久しぶりで最後の庭歩き
マリとの取っ組み合いのケンカは屋敷でも大問題となった。
男の子ならまだしも女の子が、それも淑女であるべき貴族令嬢同士が殴る蹴るのケンカをしたということで両親を驚かせたらしい。
そしてそれが最後の一押しとなったみたいに、私の遠隔地での療養が決まった。
「お嬢さま、本当におひとりで大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。久しぶりのお庭の散歩ですもの。のんびり歩きたいの」
ポーラが心配した顔をするのを笑顔で宥める。
「それでは、私もドルーを連れてきます。黄菫の木ですね。少しお待たせするかもしれませんが、なるべく急いで行きますから!」
「トム爺とお別れの挨拶もしたいから慌てなくていいわ。ゆっくり来て」
最後まで心配げなポーラに見送られて、私は庭へと出た。
庭を歩けるほど体調が回復したのはケンカから二週間ほどたった最近のこと。
そうしてもう明日にはこのお屋敷を出て行く。
この庭ともしばらくお別れになるから最後に散歩をしたいと家政婦長のデブラにわがままを言って、ようやく今回の外出がかなった。
久しぶりの庭歩きだ。
夏の日差しにキラキラする緑をいつも窓から眺めるばかりだったから、こうして土の上を歩くことにもわくわくする。
さくさくと下草を踏みしめる音でさえ楽しげに聞こえた。
「はあ、はあ……」
けれど少し歩くだけでも息が上がる。
マリとのケンカのあとも体調を崩しがちで寝たり起きたりの繰り返し。
体調がいいときには部屋の中で歩く練習をして、ようやくここまで歩けるようになったが、まだまだ体力は戻っていなかった。
それでも歩けることを楽しみながらお屋敷の脇をゆっくり進んでいく。
「――へえ、それ本当なの?」
建物の角を曲がったところで女性たちの声が聞こえて慌てて身を潜める。
様子を窺うと、洗濯物を干しているメイドたちがかしましく話していた。
「本当よ。旦那さまはジュリエッタお嬢さまが気味が悪いって、最初は修道院に入れようとなさったの。ほら、一度入ったら二度と出られない女の墓場って言われるあのセンピア修道院よ。でもそれをかわいそうに思われた奥さまが、ご実家で引き取ると言われたそうよ」
「センピア修道院って、きついお勤めで有名のところよね。自分の娘を気味が悪いだなんて、旦那さまもあんまりじゃない?」
「でも、わかる気がするわ。最近のジュリエッタお嬢さまは確かにおかしいもの。エリーナさんを階段から突き落とすなんて、ご乱心なさったとした思えない。それに普段からマリエッタお嬢さまをいじめたり物を盗ったりしていらっしゃったんでしょう? 私でもちょっと怖いわ」
「あら? でもエリーナさんを突き落としたのはマリエッタお嬢さまだって話もあるけれど」
「やだ! やっぱり信じてる人がいるのね。それ、大嘘よ? ジュリエッタお嬢さまがマリエッタお嬢さまに罪をなすり付けようとしてるんですって。マリエッタお嬢さまがずいぶんお嘆きだったわ。『ジュリ姉さまは嘘ばかり言うから何か聞いても信じないで』って。自分の罪をちゃんと認めて欲しいと泣いていらっしゃったのよ。本当にひどいわよね、大事な側付きメイドを階段から突き落とされたばかりかその濡れ衣まで着せられるなんて。マリエッタお嬢さまがあまりにおかわいそう。ジュリエッタお嬢さまはもしかしたら魔物付きかもしれないわ」
「ちょっと! お屋敷のお嬢さまを魔物付きだなんて言ったら罰せられるわよ」
「あら、本当のことじゃない。天真爛漫だったジュリエッタお嬢さまが突然人が変わったようにおかしくなられたでしょう? きっと何か悪い魔物が付いたからだと思うのよ。それに悔しいじゃない! 王都で買ったリボンを分けてくださるようなお優しいマリエッタお嬢さまを泣かせたのよ。全部ジュリエッタお嬢さまが悪いのに、当の本人はのんきに療養なさっているんだからこのくらいの悪口――」
ひどい噂話に耳を塞ぎたくなった。
このまま立ち去りたいけれど、庭へ行くには彼女たちがいる場所を通りすぎないといけない。
噂話が終わるか洗濯を干し終わるかを待つしかなかった。
庭へ行くのに近いために屋敷の裏口を使ったが、本来は使用人の出入り口だ。
それゆえに聞きたくない話を聞くはめになったけれど、だからこそ下世話な話をする使用人たちを責めるわけにもいかなかった。
「でも、旦那さまもよっぽどジュリエッタお嬢さまのことがお嫌いなのねえ。お嬢さまはまだ七歳だっていうのに、戒律の厳しい修道院へ入れようとしたりよそへやったりなさるんだもの。可愛い盛りのはずなのに、私だったら出来ないわ」
「ちょっと極端よね、ここの旦那さまって。奥さまやマリエッタお嬢さまにはあんなに甘いのに」
「だからよ。ほら、奥さまって今重い悪阻で寝込んでいらっしゃるでしょう? それなのにジュリエッタお嬢さまは問題ばかり起こして、奥さまの体調をさらに悪化させたじゃない。マリエッタお嬢さまも何度も暴力を振るわれているし、この前のケンカなんて上から押さえつけられて一方的に殴られたらしいのよ」
「何て乱暴な!」
「でしょう? 旦那さまはそんなジュリエッタお嬢さまをこれ以上屋敷に置いておきたくないんですって。特に奥さまには近付けたくなくて、屋敷の奥へ入れないように今も見張りを立てているって話よ。自業自得よね。双子の妹には暴力を振るって、エリーナさんのことは階段から突き落として、一歩間違えたら殺してしまっていたんだもの。そりゃあ旦那さまも警戒なさるわよ」
「いやだ、本当ね。今度生まれてくる赤ん坊にも脅威だわ。怖い怖い!」
「そんな恐ろしいお嬢さまによく療養の引受先が見つかったものね」
「それがその引受先のお貴族さまにも色々問題があるらしいわよ。何でも――」
メイドたちは話しながらようやく屋敷へ戻っていく。
ばさばさとシーツらしき大判の布がはためく音しか聞こえなくなって、私は長いため息をついた。
「別にいいもの……」
建物の陰からそっと覗いて誰もいないのを確認すると、私はゆっくり歩き出す。
「別に、お父さまに嫌われててもいいもの」
歩みはとても鈍いものだった。
もとより体力が戻っていないし、さっきまでよかった気分もすっかり底まで沈んでしまっていた。
のろのろと小川沿いの小道を歩く。
明日私が療養に向かう先はお祖父ちゃまのお屋敷だ。
バークリー子爵家は王都の隣に広い領地を持ち、領主はお祖父ちゃまではなくお母さまのお兄さま、私にとっては伯父に当たる人だという。
お祖父ちゃまも伯父さまも私の療養を歓迎してくれているらしい。
聞いたのはそれだけ。
お父さまの補佐をしているフレッドさんが教えてくれたものだ。
お父さまは私を見舞ってくれることも話をしに来てくれることもなかった。
マリとケンカをしてから、ううん、その前からお父さまともお母さまともずっと会っていない。
お母さまはいぜん体調不良で寝たきりだ。
お見舞いに行きたかったが、私自身も体調が優れなくて結局かなわなかった。
今は静かに部屋で療養するのが大事だと諭されたのだが、私の体調を心配したのではなく、本当はお母さまに会わせないようにお父さまから命令が出されていたのかもしれない。
知らなかったから、ポーラに何度もお願いして困らせてしまったわ……。
明日からの療養だって、マリとの仲が悪いために姉妹二人を引き離すのが目的だと思っていた。
マリとのケンカのあと、私とマリが不用意に顔を合わせないようにお屋敷の皆が立ち回ってくれていたのを知っている。
それもあって、もしかして私をマリから避難させるつもりでのんびり出来る場所を用意してくれたのかなと好意的にも考えていた。
けれどそれも全部違っていた。
お父さまは私を屋敷から追い出したかったんだ。
改めて聞くとやはり落ち込む。
胸の中に質量のあるものが突然生まれたみたいに重苦しい。
マリの中に『嫌なマリエッタ』が生まれてからお父さまとの仲がおかしくなったけれど、エリーナの事故とマリとのケンカで決定的になってしまったのだろう。
お父さまには見捨てられたけれど、父子の情くらいは残っていると思っていた。
けれど嫌われてしまっていたなんて、すごくショックだった。




