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キバラナ  作者: 地藤零一
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第一話ノ1

 荷物は多くなくていい。

 テントと寝袋はいらない。

 水筒はいる。飲み水は確保できないこともあるから。

 地図。鍋。鉛筆。アルミのコップ。携帯コンロと釣竿。火種とナイフ。食糧はちょっとで済む。お金はあんまりかからないと思う。

 準備は万端なのだった。


 万端なのは準備だけだ。


 何も問題ないはずなのに、もう二時間待っているだから。

 ──なんだよちくしょう。信じていたのに。当てにしてたのに。あんなやつ放っておけばよかった。一人で行けばよかった。

 誰にも話さなければ良かった。

 今年の夏も、一人旅になりそうだった。



 山の木々が傘を差す道を、有馬は一人で、自転車を引いて歩いている。

 真夜中もいいところ。海岸沿いの道で、波音はずっと止むことがない。

 リュックひとつの軽装備だが、それはこの道三年の余裕というものである。

 あとは気持ちの問題だ。

 それが一番問題だった。

 乗ればいいのに跨ろうともしないのは、気持ちが後ろ向きだからだろう。もしかしたらひょっとすると──そんな淡い希望を抱いて、三十歩に一回ぐらい背後を振り向いているからだ。そしてそのたび落胆に暮れている。

 有馬は、約束をすっぽかされたのである。

 何が悪かったのだろうと思う。

 単なる家出と思われたのか。

 それは違う。

 これは「冒険の旅」なのだから。

 外には色んなものがある。違う町がたくさんあって、それぞれ特徴があって、今までにない新しい感動をくれる。家の都合で結婚を決められたりなんかしないし、勉強して努力すれば職を選べる自由があるし、住む人の考え方だって違う。

 有馬は、そういうものを見たり触れたりしたいのだ。

 だから、せっかく誘ったのに。

 今日、何度目かのため息。

 ──もういい。あんなやつ絶交だ。名前で呼ぶのもやめてやる。少年Tにしてやる。

 有馬はこの道三年のベテランで、ベテランであるからには旅の孤独さも知っていた。感動を共有できない相手がいないのは淋しいのだ。

 町境の橋に差しかかる。山から流れる小さな川が、海に勢いよく落っこちていくところ。町にいる子供にとってここまでが遊んで良い場所で、ここからが行ってはいけない場所だ。

 右手を見れば、鳥居の向こうに古い神社の参道が。

 今日はもうここに泊まろう。

 どうにも億劫だったのだ。

 鳥居をくぐり、石段を昇り、社の脇に陣取って、シートを敷いて横になった。

 見たところ人の手が入っているようだ。森の侵食を押しとどめ、そこだけドーム状の空間になっていた。真上には円に縁取られたせまっくるしい夜空。外界から切り離された箱庭のような場所。

 眠りたいのにどんどん目が冴えていった。

 旅の門出はいつだって高まる気持ちを抑えられなかった。一歩踏み出すごとに胸が躍って、息継ぎするヒマも惜しくて、前へ前へと勇む気持ちに追いつくのが精一杯だった。

 こんなはずじゃなかったのだ。

 最悪の出発になったのはもちろん疑いようもなくTのせいだが、よくよく思い返してみればTは最初から行く気がなかったのかもしれない。終業式の日に教室で旅の素晴らしさを語ってやったときも、Tは単なる付き合いで相槌を打っていたのかもしれず、自分も行ってみたいと言われて舞い上がっていたのは実のところ有馬一人で、本気で言ったわけでもないのに勝手に話を進められTは迷惑だったのかもしれない。

 だったらそう言えっつうの。

 よけい腹が立ってきた。

 雑草をぶちぶち抜いて苛立ちをうやむやにする。やむにやまれぬ事情があったとは事ここに至って考えない。Tにとって冒険の旅は優先順位の下にある代替可能な目標なのだ。きっと、夕飯が美味そうだったからとか、借りた本をまだ読んでいなかったとか宿題を早く済ませたかったとかケツが痒かったとかそんな理由を、約束に上書きしてしまったのだ。あいつは「冒険の旅」という未知を前にしてビビったのだ。

 忘れよう。

 そもそも、あんなやつはいなかったのだから。

 有馬はリュックをごそごそやって一冊の本を取り出した。

 こんなとき鎮静剤になりうるのは本なのだ。

 用意してきたのは文庫本一冊。ボロボロに擦り切れて黄ばみの浮いた冒険の本。自転車のライトを外してお気に入りのシーンだけぱらぱら拾い読みする。カバーも無いし、折り目だらけで、ページは今にもこぼれそうだけれど、そこに書いてある文字はいつも変わらず元気をくれるのだ。有馬が定期的に「冒険の旅」へ出るのだって、大抵は本の影響だった。

 読んでいくうちに、居ても立ってもいられなくなる。

 ──ああ、冒険がしたい!

 遺跡発掘がしたい。船旅がしたい。海底に沈んだ神殿を探索したい。雲間の空を飛んでみたいし、悪の教団によって強奪された財宝を取り戻したい。

 仲間に裏切られたくらい、なんだ。そんなものは新たなる冒険を彩るための布石であって、むしろ望むところであり、険しい道はまだこれからなのだ。こんなことを気にしていては冒険者失格なのだ。

 有馬はバッと起き上がって、せまっくるしい夜空に叫んだ。

「やるぞ───────────────────!!」

 嫌な気持ちは出口を見つけ、その叫びとともにかっ飛んでいった。

 うむ。冒険はこうじゃないといけない。

 寝床に丸まり明日のことを考える。まず第一課題として隣町に辿り着くこと。これは二日あればできるし、道路があるのだから土砂崩れや侵食がなければ危ない旅でもない。五年前の地図でも大丈夫だと思う。問題は隣町から先で、山間はほぼ崩れているし道が北にしか開けていないから北に行くしかないのだけれど、あそこには関所があるし、そこを潜り抜けそこなって過去に三回逮捕されたことがあった。四回目から成功したのは海路を選択できたからで──

 ばき、と木の割れる音がした。

 真夜中で、森の中だった。

 はっきり聞こえた。今も聞こえる。小枝を折るような音ではなく、木の皮を剥がすくらいの、現在進行形な破壊の音。ばり、ばり、ばり、ばり。

 何かいる。近くに。──熊?

 ライトが点けっぱなしだったことに気付いて、慌てて消して息を潜めた。今さらだ。

 鹿か何かだと思う。だって、熊なんて冬にしか見たことない。腹ごしらえをしそこねた冬眠前のヒグマが、誤って町に下りてきてときどき熊狩り部隊が出動することがあるくらいだから。

 つまり、そう、熊はいるのだ。

 うつ伏せに這いつくばったままじりじり鳥居まで下がっていった。大丈夫だ。まだばれてない。見廻りに来ただけなのだろう。つま先が段差を掴み、這ったままの姿勢で石段を下りていく。中ほどまで来ると、身を翻して一気に駆け下りた。食われておしまいなんてごめんだ。自分にはやりたいことがまだまだあるのだ。こんなところでくたばってたまるものか。──と思って、足を止めた。

 まだ、熊と決まったわけじゃないだろ。

 見てもいないのに逃げるのか。

 そもそも自分が望んでいたのは「こういうこと」じゃないのか。死んだって自己責任の危険な、しかし心躍る出来事。

 今日あったことを人に話すときどうするよ? 寝ようとしたら木の皮を剥がす音を聞いたから一目散に逃げてきた。あれは熊だ間違いない。何の脚色もしなければ、たったそれだけのことだ。正体も定かでないものにビビって逃げ出しただけだ。

 そんなのは、土壇場でケツをまくったTと何が違う。

 せめて、正体を確かめよう。

 鳥居の先の社を見上げた。

 荷物も置いてきてしまったのだ。

 結局それが引き金になって、有馬はじりじり引き返していった。せめて自転車と携帯コンロと財布と本とシートとライト。ようは全部を持っていかなければ、これからの旅に支障が出る。石段を這い、息を殺し、泥棒のような慎重さで境内を覗き見てみる。

 木の割れる音はもう聞こえない。

 代わりに、しんと透き通る静寂があった。

 社の脇で、何かが動いていた。

 有馬が陣取っていた場所。あと少し離れるのが遅かったらと思ってぞっとする。なんだろう。熊じゃなかった。もっと小さい動物だけれど、暗くてよく見えなかった。狸じゃないし兎じゃないし犬でも猫でも鼬でもない。

 そのとき有馬は異音を聞いた。

 ぎち、ぎい、べきべき、ぎいい──

 金属のひしゃげるような。

 暗闇に目が慣れてくる。それの姿が見えてくる。どんな生き物かと思って目を凝らしていたけれど、それは有馬の知っているどんな生き物でもなかった。

 さらに言えば、それは生き物ですらなかった。


 白い、三頭身の「何か」だった。

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