第二話ノ1
台風が来た。
風速五十メートル級のどえらい台風だ。
風車屋の息子である有馬は、これに駆り出される羽目になった。
風車は風が大好物だが食い過ぎれば食あたりになる。耐久値、過回転数を上回る外力を与えられるとブレードが木っ端微塵になるし、ピッチ変換と過回転防止機構ではどうにもならない事がある。弾け飛んだ風車の破片が腕に刺さったことがあるし、父親は顔に傷まである。命がけの職業なのだ。
衛星による気象予報ができないこの時代、空模様の観測は灯台の役割である。
立駒では海岸沿いにある基地レーダーがその主幹部を担っていた。
一般家庭に電気を回しているのは主に風車で、これを動かせない期間は家の蓄電器が文明の寿命となる。絶対に外せない主要施設への電力供給も山中に生き残っているダムの水力発電と太陽光発電地帯で複合的に行われているけれど、それだって神の采配だ。いまどき「国」との繋がりなんて、どこも鉄道施設くらいなのだから。
立駒では重要施設の保全が「やれるやつがやる」に落ち着いている。
今回の情報は、台風が来る三十分前のことだった。
死に体で帰還した。部屋を見て、さっそくげんなりする。
キバリーの手によって部屋は城砦化されていた。
部屋にある本という本を積み上げ、柱を立て壁を作り、時には棚を複製し所々には金属部品まで持ち出して、それはそれは見事な建築をする。芸術家が見たら驚いてうっかり時の人になりそうだ。
……なんでこんなもん作った。
最近のキバリーは「巣」を作ることに没頭していた。
今までわりと、というかまったくその行動に法則性めいたものは感じなかったが、こういうインドア趣味に関して有馬は閉塞感を覚えるタイプである。他所でやってほしい。
「うひ、うひひひひ」
とか、中から聞こえるし。
「うひひひ、嵐だ、嵐だ」
「嵐の何が楽しいんだよ」
「チョー楽しいじゃん! 日常を脅かす災害! 滝のような雨! 稲光! 一歩踏み出せば死の危険! これを楽しめないでどうするよ!?」
言葉遣いもずいぶん流暢になったもんだ。
「嵐なんて嫌いだ。人が死ぬから」
着替えを持って風呂に向かった。
まったく嵐を楽しむヤツの気が知れない。
子供はわりとそういうのが好きなはずだけれど、自分は違った。憎んでさえいる。
湯船につかり、やっと一息。
「────」
冒険とか機械とか好きなくせに、嵐が嫌いなのは変だって?
そういうなら、身内の一人でも亡くしてみればいい。
「うひゃひゃ、あひゃ、うひゃひゃ」
部屋に戻るとキバリーのボルテージがまた上がっていた。
「うるさい」
「うひ、あひひひ、くすくすくす」
「少し静かにしてくれよ。外に聞かれるじゃんか」
折りしも来客中なのだ。風車の作業で助けを呼んだから居間に来ている町会の人たちにでも聞かれたら、父も母も差し合わせて「息子は心の病で」とか言いかねない。
「キバリー、なにしてるの?」
有馬は城砦の門を開けて(手の込んだことに観音開き)言った。
遠くから、反響した声で「いま忙しーのー」と聞こえてきた。
「なんだ? どうなってんだこれ」
門の中は真っ暗闇で向こう側が見通せない。ためしに手を伸ばしてみる。
虚空を掴む。ぐいぐい身を乗り出して向こう側を探すうちに、
「おわっ、たたたた、っと──あれ?」
中に入っていた。
両脇には、磨かれた石のような壁。硬質の床。
後ろを向くと本で出来た城門がある。そこは通路のようだった。
「はは……間取りがおかしい」
間取りどころか空間おかしいぞこれ。
ともかく、こうなったら前進する。
照明の無い通路は何故かぼんやりとした明るさを保っている。やがて突き当たりの扉に当たり、広い場所に出た。
くすんだ木や土の色はそのままに、四方を書架に囲われた隠れ家のような広間。
奥に木の机があって、両開きの窓があり、ごうごうと荒れ狂う雨がガラス戸を叩いている。そこにキバリーがいた。
「あはは、ひひ、うふふふ」
机に本を広げて読んでいるようだ。
「何読んでるの?」
「フラッシュ・ゴードン」
「スペオペじゃん」
せめてこんなときくらいそれっぽいのを読んでいて欲しい。アーサー王伝説とかシェイクスピアとか。
「こんな本、うちにあったっけ?」
「うんにゃー」
「ない? 無いのになんで」
「それより──」
本にぴょこんと立ち上がった。
「見てよ見てよここ。オレっちの即席のバビロン図書館」
「即席?」
「牛の糞に紙屑入れて、お湯で溶かして三分待つ。したらできる」
「どういう……」
「オレっちのひみちきち」
秘密基地。
部屋の中にどっかり築いている時点で秘密もへったくれもないけれど、この広大な異空間は、なるほど秘密基地と呼ぶにふさわしかった。
「ちっとねー、オレっちってば自分のこと知らなすぎっから読書でもして軽く我思ってたてたわけよー。限りない自己探求の旅みたいなー。それでちょっち思い出した。オレが何でここにいんのか」
「え、本当!?」
キバリーの正体が、ついに明らかになるのか。
有馬は心を正座させた。
「この町を、うわー! ってする」
「…………え?」
「だからうわー! ってすんの」
「進化してない……」
有馬はしなびた春菊みたいな気分でキバリーを見下ろした。
「いいよもうそれ……具体性がまったくない。うわーって何? 侵略しようよ!」
「この町! すげー盛り上げる!」
盛り上げる、ときた。
有馬だって、常々そうなりたいとは思っているのだ。
「で、なんで盛り上げなくちゃいけないの?」
「この町とケーヤクしたのだ」
「町と契約? 町会となんか約束したの? あーそりゃ盛り上がるわすごいすごい。夏祭りぐらい盛り上がるといいね」
ヤサグレ顔の有馬に構わず身振り手振りで続けるキバリー。
「ここにいるみんなを楽しませてくれって町に頼まれたから、オレっちが出てきたのさ。それがこの町とオレっちとのケーヤクさ」
町、とか、契約とか、何の話だ。
まるでこの町が生き物みたいな言い草じゃないか。
「…………」
今まで、キバリーは主張という主張をしなかった。
異邦人には目的があるものだ。観光なり、侵略なり。それが無いキバリーに有馬は軽い失望を覚えていた。キバリーは便利なマスコットでしかなかった。
でも違うのか? 目的があるのか?
「それ、本当?」
「町の外に出られねーのも、ケーヤクフリコーになるからだ。侵略するにもまず近場からってことだぜ」
「え……まじ?」
ちゃんと、意思がある。目的がある。
初めて会話できた気がする。
「じゃ、じゃ、じゃーさっ、みんなを盛り上げれば、町の外に出れるってこと?」
「おう」
「そしたら一緒に旅できる?」
「もちろんね」
「じゃあやろうよ!」
──みんなをあっっと驚かせるすごいことしてやろう!
信じた。町を出るための達成条件「盛り上げる」は意味があるのだ。深く考えなくていい。無茶苦茶な存在に理屈を求める方が間違っている。
「どうするの? どうやって盛り上げればいい?」
「しらんよ」
「知ってろよ! なんでもいいの? 盛り上がれるなら、なんでも?」
「ウーム……いいんじゃね?」
「ちゃんと詳しく!」
「オレっちもよくわかんねっだよね。難しくかんがえるとアタマ使うじゃん? ンなことしなくても、太陽はあたたかいし、コトリはさえずり、ミズは豊かで、ヒトビトの心は輝いてるワケじゃん? だからテキトーに、キバらないでいこーぜ」
「やる気あんのか!」
その後の議論をまとめると、「テキトーに盛り上げる」に落ち着いた。
手段は問わない。楽しければそれでよし。
有馬は遊びのプロだ。だが一人遊び専門だった。みんなで楽しく、となると途端に頭が痛くなる。でもきっと、みんなも楽しさを望んでいるはず。退屈しているはずなのだ。有馬は勝手にそう決め付けた。
「けっきょく何をやるかだ」
台所に行って麦茶をいれた。町会の人たちが居間で親父と話している。酒が入っているようで笑い声が聞こえてくる。
居間から出てきた里子と目が合った。
「あっちゃん、台風通り過ぎるみたい。すぐ雨も上がるって」
「え、でも一晩中暴風域に入るって」
「それが進路逸れたみたいなの」
窓を見る。風が弱まっているのが分かった。
「じゃあ、町会の人たち帰るんだ」
「それが場所変えて宴会することになったのよ」
「……こういう日にバカ騒ぎするのって、どうかと思う」
「ちがうのよ。今日亨さんが帰ってくるって」
「──トールジイが!?」
目の色が変わった。
トールジイはこの町の顔役だ。仕事で全国を飛び回っていて、会える機会は少ない。
冷蔵庫からビールを取って、つまみを皿に散らしながら、
「夕方、珠樹君の家に集まるみたい。わたしも手伝いに行くから、あっちゃんも一緒に来る?」
「絶対行く!」
里子はくすくす笑って居間に戻って行った。
──トールジイが帰ってくる。
水浸しのアスファルトを光が覆っている。急に空が晴れてきた。
倉庫からカブを引っ張り出し、水しぶきを上げながら有馬は堤防沿いを走っていた。
海の家にはもう人が集まっていて、酒やら何やら宴会用具がいい大人たちの手で運び込まれている。
横付けされている自動車を見つけ、次に軒先で大笑いするジジイを発見。有馬は大きく息を吸い、
「トールジイ!」
堤防の上から叫ぶ。応じてあちらも手を振った。
「おー! なんじゃそりゃー有馬! どーしたー!」」
「……これ、自分で直したんだ!」
「よく動かせたな! 免許あるのか?」
「めんきょ? なにそれ?」
「ふははは! 道交法なんて守ってるヤツいなくなったからなぁ!」
なんだかよく分からないが、ほめてくれた気がしたので、有馬も誇らしげに笑った。
トールジイは"移動司書"だ。
見た目は遊び人が講じて南国に住み着いてしまった爺さんそのものだが、れっきとした公務員である。文明崩壊の波に呑まれ見捨てられてしまった全国各地の本を回収し、国立図書館に保管することを生業とする蒐集屋のことだ。
つまりは、国を味方につけたトレジャーハンター。
めちゃくちゃかっこいい。有馬の憧れナンバーワンだった。
「おかえり! お土産あるよね?」
「おう、たくさんあるぞ。今日は大盤振る舞いだ」
奥のほうで野次が飛ぶ、彼の話に期待して集まってきた大人たちだ。
トールジイがことさら人気なのはテレビ電波が立駒まで届かないせいもあるけれど、第一に娯楽を提供してくれるからだろう。
外の話が半分。もう半分は、回収された本が目当てだ。
国から依頼のあったものから個人に頼まれ捜してきたもの、勝手に拾ってきたものまで、国立図書館の御免状をひっさげて堂々とかき集めてくる。
夏のあいだは故郷で本を貸し出すことがトールジイの仕事である。
さっそく有馬も宴会の準備に加わろうとした。すると、肩を掴まれ、トールジイは親指を立て「土産。土産」とニヤニヤしてくる。車の方を指差していた。
そのとき車のドアが開いた。
「久しぶりです」
降りてきたのは小さな女の子だ。
薄汚れたシャツに半ズボン。その上からロッククライミング用のハーネスを巻いている。足にでかい絆創膏を貼っている。シニョンに束ねていた髪を解いてまっすぐな髪をあらわにした。
なんでこいつが、と思った。
なんでも何も彼女はトールジイの孫なのだから、夏休みを利用して隣町から遊びに来てもおかしくないはずである。
ただ、次に飛び出してきた言葉は、
「今回の探索、こいつにも手伝わせたんだ」
恐れていた事態そのものを鈍器にして叩かれたような感触。
彼女の名前は千愛。通称チャイ。
有馬の許婚だ。
宴会は夕方から開始された。
トールジイを中心に、町中から集まってきたオヤジたちが人事不省の盛り上がりを見せる。男同士で花が咲く話と言えば下品な話と相場が決まっており、あの町は美人ぞろいだとか、あの町はブスばかりだったとか、時々意味の分からない単語が飛び交っては笑い声が炸裂する。有志として来てくれた婦人会の方々は呆れ顔で料理を運び、珠樹もヤーコもお付きとして気まずげに席を並べていた。
有馬といえば、外側の席でなんとなく輪に加われないでいる。
「浮かない顔をしています」
スイカを持ったチャイがとなりに座った。
座敷の端っこ。風鈴が鳴っている。ひさしにすだれが立てかけてあり、有馬はその隙間から海の向こうを見ていた。
「みんな悪ノリしています。有馬は加わらないのですか?」
「別に」
「別にですか」
抑揚の無い声。意味を反芻しているような間。
「それはわたしが原因ですか?」
わかるなら黙ってればいいのに。
トールジイがしている話は有馬にとってすぐにでも食いつきたい話ばかりだ。
ただ、その話の中には、いつもとなりに立つ誰かがいた事を想像させる。支えとなってくれる頼もしい相棒の影。
苦い思いに駆られるのが嫌なのだ。
「どうしてよりにもよってお前なんだ、という顔です」
「……学校どうしたんだよ。本の探索って一週間や十日ぐらいじゃできないだろ」
話が本当なら夏休みになる前からこいつはトールジイの手伝いをしていた事になる。
「父も母も了解済みです」
「どうして」
「わたしにその資格があったからです」
口調は変わらず、ただ淡泊だ。チャイはいつもそうだった。口数は少ないし、表情に乏しいし、言われたことを「はい」と答えて従ってばかりいる。
従順? 違う。こいつは身を守るためにそうしているのだ。
そんなのがトールジイの相棒になってしまったのだ。
「勉強しました。歴史を学び、お爺様の力添えができるよう訓練しました。お爺様は偉大です。文明再興の波に溺れようとしている文学の復興を目指しています。わたしもその助けになれればと思いました」
本当ならこうやって、自己主張すること自体珍しいのだ。
「それに比べて有馬はコドモです」
「…………」
「まだ家出癖が治ってないようですね。目的もなく外の世界を出歩こうだなんて、命をドブに投げ捨てるようなものです。馬鹿げてます」
こいつは、トールジイの探索に有馬が付いて行きたがってたことを知っている。
知った上で、自分の意思で、先を越したのだと宣言している。
これが屈辱でなくて何のだ。
「それは逃避です。誰にも認めてもらえないからと言って駄々をこねているのと一緒です。認められたいならしかるべき訓練を受け、知識を積み重ねるべきです。自分を律することもできない人にお爺様の助けなどは到底無理でしょう。だいたい有馬は」
ちなみにそのとき有馬は黙々とスイカを食べていた。
スイカを食えば種が出る。
ヤーコの例もある通り、有馬はこうした小言に対して大人相手でもかなり直球で憮然とした態度を取る。
そのとき飛ばしたスイカの種は「ビシィ!」と周りに聞こえるくらい、絶大な威力をもってチャイのデコにくっついた。
「────」
チャイの前に出て、両手の人差し指、中指、小指を使った、ダメ押しのすごいベロベロバー。
「この……アホ────────!!」
逃げた。感情をむき出しにしてチャイは追ってくる。真面目なやつほど怒らせるのが面白く、真っ赤な顔で追ってくるチャイはことさら有馬の笑いを誘った。
「待つのです! 有馬にはもっと言ってやりたいことが山ほど!」
「あーあー聞こえなーい」
「そうやって逃げて何の解決になるのですか!」
「カイケツって何? 食えるの?」
小言なんて聞き飽きている。
そのとき酔っぱらいどもの世話を任された貧乏くじの一枚、セリナには、夕暮れの浜辺を駆ける少年少女がどう映ったろう。二人の怒声に近い叫びは「あはは。こっちこっち!」「まってよもお!」という感じに脳内変換された違いなく、さぞ仲睦まじく見えただろう。何せ、セリナの親戚である千愛は祖父、亨が決めた有馬の許婚であり、なんだかんだ言いながら有馬のことを嫌っているふうに見えないからだ。
麺つゆを運ぶ盆にヒビが入るのも、目の色が殊更黒いのもお察し頂きたい。
「せっちゃん。こぼれてる」
里子に言われ、慌てふためいた。
「どうしたの? 何か見た?」
「お母さま! なんでもないですなんでも」
「チャイちゃんね。ふふふ」
おかしくて仕方がないというだけでは足りない諸々を含んだ笑みに、セリナは観念したふうに浜辺の方を見やって言った。
「有馬って、最近変じゃありません?」
「うーん。そうね、色々やってるみたい」
「それは前からですけど、最近はとくに浮わついてるっていうか、危なっかしい感じです。ものすごく楽しそうで手がつけられないと思ったら、ひどくどんよりしてることもあって……」
「たぶん、寝不足なのよ」
見当違いの憶測に一瞬ついていけなかった。
「ほら、睡眠時間が足りないと躁鬱が激しくなるって言うでしょ? ここのところ夜中にずっとラジオ聴いてるみたいなの。はやりの番組でもあるのかしら? 盛り上がっちゃってラジオに話しかけてるみたい」
番組に合いの手を入れたりボケに突っ込んだりはセリナも経験がある。
「食欲あるから大丈夫よ。時間がもったいないから、夕飯のおかわり部屋に持っていくくらいだもの。行儀悪いって言ってるのに。バイクの次は何を見つけてきたのかしらね」
違和感。
有馬はもともと、何かに没頭したら手がつけられなくなるタチだけれど、人に隠れてコソコソと変なことを企んだりはしないと思う。
それでいて活き活きしている。
あってはならない事態である。
それをまともに考えたら、人に言えないやましいことで楽しんでいることになるのだから。夜中にいやらしい番組でもやっているのだろうか? そりゃ有馬だって中学生だしやらしい本のひとつやふたつ目をつむってもいいけれど、昼間から頭が桃色になるくらいだとさすがに姉として注意しないわけにはいかないわけで……。
はっ、と気付いた。
夕飯を部屋に持っていく。
夜中に聞こえる話し声。
恐ろしい想像が、セリナの中を駆け抜けた。
まさかまさかまさかまさか。でも、
そう考えるとすべて辻褄が合ってしまう。
人目を忍んで校舎裏に物を持っていったこと。粉々に割れたガラス(あのあと結構な騒ぎになった)。そこにあった数々の日用品。その挙句、たくさん物が載せられる足の長い移動手段を確保したこと。
「どうしたのせっちゃん?」
心配そうに覗き込まれて、見るも無残に動揺した。
「なん…………なんでもないですわ! おほほほほ!」
それからも酔っぱらいの攻撃をお盆でいなしながらセリナは考えていた。
確かめなければ。
立駒は開いた町だ。
だから、何年かに一人くらい、流れ者が居ついてしまう事もある。
ヤーコみたいに、都会の住人が逃げ込んでくるのとは事情が違う。それらは往々にして災いの種になるのだから。
しつこかった。
前は本ばかり読んで運動なんかてんで駄目な女子だったのに。訓練とやらは伊達ではなかったらしい。友達いないひきこもりの読書家チャイは、全国を股にかけ秘宝を探す冒険家にクラスチェンジしていた。
いつも持ち歩いている爆竹や蜘蛛のおもちゃでは効果を得られず、虎の子の煙玉と落とし穴(夏休み前に珠樹と作ってそのまま忘れていた)のコンボでやっと動きを封じるに至り、海の家に帰還できた。
恐ろしい敵だった。
海の家では過ぎ去った台風の代わりを果たすべく、男どもが禍々しい人災を振りまいている最中だった。子供らには退避勧告が出され、婦人会の方々がテーブルを引っくり返しタマ避けを築いては邪悪なる生命体と化したおのおのがたの旦那どもに怒りの鉄槌を喰らわせている。火災訓練と同じ要領でバケツがほいほい回されていく。
「あっちゃん。今日はもう帰りなさいね」
ヒヨっ子はすっこんでいろと聞こえた。有馬にほいと夕飯を持たせ、
「お父さんの分もあるから、ひとりで食べちゃだめね」
ふう、とため息。
トールジイの話は、あとで聞くことにしよう。
キバリーへのお土産がトウモロコシや寿司になってしまったのは残念だけれど、まだ一ヶ月はいるはずだから別に急がないでもいいのだ。
「おーおーおーおー、待った待った」
婦人会による猛攻の始まった戦場から、トールジイがするりと抜けてきた。海の家を出て、車のところまで連れて行かれる。辺りはもうすっかり暗い。
「なに? なんかあるの?」
「おー。頼まれてたろ、本」
「頼んだ憶え無いけど」
「いいから」
「……?」
三年前くらいに欲しいと言ったことのある本はあったけれど、いちいち憶えてないだろうし、変に思っていると「おーこれこれ」と車から大きな茶封筒に入った本を渡された。
「いつか読みたいって言ってただろ。土産だと思って取っとけ」
ニカっと皺の寄った口で笑う。
有馬はさっそく中を開けた。
「白いポストに入ってた。大量に発見してな。こういうの俺、文化だと思うのよ。チャイの寝ている隙に修繕用の保存箱に入れるの苦労したぜホント」
アレ本だった。
まったくこの人は、まったく、人類の父じゃなかろうか。
「……かたじけない」
「おう。ほら。だから、アレ」
「コレですね」
有馬はふところから去年撮ったブロマイド写真(里子の水着)を二三枚差し出して、トールジイと熱い握手を交わした。
男の友情だった。
そのやりとりを、すだれの陰でセリナは見ていた。