最終章
装備を確認する。
荷物は多くなくていい。
水筒はいる。飲み水は確保できないこともあるから。
テントと寝袋はいる。地図。鍋。鉛筆。アルミのコップ。携帯コンロと釣竿。火種とナイフ。食糧はちょっとで済む。お金はあまりかからないから。
準備は万端だろうか?
有馬は迷った。
何かを忘れている気がするのだ。
朝もほど良く過ぎた、温かい日の落ちる時間。ガードレールを手すりにして、小さな道を渡す橋。竹林に囲まれた細い道が向こうにあり、右手には鳥居があって、古い神社の参道がある。立駒の子供にとってここまでが遊んでいい場所で、ここからが行ってはいけない場所だ。
知らなかったがこの神社は、個人の氏神を祭っているところで、実は私有地らしい。
珠樹は連れて来るわけないし、飯も食ったしトイレも済ませた。リムもフレームバランスも調整して、なんとか走れるようにした無印MTBの強度が気にならないわけでもないけれど、決定的にそうかと言えば心にすとんと落ちてくれない。
きっと些細な事だ。忘れるくらいだから。
そう思って、有馬はすぐ出発する事にした。
「──待って!」
鋭いブレーキの音とその声に引き止められた。
チャイが肩で息をして、ママチャリに乗って来ていた。
「どうして、黙って、行くのですかっ!」
「誰にも言ってないはずけど」
「有馬のお母様に聞きました。前日に準備していたから、今日あたりに出るんじゃないかと……」
「よくこっちの道だって判ったね」
「こちらの道が、有馬の家から、一番近いですから」
どちらも西のどん詰まりだから、判断としては間違ってないだろうけど。
「それよりどうして行くんですか!? 夏休みあと十日もないんですよ!?」
意味が分からないみたいに有馬は首をかしげ、
「まだ十日くらいあるじゃん? そんな休みめったにないし」
「有馬は宿題やってないはずです!」
「う…………」
「ちなみに珠樹さんもやってません」
見せてもらっても無駄。痛いところを突かれた。けれど、冒険の旅という大儀の前に、宿題など些末事である。有馬は悟りをひらいた(開き直った)。
「ぼくが宿題やんなくても、日は昇り、日は沈むんだ」
「……かっこいいこと言ってるつもりですか?」
譲れないものがあるとき、人は無敵になれるのだ(主に世間体とか)。
「じゃ、そういうことだから」
「そういうことだからじゃないです! どこに行くんですか!」
「まず隣町だよ。今どんなふうになってるか見てみたいし、チャイの家にも挨拶に行きたい」
「な──やめ、やめてください!」
「なんで?」
「だって、隣町といっても何十キロあると思ってるんですか……それに危険ですし……あの、それが、今回の目的なんですか?」
尻すぼみ。有馬はにまりと笑う。
「ついでだから。旅ってのはこう、自然の荒波に翻弄されながら花鳥風月を楽しむものだよね。雨降ってるのに出歩くのとかけっこう好きだし。逆境がいいんだよ逆境が」
「……それが楽しいのですか?」
「楽しいよ!」
胸を張って言ってやる。
「何も考えないでずっと走ってると、気持ちが澄んでくるんだよ。水になったみたいって言えばいいのかな。自分は何者でもないけど、何者にもなれるんだ、っていうすーっとした感じ」
チャイは困惑しているようだった。
「……有馬は、てっきり、もう旅には出ないのだと思ってました」
「なんでさ?」
「キバリーさんがいなくなったから……です」
キバリーがいなくなるのが、どうして旅をやめる理由になるのだ。
ふっと笑う。心の底から格好をつける。
「物ってなくならないよな」
「え?」
「ほら、金属とか、有機体も全部、酸化したり腐ったりしてぼろぼろになるけど、結局分解されただけで、その質量が宇宙から消え失せるわけじゃないよね」
バイクの部品を作り、鍋に化け、台風を起こした力。
キバリーのあの力は、汲み上げた石油のように、この町の深い部分から抽出して変化させたものではないか。
最近になって有馬はそう思うのだ。
「それが、どうかしたんですか?」
「人の気持ちも同じだよ」
すべては、もとは違う誰かのものだった。あるいはこの町が吸収して、記録していたものだった。それが人へ行き渡り、組成を変え、見かけ上では増えたり減ったりしていても、質量をもった物質のように巡り巡っていただけなのではないか。
ひばりの想いが、セリナに継がれたように。
発生し、枝分かれして、様々なものに影響を与えたように。
「前より行きたくなったんだよね。この世界にはまだまだ知らないことが山ほどあるんだ。今まで見逃してたことも、今なら見つけられる気がするんだ」
キバリーのおかげでそれに気付けた。
「だから止めても聞かないよ」
呆れ顔ではない、チャイの事実を従容と受け入れるような表情。
「どうしても、行くのですか」
「どうしても行きたいんだよ」
「付いていっては、だめですか……?」
どきりとした。
切なそうに目を細めている。
「役に立てると思います。訓練を受けました。知識もあります。地形把握や危険察知はお爺様に頼られるほどです。わたしも、わたしも……有馬と同じものが見たいです」
不安がにじむ。叩けば折れてしまいそうなほどの。
それは切実な願いだったのだろう。
「ありがとう……でもまた今度に」
「…………はい」
「時間はあるだろ? これから一生」
「あ────はい!」
それは素直な感情だった。
「チャイは、キバリーになんかもらったの?」
「い、いいえ、なにも」
「嘘だ。栞かなんかもらったろ?」
「貰ってません! 貰ってないですっ!」
「………」
町にも心があるとしたら。
気に入った思い出をアルバムみたいに集めて、本に綴じるのが趣味なのかもしれない。
帰ったら、根掘り葉掘り訊いてやろうと思う。
そのまま、何気なく手を振った。
「じゃ、いってきます」
「はい。いってらっしゃい」
──そうか、忘れ物はこれだったんだ。
すっと胸に透き通る、湧き水みたいな言葉だった。
誰かに、いってらっしゃい、と言われて、旅に出て行きたかったのだ。
旅の門出はいつだって、希望に溢れてなければならないから。
旅の帰りを、待っていてくれる人が欲しかったから。
迷わずベダルを漕ぎ出した。
振り返ってまた手を振ると、チャイもぶんぶん振り返してくる。
前を向く。
帰ってきてからのことに思いを馳せる。
セリナに旅の話をしよう。そして今までのことを謝ろう。
珠樹にはせいぜい自慢して、またヤーコの嫌味を買ってやろう。
チャイには全部話してやろう。この夏に起こった事、始めからすべてを。
今年の夏も一人旅だ。
一週まわって同じ場所に戻ってくる。
そういう感じを出したくて書きました。
外の世界に旅立ちたい願望を、現実の居場所から逃げ出したいから、なんて後ろ向きな理由で持って欲しくない。そんな話です。
と言われも、現実逃避ってしたくなります。
それで積極的になれるなら立派な原動力ですけど、多くの場合なんの計画もない妄想や絵空事になってしまい、周りにも認められません。
でもまあ、理解されたいですよね。
あんまり考えるとドツボだから、気軽にいこうぜ。人生そんなむつかしくないよ。
というテキトーなテーマなのです。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
次作は近いうちに。今度は本屋の話です。