03 調理実習の心得 ~ 前編 ~
小さい頃の夢は何か?
そう聞かれたらモナミはこう答えるだろう。
「お父さんの様な魔法使い!!」
と。
勿論モナミの父親は魔法なんて使えない、生粋の料理人だ。
ただ小さい頃の彼女には父がフライパンを振り、鍋を掻き混ぜるだけで食材が美味しい料理になる。
それが魔法に見えたのだ。
何よりその料理を食べた客が、今まで暗い顔をしていたのも仲間同士で喧嘩していたのも嘘の様に美味しそうに、そして嬉しそうに、幸せな顔で食べる。
父の料理を食べれば誰でも仲良く、幸せになれる。
其れが1番魔法使いに見えた理由だろう。
そんな父を見て、幼い頃から率先して家の手伝いをして育った彼女は現在、重度の料理馬鹿になった。
好きなことは料理を作ること。
趣味は料理研究と新しい素材を求めて市場めぐり。
流石に年頃になって恋やお洒落に興味が出るかな?
と期待した両親も、
「花より団子を作りたい!」
と言った瞬間呆れ果て、
何処かで育て方間違えたのか!?
と頭を抱えた物だ。
だが、そんな料理一筋のモナミだからこそ優秀な料理人に育ったのも事実。
今だって娘が担当している料理は幾つかある。
あと数年このまま店を手伝っていれば店を任せられる立派な料理人になるだろう。
いや、親としての心配を抜きにしてただの料理人として見れば何時任せても問題ない実力がある。
親としては心配しかないが1人の料理人としては誇らしい。
ある意味弟子と言っても良い娘に父親は複雑な心境だった。
そんな現役料理人にして師匠の父親に認められだしたモナミの生活が一変したのはある春先のこと。
春らしく眠くなるようなポカポカとした陽気と白い雲が浮かぶ爽やかな空。
色とりどりの花が咲き乱れる。
何時もと変わらない午前の日差しの中、モナミは洗濯物を干していた。
朝の片付けも終わったし、昼にはまだ早い、つかの間の休息。
母と姉は店でお茶を飲んでいたし、住み込みで働くアロマとリキッドは2階にある其々の自室で寛いでいる。
今日の賄はモナミが担当しているから外に出る前に厨房にいた父もそろそろ母達と一緒に休憩しているだろう。
賄いはいくつか練習している料理を皆にみてもらう絶好のチャンス!!
上手くいけば店に出してもらえるかも知れない。
だからこそやる気もテンションも上がりっぱなしのモナミは、今日は何を作ろうかと鼻歌を歌いながら考えていた。
それは何時もの光景で、特に、何か前触れがあるわけでもなかった。
その日、誰かの叫び声の様な突風と共に世界が歪んだ。
「凄い風だったなー。・・・・・・・・・・あ、洗濯物!!」
飛ばされそうなほど強い風から顔をかばい、ゆっくりと目を開く。
通り過ぎた強風に少し驚きつつも周りを見回し1枚洗濯物がないことに気がついたモナミは慌てて飛ばされた洗濯物を追いかけた。
彼女の目に飛ばされた洗濯物しか映っていない。
だからだろ。自分の頭上の空の色に気がつかなかったのは。
昼間の青、
朝焼けのオレンジ、
夕焼けの紫、
夜の紺と雲の白、
雨雲の灰色。
パレットに出した絵の具の様にすべの空の色が混ざってマーブル模様を描いていたことに。
そして一瞬、地面や建物が波紋を描くように歪んだことにも気がつかなかった。
「あー、もうっ!これじゃ洗い直しじゃん!!
・・・・・・・・・・・・・って、ナニコレェエエエエ!!?」
地面を転がり泥だらけになった洗濯物を店の裏の林の中にある、自分が生まれるずっと前に枯れ果てた井戸の前で見つけ、ため息を吐く。
さっさと帰ろうと振り返り、視界の端に見えた空にやっと気がついたモナミはその異様な空の色にオロオロしだした。
だからこそまた気がつかなかったのだ。
自分の真後ろにある井戸も歪み、高さも場所もずれていた事に。
「・・・・・・・・・え?あ、うそ・・・・・・・きゃぁあああああああああっ!!!」
そのまま後ずさったモナミは自分の腰よりも低くなった井戸に見事に落ちた。
咄嗟に蜘蛛の姿になり丈夫な糸を井戸の縁に掛けるが落ちるスピードは変わらない。
何よりも何時になっても底に着かないのが怖い。
それはこの井戸がとても深いことを現しているわけで、そんな高さから落ちたら間違いなく怪我では済まされない事を現している。
(も、もう、ダメ。皆、ごめんね。先立つ不孝をお許しください!!)
瞼が無いこの姿では硬く目を閉じることが出来ず、ドンドン小さくなる光を見続けないといけない。
その遠のく光に死を覚悟し、浮かんだ家族の顔に心の中で謝りながらいつか来る衝撃に備えた。
井戸の入り口の光すら見えなくらり、完全な闇が支配した世界。
それなのに、何故か井戸の底から光が差し込んでくる。
(た・・・・・・・助かった・・・・・・の?)
底の光に飛び込んだ瞬間、地面に激突する前に無事止まることができた。
口から飛び出すほどバクバク鳴る心臓を落ち着かせ、ゆっくり辺りを見回す。
(ここ、何処かの厨房?でも・・・・・・・)
そこは自分の知っている厨房と少し変わった白と銀の部屋。
まず目に入ったのは均等に並ぶ、水道とコンロ、オーブンが合わさった調理台。
この調理代の数から既に普通の厨房と違っている。
次に変わっていると思ったのはその奥にある他の調理台の倍はありそうな調理台と、その後ろにある白い文字が書き込まれた緑色の壁。
後ろを見ると見たことも無い機械が並ぶ。
左は扉とゴチャゴチャと色んな物が置かれた今居る部屋に比べたら小さな部屋が辛うじて見える。
それと棚に仕舞われた数え切れないほどの確り手入れされた調理器具と食器。
多種多様な大きさと形のフライパンや鍋、普段使っている物の他にたぶん調理器具だと思う見たこともない道具もある。
食器は白を基調としたシンプルな物ばかりだ。
反対側は前面透明なガラスの窓。
その下にも戸棚がある。
この中にもきっと調理器具が仕舞ってあるのだろう。
窓の外の風景は首が痛くなるほど高い建物だらけ。
世界1発展したアルカンシエルの首都でも此処まで高い建物は見た事が無い!!
その中に居るのは調理台の周りに座った20人以上のひじ上まで腕まくりした白衣とコック帽、前掛けに『着られた』人間と緑色の壁の前に立つコック服を『着た』若い女性。
殆どの人間が着ているノリの効いた真新しい白衣は、着ているものに馴染んでなく、その人間も真前に立つ女性と違い料理慣れしているように見えない。
(でも、みんなすっごく大きい・・・・・・・・)
モナミからしたらそこは何もかもが“巨大”な部屋だった。
蜘蛛の姿になっても人の姿と同じ大きさのモナミがここの人間に比べたら掌サイズになるのだ。
全てが巨大だと思っても仕方が無い。
(ここ、本で読んだ異世界なんだ!!それでこの部屋は『巨人』が料理学ぶ場所なんだ!!)
部屋の様子から此処が自分の住んでいる世界とは違うと解る。
軽く見回しただけでもアルカンシエルよりも発展している事がわかるし、何よりどの種族とも違う御伽噺にしか出てこない『巨人』が居るのだ。
その『巨人』達の姿や部屋の様子、どう言う訳か理解できる『巨人』達の言葉と文字から察するにここが料理の学校と言う事は直ぐにわかった。
それも今日から授業が始まったらしい。
(うわー、うわー)
流石料理馬鹿。
モナミはここが料理学校と解った途端、今の自分の状況も忘れ感動に打ちひしがれた。
アルカンシエルの首都にも料理専門の学校がある。
だが、授業料が現実逃避したくなるほど高く相当な地位と才能が無いと入れない狭き門。
将来首都の高級料理店を担う人材を育成するその学校は、モナミの様な田舎の小娘では門前払いされるのがオチなのだ。
だからこそ首都の料理学校は料理人の憧れ。
この調理師専門学校は、漫画やアニメの様な料理バトルしたりオーバーリアクションな教師や審査員が居るわけでもない。
お色気やラッキースケベはもっての他!!
あったらセクハラで訴えられるだろう。
そんなおいしい展開もワクワクする展開も無い、この世界では何処にでもある極々普通の料理学校なのだが・・・・・・・・
異世界とはいえ『今、料理学校に居る』と言う事実にモナミは大袈裟なほど感動していた。
(それで、それで!!今日は何を習えてるんだろう!?)
生徒達の机にも講師の机にも特に食材は置いていない。
在るのは数枚のプリントと分厚い教科書、筆記用具、学校のロゴが入った銀のケースだけ。
どうやら、今日は調理を始める前の注意事項や調理道具、軽量の仕方など基本的なことを説明しているらしい。
『えー、今日は調理実習最初の授業と言う事で、実習の心得について話します。
調理実習は実践的な技術を習得できる重要な授業です。
調理に関する職場は様々。
ですが、共通して基本となるのは衛・生・観・念、です』
衛生観念の所を強く言った講師は赤いチョークで黒板にも同じ言葉を書いた。
それほど重要と言う事だろう。
『実習室の清掃だけではなく、調理師を目指すものとして最低限の心構えとして衛生的な服装や身だしなみも重要です』
長髪の場合結んで頭髪が落ちないように確り帽子を被る。
化粧や整髪料は臭いがつかない物を使用する。
腕時計やアクセサリーなどは実習中身に着けない。
白衣や実習用の靴で建物外に出ない。
トイレに行くときも着替える。
爪は短く、手指は確り念入りに洗う。
靴は清潔で行動しやすい物を選ぶ。
汚れたら直ぐ洗濯し、白衣などは清潔な物を着用。
そう、最初から黒板に書かれた文字をなぞりながら大きな声で呼んでいく講師。
生徒達も白衣を着た男女のイラストと共に同じ文字が書かれたプリントに其々線を引いていく。
『たった1本でも料理に髪の毛が混じっただけでいっぺんにお客様からの信用は失われます。
それが長年付き合いのあるお客様でもです。
そんな事が起きないように常に清潔感のある髪型を心がけ手入れしましょう。
だからと言って、料理に臭いが移るような整髪料や化粧品、香水を使ってはいけません。
確かにお洒落も大事ですが、料理に臭いが移るだけでお客様を不愉快にさせてしまいます。
そこも気をつけてください。
また、作業前に手や指に化膿した傷がないか確認し、爪は白い部分が殆どないくらい短く切ります。
詳しくは食品衛生学で習うと思いますが、それだけでも食中毒が起きる可能性があるので注意しましょう。
指輪や腕時計、ピアスなどのアクセサリーも衛生的に好ましくないので今つけている人は外すように。
こう言う箇所を教室に入る前に毎回私達がチェックします。
来週から、現場で働く先生の授業が始まるわけですが、遅刻した者だけではなく服装や身だしなみのチェックに引っかかった者は教室に入れません!!
今からチェックするので立ってください』
(え!そ、そんなに厳しいの!!?ど、どうしよう・・・・・・絶対服汚れてるよ)
講師の言葉にモナミは慌てて自分の体を見回す。
今は蜘蛛の姿だから解らないが、さっき井戸に落ちたのだ。
服が汚れているかも知れない。
その事に不安が湧き上がるが、教室の天井の隅に居るモナミに気づかなかった講師の次の言葉に胸を撫で下ろす。
『今回はこのまま授業を受けてもらって構いません。
ですが、今日注意された生徒は次回から気をつけるように』
(よ、良かった~)
そんなモナミに気づいていない講師は話を続けた。
『白衣、前掛け、帽子、靴が実習で汚れた場合速やかに洗濯し、常に清潔に保ってください。
次に衛生的な習慣、つまりは手洗いを習慣付けてください。
石鹸と消毒液、爪用のブラシを使い指先からひじまで十分な時間をかけて念入りに洗うこと。
特に指先、指の間、親指は手洗いが不十分に成り易いので気をつけてください』
講師の指示で生徒が見ている“手洗いが不十分になりやすい部分”と書かれたプリントには、講師の言った箇所の他にも掌のシワや手の甲、手首も書かれている。
これを見ると殆ど十分に洗えて無い様に見えるのだが・・・・・・・・
『実習の前だけではなく、汚れた食品や調理器具、食器を洗った後やゴミや床に落ちた物を拾った後もその都度手を洗うように。
ては、外の手洗い場に移動してください』
ゾロゾロと教室を出る生徒達。
モナミは生徒が全員移動したのを確認し、戸の上のガラス張りの小窓からそっと生徒達の様子をのぞいた。
廊下では生徒に囲まれた講師が説明しながら手を洗っている。
洗い終わるまで2,3分位は掛かっただろうか?1回目は手の油や汚れを落とすため、2回目はその先に潜む菌を洗い落とすため。
爪からひじまで丁寧に2回、石鹸でゴシゴシ洗いペーパータオルで拭く。
その後、除菌液を手全体に刷り込むように擦り合わせて手洗いは終わりだ。
(そっか、あんなに丁寧に洗わないといけないんだね。あ・・・・・・・・・戻らなきゃ)
モナミは講師の手洗いと普段の自分の手洗いを比べどれだけ不十分だった実感した。
その事に不衛生だったな、と反省していると順次洗い終わった生徒達が教室に戻ってくるのが見えた。
小さなモナミにとっては教室の端から端まで移動するだけでも相当な距離がある。
全員が戻る前に元の教室の隅に戻らないと。
『実習の材料は大切に使うように。
予備があるだろうと無駄に使うようなら減点して行きますからね!
最後に実習室の清掃とゴミについて。
ゴミの分別は徹底して行う事を心がけてください。
それと、実習内容によっては野菜の皮や切れ端と肉や魚の骨をだしをとるのに使うので集める場合があります。
その場合は授業前に指示を出しますので間違ってゴミ箱に捨てないように。
実習室は常に清潔でなくてはいけません。
使用後の実習室の清掃は2班ごと行ってもらいます。
が、調理台の清掃は各自、班ごと行うこと!
清掃まで授業内容なので理由無く清掃をせずに帰ったものはその授業を欠席したことになるので注意してください。
掃除用具は隣の準備室の緑色のロッカーにあります』
そう言って講師は隣の小部屋を指差した。
体を乗り出して準備室を覗こうとする生徒を気にすることなく講師は話を続けた。
床、調理台と流し台、コンロ、冷蔵庫。その他にもまな板やふきんの清掃方法と片付け方を説明する講師。
準備室を含めた実習室の床とふきんは当番の班が、流し台と調理台、コンロはその調理台を使った生徒達が分担して使った後掃除する事。
その他にも毎日放課後にも校内全部を掃除するらしく、このクラスは担当から外れているが、他のクラスが冷蔵庫と床、排水溝、ゴミ箱を掃除するらしい。
『しっかり清掃し、実習室内に虫が湧かない様にしましょう。
あぁ、それと人によっては“蜘蛛は他の虫を食べる益虫だから大丈夫”と言う人が居ますが、
とんでもない!
蜘蛛そのものや巣や脱皮した殻の一部が調理に入る危険性があります。
今朝のニュースで見た人も居ると思いますが、実際ある工場の食品に蜘蛛が入っていたと問題になったばかりです。
異物混入の観点からいったら、例え益虫でも経済的、衛生的、心理的に被害を引き起こす害虫と言っても良いでしょう。
見つけたら駆除してください』
(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?)
“駆除”の2文字を理解するまで数十秒。
(・・・・・・・・今、いったい何を駆除しろと?“蜘蛛”って聞こえたけど、聞き間違いだよね?気のせいだよね?ハハ、うん。気のせいだ、気のせい)
『蜘蛛の巣もちゃんと取り除くように!』
(いやぁああああああ!!!間違いじゃなかったぁあああああああああああ!!!!!)
先ほどから変わらず坦々と話す講師の顔がモナミには獲物を見つけ舌なめずりする狩人に見えた。
その上、これから全員で掃除をすると言うじゃないか!
間違いなく見つかって殺される!!
その恐怖からもたつく体を急かし、自分が出てきた天井の穴から垂れ下がる糸を全力で登る。
無我夢中で一気に登りきり穴、いや、数時間前に落ちた井戸から這い出た。
「か、帰ってこれた?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よ、よっかた~」
荒くなった息を落ち着かせながら辺りを見回したモナミ。
目に映るのは見慣れた木々。
それと何時も通りの青い一色の空とその空に浮かぶ白い雲と太陽。
自分が無事元、何時もと変わらない平和な世界に戻れたことを実感しポロポロと涙をこぼす。
「・・・・・・・・・・・フ・・・・・・・・・・・う、グス・・・・・・・・・・・・
つぎ・・・・・・・・・・・次から見つからないよう注意しながら見学しよう」
命あっての種物。
だけど、異世界の調理技術は気になる。
ここで異世界に行かないと言う選択をしないあたり、モナミらしい。
そもそももう1度行けるかどうか解らないのだ。
だが、モナミはその事に気がついていなかった。
涙も止まりだいぶ落ち着いた所でモナミはゆっくり店に戻った。
勿論、此処に来る切欠だった泥だらけの洗濯物も忘れず持って。
「ただい「モナミちゃん!!?」うぐっ」
「モナミ!!お前、今まで何処に!?いや、それより何処も怪我してないよな?変な事無かったよな!?」
「あわわわわわわー」
何時も通り店に入ると涙と鼻水でグチャグチャの顔のアロマが腹に飛び込んできた。
アロマの突撃で尻餅をついたモナミの肩をリキッドが掴み激しく揺さぶる。
「さっきまで無事だったけど、今、2人の手で昇天しそうだよ」
と言いたいところだが、揺さぶられすぎて声が出ない。
「ふた、ふた、りと、おち、おち、おちつい、わた、ししししし」
「モナミ!!傷はきっと浅いぞ!!死ぬな!!死ぬなぁああああああああああ!!!」
「いやぁああ・・・・・モナミちゃん!!死なないでぇえええええ!!」
「ぐっふ!」
正にカオス。