(15)
彼女の行動は早かった。
僕はランニングの上にボタンがちぎれたワイシャツを羽織るという屈辱的な格好のまま、教室にジャージを取りに戻ることさえ許されず、天津眼に手を引かれて歩いていた。もっともこの格好で授業中の教室に戻るとなればもはや罰ゲームなので、そうならなかったのはむしろラッキーだと前向きに考えることにしよう。
彼女は僕の手をしっかりと握っていた。しっかりと繋いだ手は寸刻を惜しむようにぐいぐいと僕を引っ張っていく。それだけ状況が逼迫しているというようにも受け取れる。
そして彼女のもう一方の手には電話が握られていた。誰と話しているかは分からないし、簡潔にいくつかの単語をポンポンと話しただけなので会話の内容も不明瞭だ。
彼女は二回電話をかけ(それは恐らく別の二箇所に電話をしたと僕は推測した)二回目の電話を終了したと同時に僕らは駐車場に到着した。
どういうわけかそこには黒塗りのセダンが僕らの到着を待っていた。あまりの手回しの良さにびっくりする。五分と経っていないのにどこから配車したというのだろう?
いや、これは呼んだのではなく初めから学校に置いてあったと考えないと間尺に合わないな。
まさか運転手付きの車で登下校してるとでもいうのか?
引っ張られるようにして車に乗り込むと滑るようにスムーズな加速で車が動き出した。
彼女は握っていた僕の手を静かに離した。
手を離したのは当たり前の行為だ。車中でも手を繋いだままでは、まるで親子か恋人だからな。
だから彼女の行動は正しい。
けれど僕の左の掌の空がいやに寒々しい。なぜか気持ちまで心細くなるような気がする。どうやら僕は自分で思う以上に天津目を頼りに考えているようだった。
セダンは一見するとハイヤーのようにも見えたが、中に乗り込んでみるとそんなレベルのものでは無いことが分かった。
まずは重厚な内装。木目調ではなく木目そのものを活かしたハードウッド。それにベージュ系のレザーの組合わせで一般車とはシートの座り心地がまるで違う。適度に堅いスプリングで適度に体が沈むという絶妙の塩梅だ。ドリンク用のクーラーもあった。はしたないと思われるのも嫌なので中は確認しなかったが、ロマコンかドンペリでも出てきそうな雰囲気である。
そしてやたらと目立つのが液晶モニターだ。シートの後ろやドアの内側など、そこかしこにモニターが付いており、数えてみると全部で六つあった。テレビの他にネット用のものもあり、見た限りでは高速のデータ通信に常時つながっている状態だった。他のモニターは何の為のものなのか見当も付かない。
しかしながらこの車を最もハイヤーらしからぬものに見せていたのは意外にも運転手の身なりだった。
男の運転手は黒いスーツ姿だった。
こう書くとタクシーの運転手のような格好を思い浮かべるかもしれないが、スーツは漆黒で細身のネクタイも真っ黒だった。おまけにサングラスをしており、その姿は「映画に出てくるシークレットサービス」そのものだった。一般人からすると怪しい身なりとしか思えない。つまりどう見てもサービス業に従事しているようには見えない運転手なのだ。しかも天津眼とは会話どころか視線を合わすことすら無い。
一体、この運転手は何者なのか?
どういう類の人物なのかが全く判断出来ない。
それらを織り込んだ上での印象を一言で表すと『マフィアのボスが乗る車』である。
冗談半分で窓を指しながら「防弾ガラス?」と聞いてみたら、あっさりと天津眼が頷いた。
何度も言うようだがホントにこいつは一体何者なんだ?
車は国道を僅かに走った後、湾岸へ向かう高速に乗った。
それを見て少し意外に思う。
てっきり街の中心部に行くと思ったのに。
「これからどうするつもりなんだ?」
天津眼に尋ねた。
「交渉する」
交渉って、一体誰とだ?
まさか!?
「相手には意思があるのだから交渉は可能」
いやいや、そういう問題ではなく……って、そういう問題なのか?
非常識の連続のせいで僕の思考回路が狂ってしまったような気がする。もっとも狂っていると疑うということはまだ本当には狂ってはいないのだと自分を慰めることも忘れない。
「だって相手は人間じゃないんだろう?」
運転手には聞こえないように小さな声で言った。彼の素性が分からない以上、聞かれてはまずいような気がしたからだ。
「それは関係ない。意思があれば交渉は成立する」
天津眼は当たり前のようにそう言った。
そりゃまあ、そうだろうが……。
非現実的の連続で僕の頭はショートしかけて……いや部分的にショートしていたのかもしれない。それ以上は何を尋ねる気にもなれなかった。
「もう成るように成るしかないな」
防弾ガラスの車窓に額を付けて小さく呟いてみた。




