第四話ノ3
有馬は小さな橋の下にいた。
周りには竹林。山から下りてきた細い川が、岩肌を流れ海に落っこちていく。
最初の日、珠樹に約束をすっぽかされたとき、有馬が踏みとどまったあの橋の下だ。
近くにキバリーを見つけた神社のある──
混乱した。基地にいたはずなのに、町の端っこと端っこくらいの距離を、一瞬でここまで移動していた。わけが分からない。
「な……なんで……」
間違いなくキバリーの仕業だ。
前に、部屋で秘密基地に迷い込んだときとまったく同じ浮遊感があった。あの栞が扉になっていたのだ。
でも、どうしてこんな場所に?
祭りの最中だったのに──
「もーサイッテー!!」
すぐそばに、ヤーコがしゃがみ込んでいた。
「うわあびっくりした! いるなら言えよ!」
「あいつらなんなの腹立つわぁ! 田舎くさい! 信じらんない! なんでテレビのひとつもないのよ! バカばっか! みんな死ね!」
小石を川に投げつけて、荒れまくっていた。
「みんな死ねばいいのよ! そしたらパパが……追い出されずに済んだのに。どうしてアタシたちばっかり責められるのよ! あいつらのために一生懸命働いてたのに! ……なんで? なんでパパはあんなにお人好しなの……?」
顔立ちが、幼い。
目にいっぱいの涙をためて、水面を悔しそうに睨んでいた。
「なんだよ、何言って……」
思い出す。確か、ヤーコは町に馴染めずいじめられていた時期があった。農作業も側溝掃除も、ときには学校までサボって、頼まれる事、決められた事あらゆるものに刃向かって、付いたあだ名がいやいやの『ヤーコ』。
風当たりの強さは彼女自ら招いたものだ。
砂利を擦る音がして、ヤーコは小動物みたいに反応した。柵を跨いで橋の下に誰かが降りてくる。逃げ場はなく一歩も動けない。
やがて鉢合わせした人物は、釣竿を持った珠樹だった。
ヤーコと同じで、今よりずっと身長が低くなっている。
なんだよこれ。
二人とも、こっちに気づいてないのか?
お互い、その場に釘付けになった。
最初に声をかけたのは珠樹だ。
「そこ……おれの場所なんだけど」
「アンタの土地じゃないしょ。早い者勝ちよ」
睨み合い。二人の視線が交わるあいだに有馬は立っている。それでも有馬なんかいないみたいに二人は小競り合いを続けた。
「ここで何してるんだよ?」
「何? 何もしてなきゃ悪い? 用が無いなら出てけってわけ? アタシがどこで何してようがアタシの勝手でしょ!」
「もしかして泣いてた?」
「! あっち行きなさいよ!」
投石。
その石が、有馬の身体をすり抜けていき──
びびった珠樹は、一目散に逃げ出していく。
「これだからヤなのよ! デリカシーなし! ホンットサイテー!」
しゃがみ込んでしばらくまたぐちぐち言って、怒ったり泣いたり塞ぎ込んだりを繰り返していた。
だから、すぐそばで垂れている釣り糸にも気付かなかった。
「──なんでいるのよ!」
橋の上から珠樹は竿を振っていた。
「どこで何してようと、おれの勝手だろ」
それからは意地の張り合いが続く。
気弱な珠樹が、こんな対抗心を表に出すのも珍しい事で、ヤーコの反撃に対し終始無言。釣り場に小石を投げ落されても、ばかあほまぬけと罵られても太公望を気取っている。しまいにはヤーコも黙って、川岸を睨めつけるだけになってしまった。
いつまでも、いつまでも。
風に木のざわめく音と、川の流れる音と、波音しか聞こえない、凪いだ時間。
「都から、来たのかよ」
「…………そうよ」
「どんなとこ?」
「便利なところよ。こーんな何も無いところと違って、買えばなんでも手に入って、頼めば食べ物だってすぐ出てくるわ。子供はね、みんなベンキョウして遊んでればいいの。テレビも見れるし、ゴラクがたくさんあって飽きないんだからっ」
珠樹は苦笑いをした。
「いいなぁ……うちなんか夏は忙しいし、農園手伝わなきゃなんないし、管理表とか憶えたりすんのタイヘンでさ、持ち回りキツイんだよな」
「ご愁傷さま。生まれの違いってヤツね。この世界には一生楽して暮らしてける人と、一生苦しまないと暮らしてけない二種類の人間がいるのよ。あんたは後者ってわけ」
「やなやつだなーお前」
くっくと笑い、ヤーコはむっとする。
「なに笑ってんのよ! アタシが好きでこんなとこいると思ってるの! おあいにくさますぐ出てくんだから! パパが会社立て直してバカな連中みんなクビにして新都に戻るんだから! 長居なんてゼッタイしないんだから!」
「都ってそんな楽しいとこなのか?」
その一言で、打たれたようにヤーコは黙った。
「じゃあ、いつか行ってみたな。どんなとこなんだろ。話には聞くんだけどさー、写真とか見たことないし。ビルじゃなくて積層構造のピラミッドみたいなんだよな? それが何個かあって、海に沈んでも大丈夫なように頑丈で密閉されてて、リニアトレインとか何本も走ってて、おお、想像しただけでわくわくしてきたぞ!」
今よりずっと幼い顔をした珠樹は、心底明るく、ヤーコの機嫌なんかおかまいなしに語る。
「都に帰るなら、いつか行くから、案内してよ」
「いやよ」
川辺に目を落し、膝小僧に顎をのっけて、流れの中で静止する小魚を追って、
「あんな狭いとこ、楽しいはずないじゃない」
珠樹は戸惑ったようだ。
「みんなごまかしてるの。あんなとこ、何年も続くはずない。バカだと思っておカネ使わせて、おだてて働かせておけば大丈夫って思ってる。嘘ばっかり。わかってるもの。ホントは追い出されたんじゃなくて、パパがみんなを見限ったのよ」
ヤーコはそれきり膝の上に伏せった。
波音も風も川の流れも、彼女の嗚咽を隠してはくれなかった。
「あの……おれ、そんなつもりじゃ」
「──戻ってもアタシの居場所なんかないのよ。お願いだから、ほっといて……」
珠樹はうろたえ、何もできず、やがて釣り道具を仕舞いすごすご引き返していった。
が、
何を思ったのか、ダッシュで戻ってきて、
「あのっ、ここおれの場所だけどっ、半分くらいやってもいいから」
ヤーコは、ガードレールを見上げる。
「また来るけど、時間重なったらごめん!」
走り去っていく。
時間が急速に流れた。めまぐるしく太陽が動き、色を変え昇って沈む。ヤーコは次の日も来たし、その次の日もここへ来た。珠樹も同じ時間に来ていた。
橋の下と上は、川辺の下と上になって、そのうち隣り合うようになった。
ヤーコは、珠樹に釣りを教わるようになって、釣れなくて怒って帰ったり、竿のせいにしたり、自分のパパの方がいいものを持ってるとか自慢したり、思う存分やなやつぶりを発揮して、珠樹をなじりまくっていた。こうまで言われてめげない珠樹は、もしかすると罵られるのが好きな種類の人かもしれない。
「どうして、毎日来るのよ」
「釣れないから……」
「じゃあ釣れたらもう来ないのね」
憎まれ口に、からかうような響きが混じり、ヤーコは少しだけ笑う。
わかりやすいもので珠樹は、顔を赤くしてうつむいたりしている。
何度日が巡ったか、もう数えるのも嫌になってきたころ。
憔悴した様子で、ヤーコはいつもの場所にいた。
珠樹が来ない。夕方になっても。
日が沈んでからも待ち続けていた。
辺りが真っ暗になり、ふくろうが鳴いていた。枝葉の風に揺れる音が、目に見えない何者かの足音に聞こえてくるような時間。そのくらいになって、やっと珠樹は現れた。
「……なんでいるんだよ」
「そっちこそ、なんで来てるのよ」
無言の時。
珠樹なんか、お構いなしに釣り糸を垂らしていたし、ヤーコも珍しくそれ以上の追及はしなかった。月明かりが差し込んできて、ヤーコがそれに気付いたのはたまたまだ。
「顔……腫れてる」
「……とーちゃんにやられた。ここんとこサボりまくってたから」
「どうして?」
「……ここに来なきゃいけないから」
肩を落とす。ヤーコは疲れきった声。
「アタシのために、やってあげてるって思ってるならもう来ないで。お願いだから」
このとき、ヤーコは珠樹を舐めていたのだろう。
次に起こった事に、有馬は思わず目を覆いたくなった。そして手が無いことに気付いて、目をつむることもできず悶死しそうだった。つまり、珠樹から、やりやがったのだ。
「自分で作れよ……居場所なんて。手伝うから」
「やぁよ……」
「一回できた。だからできるって」
そのあとヤーコを家まで送って、また濁流のように時間が流れた。
「アタシ、もうここに来ないから」
いつもの川辺。いつもの二人。違っているのはヤーコが、中学の制服を着ていること。
それまでどこぞのお嬢様学校みたいな仕立ての良い制服だっただけに、ギャップが大きい。珠樹は最初何を言われたのか理解できずにぼけっとしていた。
「え……? なん、なに?」
「だから、もう来ないって言ったの」
「なんで!」
「だって叱られるもの。珠樹もお父様に怒られるでしょ? 前だって、パパにものすごく心配されたんだから」
「でもそれはさ!」
「だ・か・ら。やることやってからにするの」
いたずらっぽく人差し指を立てた。
「アタシも学校サボったりするの止めるから、珠樹もちゃんと仕事するの。ここでダラダラ過ごすのはもう止め。それで、今度は約束して、ちゃんと会うの」
それは実に年上ぶった笑みで、珠樹はひとたまりもなくやられてしまったのだろう。
急に時間が巻き戻る。空間が渦に引き込まれていく。身体をロープで思い切り引き上げられたみたいな衝撃。そのあと、墨のような暗闇に有馬は呑み込まれていった。
その二人が目の前にいた。
栞を差し出し、怪訝そうにして、有馬を見ていた。
立駒基地の祭り会場。周囲の喧騒はけたたましく、汗と音と淀んだ空気がべったり体に張り付いてくる。
「ねえ、顔色悪いわよ?」
ヤーコが顔を覗き込んできた。
うわっと反射的に仰け反った。
「……なによ」
「なんでも、ないけど、それ……」
「うん、あの子帰っちゃうのかなって思って」
「帰る? どこに」
「アタシが知るわけないでしょ。何も聞いてないの?」
それより今起こったことだ。
あれは白昼夢というより、まるで過去の記憶そのものだ。珠樹と、ヤーコの。
「ちょっと……聞いていいかな」
「なによ急に」
「二人って、その、珠樹の方から惚れたの?」
「な……なによ急に!」
珠樹を見ると、特別取り乱すこともなくぽりぽり頬をかいていた。ヤーコがふんとそっぽを向いて強がる。
「そうよ。それが何? 関係ないでしょ」
「橋の下で逢ってたの?」
「んな……」
「あまつさえ珠樹の方からキスし」
ヤーコは有馬にではなく、珠樹に掴みかかった。
「喋ったのね! 喋ったんでしょ! サイッ──────テーッ!」
ばっちーん、と往復ビンタならぬ両側からのお多福ビンタ。逃げ場所の無い衝撃。
「アンタなんか有馬と仲良くしてればいいのよ!」
怒って、行ってしまった。
珠樹は何故か腕を組んだまま、男前の顔をしていた。
「……話したか?」
「してない。いーから追いかけろよ」
顔が戦士の戦化粧みたくなってしまった珠樹は、不可解そうにしながらもヤーコを追いかけていく。
やっぱり、今見たものは、実際にあった出来事なのだ。
だとしたら、どうしてキバリーはあんなものを見せたのだろう──
真面目に考えようとして、ずっと保留してきたことが泡のように浮かび上がって消えた。地球侵略でもSOSでもないキバリーの取りとめのない行動。今まで意識しなかった、ふざけて誤魔化されてきた些細な変化の数々。
キバリーは、何かしようとしている。
「探さなきゃ」
もともとそれが目的だ。
ごうごうと寄せては返す人の波を再び睨んだ。迷いない一歩。第一線級隕石迎撃機も真っ青なレーダー性能を持ったつもりで、有馬は人の中を泳いでいった。