852話 スパイススープ
リミーさんの一言で、シファルさんの笑みが深くなった。
押さえ込まれている男性は、不穏な物を感じたのかぴたりと動きを止めた。
「あれ? 暴れないの? 別に暴れてくれてもいいよ」
シファルさんの優しい声に、男性の顔色が真っ青になる。
「……ちっ」
シファルさんの舌打ちに、ビクリと体を震わせる男性。
彼はようやく今の現状を理解したようだ。
たぶん、手遅れだけど。
「すみません、遅くなりました?」
宿に入って来た自警団員が、男性とシファルさんを見て首を傾げる。
「お疲れ様。その転がっているのが問題の冒険者よ。ちょっと暴れたから、対処させてもらったわ」
リミーさんの言葉に、苦笑しながら頷く自警団員。
「そうなんですね。えっと、協力を感謝します」
シファルさんは、男性を無理やり立たせると自警団員の方に突き出しだ。
騒ぐ事なく従う男性に自警団員が少し不思議そうな表情をしたが、ジナルさんを見ると頷いた。
「あぁ、ジナルさんと同じでしたか」
んっ?
自警団員の言葉にセイゼルクさん達が首を傾げる。
自警団員は、そんな彼等には気付かずリミーさんに話を聞くと、男性を連れて宿を出て行った。
「同じって?」
セイゼルクさんがジナルさんを見ると、彼は首を横に振った。
「知らないのか?」
「あぁ。俺と同じ? どういう事だろう?」
不思議そうな表情で、自警団が出て行った扉を見るジナルさん。
本当に意味が分かっていないようだ。
パンッ。
不意に聞こえた音に視線を向けると、リミーさんが笑顔で食堂の扉を開けた。
「さぁ、夕飯の時間です。どうぞ」
そういえば、夕飯を食べに下りて来たんだった。
「食べようか」
「うん。いい匂いだね、お父さん」
お腹が空いているから、本当にいい匂い。
あっ、お腹が鳴った。
「ふふっ」
んっ?
微かに聞こえた笑い声に視線を向けると、シファルさんと視線が合う。
あっこれは、お腹の音を聞かれたみたい。
「今日の夕飯は、なんだろうね」
何事も無かったように聞いて来るシファルさん。
「楽しみだね」
ちょっと恥ずかしいけど、気にせず答える。
それにしても、本当にいい匂い。
「今日はスパイシースープがお薦めよ。これは母の得意料理の1つだから、絶対に食べてね」
フィミーさんの得意料理のスパイシースープ?
それは絶対に、飲まないと駄目だよね。
料理が並んでいる中から、お薦めのスパイシースープを深めのお皿に入れる。
ぶつ切りの大きめお肉と大きめ野菜も入っていて具沢山だ。
「凄くいい匂いだね?」
「あぁ、食欲が増す匂いだな」
お父さんも気になるのか、最初にスパイシースープを深めのお皿に入れていた。
一番にお肉を取らないのは、凄く珍しいのでちょっと驚いてしまった。
まぁその後は、いつも通りお皿に肉を山盛り載せていたけど。
「「「「「いただきます」」」」」
まずは、フィミーさんの得意なスープからだよね。
「あっ、ちょっと辛い? でも野菜の甘味もあっておいしい」
もの凄く食べやすい。
「パンに浸けて食べてもうまいぞ」
お父さんを見ると、黒パンをスパイシースープに浸けて食べている。
すぐに真似してみたけど……黒パンの独特の味がスパイススープに合う!
今までいろいろなスープに黒パンを浸けて来たけど、一番かもしれない。
「これは癖になるな」
セイゼルクさんの言葉に、ラットルアさんが頷いている。
どうやら皆の口に合ったみたいだ。
いつもより黒パンが減った夕飯は、1時間ほどで落ち着いた。
「はぁ、食べたな」
ジナルさんの言葉に、ヌーガさんが満足そうに頷く。
「お茶を淹れますね」
食器を纏めているとフィミーさんが食堂に顔を出した。
「ありがとうございます」
「ふふっ。あの大量のスープが空っぽになるなんて、凄いわぁ」
空っぽ?
確かスパイススープは、大鍋に大量にあったはず。
あれを、皆で食べきったの?
「ふふふっ。リミーもきっと大喜びすると思うわ」
大喜びの前に、食べきった事に驚くと思うな。
「どうぞ」
フィミーさんが皆にお茶を配る。
それぞれお礼を言って受け取ると、食後のゆったりした時間が流れた。
「そうだ。ジナルもこの宿に泊まるのか?」
お父さんの言葉に、ジナルさんが肩を竦める。
「あぁ。まさかこの宿に泊まる事になるとは思わなかったけどな」
そういえば、宿の前で叫んでいたな。
あれは思ってもいなかった宿に泊まると分かったからかな?
「ドルイド、アイビー」
セイゼルクさんの言葉に、視線を向ける。
「どうした?」
「明日の午前中に酒場に着て欲しいとガガトから伝言を預かっているが、問題ないか?」
「あぁ、大丈夫だけど。何か用事でもあるのか?」
「旅で必要な物を一通り揃えたから、持っていて欲しいらしい」
そういえば、ガガトさんは旅に必要な物を揃えてくれていたっけ。
でもそれをお父さんや私が使ってもいいのかな?
「ドルイド、気にせず使っていいぞ。アイビーも」
セイゼルクさんの言葉に戸惑っているお父さんと私に、ジナルさんの声が届く。
「いいのか?」
「あぁ。ロティスが皆の為に用意した物だから、問題ない」
「それなら遠慮なく使わせてもらう。明日の午前中に酒場だな?」
「あぁ」
ロティスさんに会ったら、ちゃんとお礼を言わないとな。
そういえば、食事はどうするんだろう?
「作り置きの料理は、持って行ってもいい?」
ロティスさん達の分も作るとなると、いつもより多く必要だよね。
「それは、もちろん。アイビーの料理は、旅の楽しみだから」
ラットルアさんの言葉に、シファルさんとヌーガさんも頷く
その反応に笑みが浮かぶ。
「すみません、フィミーさん!」
ジナルさんが調理場に向かって叫ぶと、彼女の返事が聞こえた。
「どうしたの?」
「旅に行く準備がしたいので、調理場を貸して貰う事は出来ますか?」
「もちろん、いいわよ」
調理場から出てきたフィミーさん。
ジナルさんを見ると首を傾げた。
「あなた、料理が得意なの? 彼女はそんな事を言っていなかったけど」
んっ、彼女?
それに、ジナルさんは料理が得意だったかな?
「えっ? 料理が得意って俺が?」
ジナルさんが自分を指すと、フィミーさんが不思議そうに頷く。
「違うぞ。俺も料理は作れるが、最低限だ」
「あら、違うの?」
「あぁ。俺の作る料理は、普通だから」
「普通って」
ジナルさんの言葉に、フィミーさんが笑う。
「あの」
フィミーさんに声を掛けると、首を傾げながら私を見た。
「どうしたの?」
「料理は私が作るんです。調理場を借りれますか?」
「まぁ、あなたが?」
フィミーさんが楽しそうな表情で私を見る。
それに戸惑いながら頷く。
「もちろん大丈夫よ。調理場を、破壊さえしなければ問題無いわ」
調理場を破壊?
えっ、料理をするために借りるのに、破壊?
「何か用意する物はあるかしら?」
フィミーさんの言葉に首を横に振る。
「大丈夫です。お父さん、酒場から帰って来る時に必要な物を買って来ていい?」
食材を揃えないとね。
「もちろん、いいぞ」
明日は朝からちょっと忙しくなりそう。
あっ、捨て場の事も忘れないようにしないとな。




