごまとした事情を並べればもっと複雑になるのですが、とにかくお二人は王位を継ぐつもりがなく、幼い第三王子殿下にその役割が回ってきたということです。本当ならば後継者の重責など関係なく、のびのびと育てられるはずだった殿下に後継としての重責を押し付けたことに、第一王子殿下も第二王子殿下もいろいろと思うところはあったのでしょう。せめて妃は好きな女を与えてやりたいと思い、お二人は陛下と共に一計を案じられました。それが、お嬢との婚約だったのです」
「? ヴィクトリア様が好きだったのですか?」
「まさか! 私たちその時は会ったこともなくってよ。好きも嫌いもあるものですか」
薔薇の垣根に囲まれた煉瓦舗装の歩道を歩きながら、お嬢は手で口元を隠しおほほと笑います。
事実、ルクセント殿下はべつにお嬢が好きだったという訳ではないので、お嬢のその態度は何一つとして間違っちゃいないわけですが……王子に好意を持たれていないことを、堂々と喧伝するのは女性としてどうなのでしょうか?
「ではどうして?」
「決まっています。許嫁がお嬢となれば、王子殿下に変な虫は寄り付かないでしょう?」
「あぁ! なるほど」
そう、これでもお嬢は公爵令嬢。それも神聖ロマウス三公爵家の娘。家格という面でお嬢に勝てるのは、ロマウス帝室か、ブルティングの王室くらいの物でしょう。
そんなトンデモ権力者の許嫁にモーションかけて、あわよくば玉の輿なんて狙う命知らずは、現在のイウロパ地方にはいない。
というわけで、お嬢という盾をルクセント殿下に与え、ルクセント殿下本人にはゆっくりと気にいる女性を探してもらおうというのが、第一第二王子殿下たちの目論見だったわけです。
ですが、その目論みは儚くも、
「ですが、その婚約を結ぶ場で、お嬢はルクセント殿下を手ひどく罵り、婚約の話を蹴り飛ばされてしまったのです」
「え? そ、そんなことしたんですか?」
「そんなにひどいことは言っていませんわよ!」
お嬢の破天荒な態度によって崩れ去った。
今でも私はよく覚えている。お嬢がルクセント殿下に向かって放った、心無い言葉の数々を!
旦那様に「やらかしそうになったら止めろ」と言われて、あの会場にいたので……。
というわけで、あくまで自分の罪を認めようとしないお嬢に対し、私は厳しい態度で現実を突きつけることにします。
「本当に? 本当にそう思っておられるのですか? 私が止める間もなく、初対面の第一声が『なんです、このチビ』から始めたのに?」
「うっ!」
ちなみに、ルクセント殿下は今でこそお嬢に並ばれましたが、お嬢に初めて会った当初はいまいち発育がよろしくなく、背丈はお嬢よりも小さかったと記憶しております。
「『おまけに、許嫁がいるのに身分の低い女を溺愛しそうな目をしていますわ。浮気上等の相手なんて願い下げですの!』とも仰いましたが?」
「うっ! うっ!」
「あげくの果てにキレた王子殿下を迎撃して、『それに私、自分よりも弱い男に興味はありませんの!』なんて言ってしまって、ワンパンで沈められたときは生きた心地がしませんでした! あと、今でもそんな血迷った理想の男性像を描いていませんよね? もしそうなら、お嬢一生結婚できませんよ?」
「さ、さすがにあれは冗談……待ちなさい。あなた私の戦力評価を、一体どのあたりに位置付けているの?」
――ご安心を。魔王にはさすがに勝てないと理解していますとも。それ以外には負けないとも思っていますが。って、あれ? それ考えると、お嬢と結婚できるのって魔王だけなんじゃ?
「ふん!」
「あぶなぁ!? まだ何も言ってないじゃないですか!」
「語るに落ちるとはこのことですわね! 言わなかっただけでしょうが!」
「お、落ち着いてください、ヴィクトリア! セヴァスさんが死んじゃいます!」
「死なない程度に加減しますわよ!」
「そ、そういう問題でもないかとっ! 貴族令嬢がグーはいけません!」
ふーっ。危ない危ない、エトワール様にご友人になって頂けて幸いでした。流石のお嬢も、エトワール様に抱きついて止められては、強硬手段はとれないようですしね、フハハハハ!
「このドS執事! 変態執事!」
「失敬な! 私はお嬢が認めたがらない事実を突きつけて、お嬢の自己啓発を促しているだけですともっ!」
「せ、セヴァスさん! これ以上ヴィクトリアをあおらないでください!」
エトワール様の願いとあらば、仕方ありますまい。お嬢弄るのもこのあたりにして話を続けましょう。
「ともかく、そんなわけでお嬢は第三王子をあっさりと袖にされ、ぶんなぐられた王子も当然のごとくお嬢を嫌い婚約話はお流れ。今でも殴られた恨みを引きずる殿下は、一応将来の三公爵家夫人としてお嬢を扱いますが、基本的にお嬢のことを嫌っておられるという訳です」
「な、なんだってそんな初対面で喧嘩売るようなまねを……」
「じ、実際は違いますわよ! もっとマイルドに、言葉を選んで断わりましたとも!」
「お嬢、親友の前で嘘をつくんですか?」
「くっ! そう言われると認めざるえません!」
「あ、セヴァスさんの方が事実なんですね……」
ヴィクトリアは昔からヴィクトリアだったのですね。と、ちょっと遠い目をされるエトワール様に、ヴィクトリア様は慌てた様子で、
「ですが昔は幼かったですから! ほら、若さゆえの過ちと申しましょうか! 今ならもっと丁寧に、相手を傷つけずに断ることが可能ですわ!」
「まだ三年前の話ですよね……」
「というか結局断るんですね……」
「うぅ、だってだって!」
エトワール様と私の二重ツッコミに、ちょっと泣きそうになりながら、お嬢様はプイッと顔をそむけ、
「あの方は、すでに売約済みですもの」
「?」
その言葉を聞き、首をかしげられるエトワール様に対し、私はお嬢が言っていたあのことを思い出します。
お嬢の予知夢にでてきた女性――高等部の頃にやってきて、数多の男性貴族たちを魅了する、《主人公》なる人物のことを。
よくよく考えれば、答えは出ていた。
将来神聖ロマウス帝国の皇帝となる御仁が、その貴族たちの中に入っていないわけがないのだから。
…†…†…………†…†…
「でもお嬢、あの予知夢を見たのってつい最近ですよね?」
「言ったでしょう? 予知夢ではなく前世の知識ですわ!」
というわけで、夜。エトワール様と大浴場で遊んできたお嬢の髪を、お嬢の私室で梳きながら、私はそのことについて聞いてみた。
「何が違うんですか?」
「知識である以上、それは私の頭のどこかに眠っていたということです。実際思い出したのはつい最近ですが、その記憶が私の行動に何らかの影響を与えていたのは明白でしょう?」
言われてみれば確かにそうだ。その証拠に、お嬢は幼いころより聡明で、言葉が喋れるようになった段階で既に、読み書きを教えてくれと、旦那さま方に強請っていたらしい。
エトワール様を見ればわかるように、基本貴族は人の上に立つ者として早い段階で教育を受け、早熟に育ちますが、それにしたってお嬢の知的発育の速さは異常と言えました。
そのやけに早い知能面での発育は、すでに人一人分の一生を過ごし、それを断片的に覚えていたからだと考えれば説明はつきます。
「つまり、その前世の知識が影響して、殿下がお嬢を好きにならないと、お嬢は知っていたということですか?」
「私はそう予想しています」
私の予想を肯定し、お嬢はため息をつかれた。
「厄介な物ですわね、未来を知るというのは。いくらか変えられると信じてはいますが、変わらない未来があったとして、それを知っているのは残酷なことです。その分期待というモノを抱かなくなるのですから」
「…………」
その言葉に、私は内心ちょっとだけ嫌な予感を覚える。そして、久々の失言をしてしまった。
「ちなみに……」
「はい?」
「私はその、『げえむ』とやらにいましたか?」
そんな私の質問に、お嬢はふと首をかしげ、
「ふふっ」
「何かおかしなことが?」
「いいえ、そういえばあなたいませんでしたわね。ゲームの中の私は嫉妬に狂った悪魔のような女でしたから、怯えて逃げたのでは?」
「なんと、そちらの私はずいぶんヘタレだったのですね?」
「あら? あなたなら逃げないとでもいうの?」
「あたりまえじゃないですか!」
失言した自分に内心で舌打ちし、同時にお嬢の知識の中に自分がいなかったことを安堵しながら、私はいつものように告げておく。
「戦闘能力のないお嬢なんて、怯える必要は何一つないですよ!」
「いいでしょう。ならばこの私が、あなたに本当の恐怖というモノを刻んで差し上げますわ……」
「おっと、髪が乾いたようですね! では私はこの辺で! 使用人用部屋に戻りますねぇ」
「あコラッ! 嘘をつかない! まだ生乾きじゃないのっ! 待ちなさいセヴァス、逃げんな!」
怒号響き渡るお嬢の部屋からさっさと逃げだし、私は捨て台詞を一つ、
「お嬢、言葉づかい、言葉づかい!」
「誰のせいだと思っていますのっ!」
廊下に飛び出したお嬢が投げた櫛が、盛大に私の頭に当たり、私の体を大きくのけ反らせるのでした。