デジレ薬の代わりに
「じゃあ、本当にこの白い菫は私がもらっていいの?」
「君のものだ。精霊の祝福だから何の代わりにもなるよ。傷を跡形もなく治すこともできるし爪をきれいに染める染料にもなる。あとは香水の素材としても使えるんじゃないかな」
「デジレ薬の代わりにもなる?」
紫菫の木の話を聞いたときからずっと考えていたことだった。
「デジレ薬? 誰か十日熱に罹っている人がいるの? 君の弟妹たちだったら、薬がなくてもすぐ治るよ。せっかくの白い菫を使うのはもったいないと思うけど」
「ええ? ジュリエッタには弟も妹もいないだろ?」
男の子とアントンの言葉に首を振る。
「あのね、私付きのメイドのお父さまが十日熱に罹っているの。もう長いことずっと苦しんでいるからデジレ薬のネックレスをあげたいと思ったんだけれど、十日熱に罹った大人を治すためにはデジレ蝶の繭が一個分必要なんですって。私のネックレスはとても小さくて繭一個分ないかもしれないから困っていたの。でもこれでようやく助けられるのよね」
ホッとして私は手の中の白い菫を見る。
ポーラのお父さまのことはずっと心配だった。
貴族だったら簡単に入手できる薬なのに、平民ってだけで手に入らないのだ。
しかも貴族達はデジレ薬を薬として使うわけじゃない。
薬の色が美しいからとお守りやアクセサリーとして扱うのだ。
価値はないために身に付けもせずに宝石箱の中でひっそり眠らせているだけ。
こんなのひどすぎるとずっと思っていた。
だってポーラのお父さまは今この時も苦しんでいるし、いつかは亡くなってしまうんだから。
ポーラを前にすると後ろめたくて心苦しかったし、申し訳なく思っていた。
だからようやくポーラに渡せるのだと晴れ晴れした気持ちになっていた。
「デジレ薬だったら、ぼくがお祖父さまに頼んで何とかもらってやるよ。だからその精霊の祝福は自分のために使えよ。もったいないだろ」
「アントン、ありがとう。でもいいわ。私がポーラに使いたいの。ポーラのお父さまのために使いたい。だって精霊さまの祝福なのよ。特別な薬なんだから大好きなポーラに使いたいの」
ポケットからハンカチを取り出して、慎重に白い菫を挟み込んだ。
じっとこちらを見て黙ったままだった男の子にもにっこり笑いかける。
「あなたもありがとう。この白い菫を譲ってくれて。大事に使うわ」
男の子はハッと我に返ったように瞬きをしたかと思うと顔を背けた。
目の縁がわずかに赤い気がする。
「三日以内にハチミツにつけ込むんだ。何の花のハチミツでもいい。それでデジレ薬の代わりになるよ。ハチミツと一緒に白い菫も食べるんだ。大人でも治るのはあっという間だ」
「本当? 教えてくれてありがとう!」
「精霊さまが教えてくださったんだ」
さすが精霊の愛し子さまだ!
嬉しくなって周囲をキョロキョロした。
精霊さまが近くにいらっしゃるのかしら。
それとも紫菫の木の精霊さま?
「精霊さまもありがとうございます」
どこかにいらっしゃる精霊さまにも心からお礼を言う。
素敵な紫菫の花のシャワーを降らせてくださって、白い菫を授けてくださったことも、本当にありがとうございます。
「そうだ。君たちは蝶が見たいのかい? 少しの時間だったら温室の中に入ってみる? 特別に博士に頼んであげるよ」
「ええっ、いいのかっ!? 君はいいヤツだったんだなっ!」
現金なことにアントンはすっかり男の子に心を許したようだ。
興奮して顔を真っ赤にしたアントンは親友を相手にするように男の子と握手を交わしている。
「菫の君も入ってみる? でも、温室には蝶だけじゃなくて蝶の幼虫もいるんだ。あそこは蝶を育てる場所だからね。女の子の君にはあまりお薦めできないかな」
「菫の君……? あの、蝶の幼虫だったら大丈夫よ。おとといはレモン大アゲハの幼虫を見たんだから。可愛くはなかったけど、この寒いシュレーゲルの地でも頑張って生きてるんだなって思ったわ。他の蝶の幼虫だって見てみたい」
私の返事に男の子はあからさまに顔をしかめた。
昔のマリの、食事に嫌いなピーマンが出てきたときの顔にそっくりだ。
近寄りがたいほどの美少年で、ときに大人の男性みたいな甘い気配も漂わせる男の子なのに、途端に親しみやすくなる。
「もしかしてあなた、蝶の幼虫が嫌いなの?」
「……青虫を好きな人はあまりいないと思う」
むっとした顔で唇を尖らせた。
精霊の愛し子さまでも普通の少年なんだわ。
おかしさをこらえながら、いいことを思いついた私は提案してみる。
「だったら、今度から蝶の幼虫のことで困ったらアントンを呼べばいいわ。アントンはすごいのよ。蝶のことは何でも知ってて、幼虫だって平気で触れるんだから。ねえ、アントン?」
アントンに同意を求めるとぶんぶんと大きく首を振った。
アントンは大好きな蝶に大手を振って近付けるし、ここを管理しているという男の子は苦手な蝶の幼虫にもう触らなくてすむのだ。
精霊の愛し子さまの申し出なら、ソフィ伯母さまでも強く言えないだろう。
あら、でもこの男の子が精霊の愛し子さまだってことは秘密だったかしら。
「菫の君も呼べば来てくれる?」
静かな声で訊ねられて、空気が澄んだときの夕焼けの空みたいな紫色の目で見つめられると、何だか落ち着かない気分になる。
頬が熱くなってそっと視線を外した。
「私は王都に住んでいないからすぐには行けないの。馬車を出してってお母さまに頼んでも、難しいかもしれないわ。ねえ、それよりさっきからあなたが言う『菫の君』ってなあに? 私はそんなきれいな名前に相応しくないわ」
「そんなことない。今日の君のドレスは薄紫の菫のようだし、ふわふわの髪の毛にも紫菫の花をたくさん飾ってるし。本物の菫の花の精霊さまのようだよ、菫の君」
慌てて頭に触ってみると、小さな菫の花がふわふわの髪に絡みついている。
先ほど菫の花のシャワーの下でくるくる回ったせいだろう。
髪からとてもいい香りがするのは嬉しいけれど、このままお茶会に戻ったらお母さまに叱られる気がする。
マリにも何か怪しまれるかもしれないと、慌てて頭を振って菫の花を落とそうとする。
って違うわっ。
今はそんなことじゃなくて!
「あのねっ、やっぱり菫の君なんて大げさな呼び方だと思うの。それに、あの……ごめんなさいっ、ちょっとどころじゃなくうんと恥ずかしいの! だから名前で呼んでくださいっ」
かっこいい男の子に『菫の君』なんて呼ばれるキャラクターじゃない。
確かに見た目はジュリマリのヒロイン『ジュリエッタ』で絶世の美少女かもしれないけれど、中身は残念な私なのだ。
違和感が半端ない。
懸命に訴えるのに、男の子はまた肩を揺すって今度はお腹も抱えて笑い始める。
アントンも一緒になって笑っていた。
二人に笑われてショックを受けていると、男の子が慌てたように表情を改める。
「ごめん。おかしかったんじゃなくて、君があんまり可愛いから笑ってしまったんだ。謝るよ。君の言う通り僕も名前で呼びたいから、名前を教えて?」
調子がいい言葉に私はついうろんな目になった。
男の子は困ったように淡く笑む。
「本当にごめんね。だから、ねえ、機嫌を直して名前を教えてくれる? 君の名前を呼びたいな」
眉を下げて申し訳なさそうな顔にじんわりと甘い気配が漂う。
まだ小学生くらいの男の子なのに何だろうこの色気。
ぞくぞくするというかどきどきするというかぞわぞわするというか。
あれ、そういえばジュリマリのマンガにもいたわ。
ファン達の間でお色気担当さまと呼ばれていた主要なキャラクター。
そう、目の前の男の子のような艶やかな黒髪に魅惑の紫の目を持つ麗しのあの方――――やだ、なぜこんな大事なことを忘れていたのかしら!
大きい石で頭をガンッと殴られたみたいな衝撃を受けていた。
そんな私の隣にアントンが並ぶ。
「じゃあ、先にぼくから自己紹介するよ。ぼくはロッシ伯爵家の長男、アントン・ロッシだ。よろしくな」
先に名乗りを上げるを上げるアントンが、まだ呆然と男の子のことを見つめたままの私を肘で軽く小突く。
「ほら、ジュリエッタの番」
「は、はひっ。フローリオ子爵家の長女、ジュリエッタ・フローリオです。どうぞお見知りおきください」
定型の挨拶は口から勝手に飛び出した。
「ふふ。初めまして、ツヴァイク侯爵家の長子、ルカーシュ・デ・ツヴァイクです。どうぞよろしく」
や、やっ、やっぱり麗しのルカーシュさま~っ!?




