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キバラナ  作者: 地藤零一
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第一話ノ5

 海の家での仕事も、もうすぐ終わる。

 遊び疲れた子供が親の背で眠っていた。夕日はすでに沈みかかって、昼間に作った砂城が潮汐にさらわれていく。亡者のような長い影がまたひとつ消えていく。今日はもう店仕舞いで、流し台で水の流れる音と皿の鳴る音が、波に乗って交互に聞こえた。

 有馬は、デッキブラシで床を洗いながら、そわそわしている。

 早く帰りたい。

 昨日、キバリーの吐いた燃料で、エンジンが動いたのだ。

 トントン拍子に進んだ。タイヤを付けてチェーンを絞めて油を差してライトを点けた。試乗してみると動かず、ギアを入れるのを忘れていて、慌てて入れたらびっくりするくらいの速度で走って、前輪が持ち上がった。死ぬほどビビった。

 それから、ものすごくわくわくしてきた。

 昨日の夜のうちに身支度をして、出て行こうかと思ったけれど、約束事は守らなくちゃいけない。十日間きっちり働いて貰えるものを貰って十全の準備をしてから出発する。バイクでの移動は速くて寒いから、風除けの上着がいる。目も痛くなるからゴーグルが欲しい。途中のことを考えると食糧は多めに用意したい。自転車のときより積めるから、前は持って行けなかったあれこれをどう積むか──など、仕事中もそんなことばかり考えていて、早く沈め早く沈めと太陽に念を送っていた。

 今日の夜に決行するのだ。

 バケツの水を撒いて、ラストスパートをかける。出発のために体力を残しておこうなんて考えは無い。この掃除を終えたら終わり。買い出しに行って、夜になったら出発するのだ。もう誰も止められないのだ。

「おーい有馬くん。珠樹のやつ知らないか?」

 厨房から、親父さんが顔を出した。珠樹とはTの戒名である。

「さっき、ゴミ拾いに行くって外に出てきましたよ?」

「あー、悪いけど呼んできてくんねえ? 掃除もう終わりでいいから」

 お安い御用と引き受けて、有馬はすぐ砂浜に出た。

 見渡す。昼間の喧騒を思わせる無数の足跡。空は一面茜色に染まっている。右の防波堤から左の端まで、遊泳区画すべてに目を走らせても、帰り支度を整える観光客がいるだけ。Tの姿は見当たらなかった。

 ──フケた?

 推測は二秒も経たず確信に推移した。ぶっちゃけ捜すのがめんどくさかったからだ。どうせ仕事サボってどこか遊びに行ったのだ。親父さんにはそう報告しよう。Tのことなんて知ったこっちゃない。

 海の家に引き返すと、堤防の上に男女二人組を見つけた。

 Tだった。ガードレールに腰掛け、誰かと談笑している。

 相手など見なくても分かった。いつも何かと先輩風を吹かせて嫌味を言ってくる、二個上のヤーコである。本名は鏑木弥子。「まさに」と形容できるほど有馬の大嫌いなタイプで、ついでにTの許婚だった。

 海の家に戻って、親父さんに見たままのことを報告した。

 けれど「じゃあ仕方ねえか」という感じの対応をされ、有馬はついしかめっ面になる。他はどうか知らないが、相手を勝手に決められるのはこの町の悪しき習慣だと思う。

 まあいいや。関係ない。

 給料袋を貰って、さっさと暇を告げた。



 西日がまぶしくて、堤防の下を歩いていると、ふと誰かの気配を感じ、有馬は振り返った。

 ほんの数メートル後ろを、ヤーコがつけてきていた。うげ。と口に出して仰け反る。

「やっと気付いた。ホント勘悪いわねアンタ」

「用があるのなら声かけろよ」

「アンタがどれくらい周り見てないか、確かめてやりたかったのよ」

 ヤーコは有馬のすぐ後ろで立ち止まった。その表情を一言でいうと「憤懣やるかたない」といった感じで、いつも怒りの矛先を探しているフシがあるのだ。黙っていれば深窓のご令嬢みたいな美人なのに、それさえも鼻にかけているところがあって、もうとにかく有馬は全方位的にこいつのことが大嫌いなのである。

「そろそろまた出てくんだってね」

 今日の火種はそこらしかった。

 Tのアホめ。口を滑らす相手を選べ。

「なんだよ……文句あるのかよ」

「無いわよ。ぜーんぜん。アンタ一人で行って野垂れ死んでくれるならね」

 何の遠慮も仮借もない、侮蔑的な笑みだった。

「ただうちの珠樹をたぶらかして一緒に連れて行くなんてだめ。何考えてるの? 珠樹にもし何かあってもアンタじゃ助けられないんだから」

「なに決め付けて」

 待て。ヘンだ。

 なんでそこまで知ってる。

「……この前珠樹が来なかったのって」

「そうよ。アタシが止めたもの。あんなロクデナシに付き合って行ったら怪我するだけじゃ済まないって。自分のことしか見てないんだから、絶対ひどい目に遭うって言ってやったの。珠樹はいい子だから、素直に聞いてくれたわよ」

 瞬間、閃光のような怒りが弾けた。

「──よけいなことするなよ!」

「余計なこと? アタシのセリフよッ! アンタが変な気起こさなきゃ言わずに済んだのよ! ばかなの? ……ああそうねバカだったわね。ごめんなさい。馬鹿が伝染るからもう珠樹に近付かないでくれる?」

「ヤーコが口出しすることじゃないだろッ!」

 心底馬鹿にしたふうに、やれやれと頭を振られる。

「ホント幼稚ね。アンタみたいなガキに外の何がわかるの? 誰もいないところで冒険ゴッコして、オレかっこいーって浸ってるだけじゃない」

 否定の言葉も出てこないくらい頭でブチブチ切れる音がした。自分のしていることは断じてゴッコ遊びなんかじゃない。空腹になっても常に食糧があるわけじゃなし、病気になっても怪我をしても助けてくれる人はいない。土の上で寝て雨の寒さに震えて、水の残りを心配して、命の保証なんか無い、本物の冒険なのだ。なのに──

 ヤーコの言いたいことは、鉄板に書いたみたいな台詞だ。

 ──安全な場所があるのに、わざわざどうして危険な場所へ行くのか。

 何も分かってないのだ。

「言いたいことはそれだけだから。くれぐれもまた変な気起こして、珠樹に関わらないでよね。別にアンタが一人で行くなら大賛成なんだから」

 それだけ言うと、ワンピースの裾を翻して引き返していく。

 惚れ惚れするほど嫌な捨て台詞で、有馬はぶるぶる震えていた。

「……キバリー。空き缶」「ほいきた」

 胸のバッチからぽろっと空き缶が落ちてくる。仕事収めに観光客が持ち込んだゴミを片付けるのは、この十日間でもっとも神経の減る作業だった。しかし、今このときは、有馬もあの心無い観光客の一員となってやるのだ。ぶおん、と大げさな踏み切りから放たれた黄色い空き缶。低空を裂く凶暴な軌道。

「あいた────っ!!」

 小気味良い音が鳴って、ヤーコが鬼の形相で振り返ったとき、堤防沿いの小道にはもう他の誰の姿もなくなっていた。



 真夜中まで待った。

 窓をこっそり抜ける。荷物を積んで倉庫裏にあらかじめ停めてあったカブを出し、音もなく出発する。

 町の果ては、基地とガソリン屋の鼻先にある鉄橋だ。

 昔は軍事関係の車両がよく行き交っていた。基地が放棄されてからはほぼ無用の長物となっているが、ロクに整備もしないで何年もここに居座っている。

 有馬は、橋の手前で立ち止まった。

 装備を確認する。

「アリマ。忘れ物は?」「なし」

「燃料は?」「満タン」

「気分は?」「落ち着いてる」

 キバリーは、後部キャリアボックスに四肢を伸ばしてくくり付いている。タコの擬態みたいで、ほとんど荷物の一部になっていた。

「ついに行くぞーって感じ、ある?」

 それが、あんまりないのだ。

 とうに覚悟は済ませていたのか、あまりにも上手くいくので、地に足がついていないのか。

 どちらにせよ、ペダルを蹴ってスロットルを開けたが最後、果てることのない冒険に飛び出していくことだろう。

「心配事とかねーだろな」

「ないよ……あるとしたら、これからのことだ」

「何も言ってこなくてよかったのか? タマキってヤツに」

「もう気にしてないし」

「じゃなくてさー、あいつ顔にごめんって書いてあったからよ」

 思う。キバリーはすごく人間くさい。

 最近はもう異世界から来た不思議な生物というより、俗に染まった意地悪妖怪みたいに見えていた。最初からそうだったけれど、キバリーに神秘性とか宇宙的恐怖とかを期待するのは筋違いなのだ。大口叩いておいて、基本やる気がない。

「いいよ。珠樹は悪くないから。ヤーコのやつはむかつくけど」

「おやまあ大陸的なご気性」

 くすくす笑う。変なやつだ。

 心に妙な余裕があった。前の旅はこうじゃなかったのだ。気持ちに身体を追いつかせるのが精一杯で、まだ見ることのない景色を思って、駆り立てられるようにただ先へ先へ進んでいた。今みたいにしみじみとした笑い方はできなかった。

 なんかいいなと思う。仲間いると気が楽になる。

「それじゃ、行きますか」

「ますかー」

 有馬はシートに乗ってキックペダルに蹴りをくれた。

 スロットルを捻ると、軽やかな爆音をもってエンジンは応えてくれた。

「──さあ立ちはだかる障害はこれまで幾多の旅人を飲み込んできた、難攻不落の川だ!」

「おー、そのセリフ」

「ここを越えれば、温かいスープもパンも雨露を凌げる寝床も、自分で見つけなくちゃいけない!」

 キバリー船長の航海日誌にある、後に良き相棒となる少年イマを鼓舞した台詞だ。

「君にその覚悟はあるのか! 苦難を乗り越える気迫があるのか!」

 キバリーはノリノリで応えた。

「──ありません! なぜなら、固い決意や覚悟は真の苦難に直面したときにこそ行うものだからです! こんな橋ひとつは苦難のうちに入りません!」

「よく言った。なればこそ、気楽に行こう!」

 クラッチを蹴る。ギアをニュートラルからローへ。

 重たい加速。二速に蹴ってどんどん景色が流れていく。太い川。長い橋をライトで照らして、闇を切り裂き、肩で風を切っていく。

 さらに加速。あっというまに鉄橋の出口まで差しかかった。

 ここを飛び出したが最後もう後戻りはできない。温かいスープも寝床も自分で探さなくてはならず、死んだら自己責任の旅路が果てることなく続いてる。

 恐くはなかった。一度たりとも、恐いと思ったことはなかった。

 旅の門出はいつだって希望に溢れていたからだ。やりたいことがたくさんあったし、行きたい場所がいくつもあった。今まで見つけられなかったものも、二人でいれば探しやすいはずだ。これからは、もう一人旅じゃないのだ。

 そう思った瞬間、有馬は鉄橋を越えていた。

 平坦に伸びる道。地平線のその先まで障害物は無い。

 初めて自分の意思で橋を越え、初めて夏でも風が寒いことを知る。

 そのときの感動といったら内側から胸が破裂しそうなくらいだったらしい。興奮して暗闇を走っていることも忘れ、キバリーにその感動を伝えようとして、後ろを向いた。

 だから、そこにあるべきものが見当たらないのが、しばらく理解できなかった。

 思い切りブレーキを踏む。後輪がロックして横滑りして、道路に跡を残しながら十数メートル進んで、止まった。有馬は、もう一度振り返って確かめる。

 キャリアボックスと一体化していたはずの、キバリーがいなかった。

「キバリー?」

 振り落とされたのだろうか。

 転回して後ろに明かりを向けた。暗闇の中に有馬はあの気の抜けた三頭身を探す。エンジンがぶぶぶぶ、と不平を漏らすように唸り、

 息を呑む。


 人がいた。


 季節は夏で、真夜中だった。

 生温い風が肌にじっとり張り付いてくる。

 有馬ははじめ、それを幽霊だと思った。

 真っ白な二本の足は完全に死人のそれで、音もなく、虚ろな表情でそこに立っていた。息をするのも忘れて、目をそらすこともできなかった。後からちゃんと思い返せば、怪しい箇所がいくつもある。辺りは暗闇。その人物は橋の入口に立っていた。有馬が止まっている場所からは何十メートルも離れている。表情なんて見えっこない。バイクのヘッドライトが及ぶ範囲でそれが「人」に見えたのは、月明かりの加減か、蚊柱でも立っていたに違いなく、最初に人と決め付けてしまったからそう見えたに決まっているのだ。

 実際、そこに人はいなかった。

 何分も立ち止まっていて、やっと確かめようと思って、トロトロ引き返していくうち判った。幽霊の正体見たりなんとやらで、そこへぽつんと立っていたのは真っ白なキバリーだった。

「キバリー、何して──」

 言いかけて、呑み込む。

 身体中に変な紋様が浮かび上がっている。それが本を食べたときのように、目まぐるしく動いていた。キバリーが何かを理解しようとしたり、外側からの刺激を受けると決まって起こるこの現象。そのときばかりは有馬も、何と声をかけたらいいか分からなくなる。物凄く集中しているところへ水を差すのは悪いというか、一瞬息が詰まるというか、キバリーが異生物であることを思い知らされるというか。

 模様の移動が収まると、キバリーはぼけらっとした顔で有馬を見上げた。後ろに倒れ込んで、逆立ちして、一回転して元に戻る。

「どうしたアリマ?」

 それはこっちの台詞だ。

「……ほら、乗ってよ。行くよ」

 謝る気も起きなくなった。ここに立っているということはつまり、走り出した直後に落っこちたということだから、そんなのは乱暴に運転した自分じゃなくてキバリーがまぬけなだけで、とにかく悪いのはキバリーだ。と思うことにした。

 後部キャリアにとびつき「ごーごー!」と調子よくあおって、腰に手を伸ばしてくる。有馬は、仕切りなおして下っ腹に気合を込める。

 出発。

 橋から出てすぐ、また急ブレーキで止まった。

 ちゃんと、今度こそキバリーはしがみ付いていたはずだ。

 なのに、出口を越えたところで、後ろから思い切り引っ張られたかと思うと、腹に感じていた感触がちぎられるように無くなった。

 また橋の入口に、キバリーが立っているのが見えた。

 わけが分からない。

 どうして入口の方に戻っているのだ。橋の途中まで付いてきたのは確かなのに。ずっと背中にいたのに。どうやったら、あんな一瞬で何十メートルも離れた場所に戻れるっていうのだ。

 腑に落ちないというより狐につままれました,という顔で有馬はまた引き返していく。戻った先でキバリーは、短い腕を組んで、背を後ろに曲げて、うーん、と自分でも納得いかないふうに唸っていた。

「どうしたんだよ……?」

「うんにゃー、なんかムリ」

「ムリって……なんで?」

「わっかんねーけど、出るなって」

「出るな? 誰が? 何が?」

「この町が」



 その先何を言われても、有馬は納得できなかっただろう。

 たとえ論理的解釈や、科学的根拠があったとしても、そこに転がっているものは理不尽な障害に違いなかったのだから。

 キバリーが何者で、どこから来たかも有馬は知らない。もしかすると本当に宇宙人かもしれず、地底人であり、古代文明が残した超兵器かもしれない。妖精、妖怪、魑魅魍魎。異次元からの使者。神様。ともかく何の理由があって、何故ここにいるのか、その正体をキバリーの口は一切語らない。

 分かるのは人間じゃないってことだけ。

 でも、そんなのは、関係無かった。

 どうしようもない怒りがわく。それはときどき、有馬がこの町で過ごしている時間、周囲から注がれる針のような視線、それと似ていた。

 理解しがたいと、蔑むような、哀れむような。

 川底に積もる澱のように生臭い閉塞感。

 どうしてみんな、平気でいられるのだろう。

 どうしてみんな、漕ぎ出そうとしないのだろう。

 どうして自分の好きなやつばかり、この町は縛り付けるのだろう──

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