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婚約破棄されて追放された悪役令嬢のわたくしは、隣国の皇帝陛下に溺愛されておりますわ。ただ——わたくしを嗤った方々は今ごろ、どこで、蝉の抜け殻になっているのかしら

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/12


「よくも、これまで私を、欺いてくれたな」


真夏の断罪の夜会で、殿下は、そうおっしゃった。


大広間の中央で、わたくし——ヴィオレッタ・アッシェンは、ただ静かに、頭を垂れておりました。


殿下の腕には、涙ぐんでみせる、政敵の令嬢。


わたくしが彼女を虐げたという、ありもしない罪状が、朗々と読み上げられていく。


その令嬢は、もとはといえば、わたくしの侍女あがり。


わたくしが目をかけ、社交界へ引き上げてやった、恩ある相手でしたの。


それが、いつのまにか殿下をたらしこみ、わたくしの座を、奪おうとした。


まあ、それだけなら、可愛いものですけれど。


彼女、わたくしの幼い弟の醜聞まで、でっちあげて、ばら撒きましたのよ。


——ええ。


その時点で、彼女の、この夏の運命は、静かに、決まっておりましたの。


「お前との婚約は、破棄する。……即刻、この国を、去るがいい」


「かしこまりましたわ」


わたくしは、淑やかに、膝を折りました。


「では——ごきげんよう、殿下」


抗弁は、いたしませんでしたの。


だって。


その必要が、ありませんもの。


慌てて弁明などして、無粋に騒ぎ立てるより。


淑やかに微笑んで、お暇するほうが。


ずっと、美しゅうございましょう?


大広間を出るとき、開いた窓から、みいん、と、一匹の蝉の声が、聞こえました。


まだ、夏は、始まったばかり。


これから、いくらでも、鳴いてもらわなくては。


——そんなことを、ぼんやりと、考えておりましたわ。


追放の、その夜。


行く当てもなく街道を歩くわたくしの足元に、一匹の蝉が、力尽きて、転がっておりました。


わたくしは、それを、そっと、拾い上げましたの。


「あなたは、ずいぶんと、気の早い蝉ですこと」


まだ、ひと夏も、鳴かないうちに。


「ご安心なさいな。……お友だちは、これから、いくらでも、増えますから」


わたくしは、そう囁いて、その小さなむくろを、道端の草の陰へ、寝かせてやりました。


* * *


追放された先の、隣国。


わたくしは、思いがけず、その国の皇帝陛下に、見初められましたの。


ルヴェリオ・ヴァルガ陛下。


冷徹無比、あらゆる女に飽ききった皇帝、と名高いお方。


「そなたのような女は、初めてだ」


初めて謁見の間で見えたとき、陛下は、金色の瞳で、わたくしをじっと見下ろして、そう仰いました。


「追放されたというのに、ずいぶんと、涼しい顔をしている」


「あら。喚いて、みっともなく足掻けば、よろしかったかしら」


「いいや」


陛下は、ふ、と、口の端を上げました。


「その、澄ました顔が。……なかなかに、そそる」


そうして、わたくしは、帝国の後宮で、それはもう、大切にされることになりましたの。


陛下は、冷徹という噂が嘘のように、わたくしを甘やかしてくださいます。


「暑いだろう。……ほら、こちらへ」


打ち水をした涼やかな庭で、陛下は、わたくしを膝に抱いて、扇いでくださる。


「陛下。皇帝陛下が、こんなことを、なさるものではありませんわ」


「余がしたいのだ。文句があるか」


そう言って、わたくしの髪に口づける陛下は、存外に、可愛らしいお方でしたわ。


陛下は、わたくしのことを、よく、ご覧になっておいででした。


わたくしが、ほんの少し、遠くを見つめただけで。


「何を、考えている」と、すぐに、お尋ねになる。


「あら。祖国に、少しばかり、残してまいりました"お仕事"のことを」


「仕事?」


「ええ。……夏のうちに、片付けてしまいたいものが、いくつか」


「ほう」


陛下は、面白そうに、目を細められました。


「ずいぶんと、勤勉な花だ。……余の花は」


——そのときのわたくしは、まだ、この方が、どこまでお見通しなのか、存じませんでしたの。


ある日には、陛下は、わたくしに、簪を贈ってくださいました。


銀の細工に、小さな蝉を象った、見事なもの。


「そなたに、似合うと思ってな」


「あら。……蝉、でございますか」


「ああ。そなたは、蝉が、好きであろう」


わたくしは、金色の瞳を、じっと、見上げました。


やはり、この方は。


何もかも承知のうえで、わたくしを、囲っておいでなのですわ。


「ええ。……とても、好きですわ、陛下」


わたくしは、その簪を髪に挿して、艶やかに、微笑みました。


冷徹と恐れられるこのお方は、二人きりのときだけ、少しだけ、子どものような顔を、なさいますの。


「ヴィオレッタ。……どこにも、行くなよ」


「あら。行き場のない女に、そんなことを仰るなんて」


「そういう意味では、ない」


陛下は、ばつが悪そうに、目を逸らされました。


「……ただ、そばに、いろということだ」


まあ。


この可愛らしいお方のためになら。


わたくし、あと百匹でも、蝉を、増やして差し上げてよろしくてよ。


* * *


さて。


帝国での夏の日々は、穏やかで、甘やかで。


——ただ、祖国からの報せだけが、少し、奇妙でしたの。


「ヴィオレッタ様。祖国から、お手紙が」


ある朝、侍女が、青ざめた顔で、そう告げました。


「あの、殿下の隣にいらした……ヴィオレッタ様を、断罪の夜会で嘲笑われた令嬢が。ある晩、忽然と、姿を消されたそうで」


「あら」


わたくしは、紅茶を、ひとくち。


「まあ、それは。……どちらへ、行かれたのかしら」


「それが……その方のお部屋には、ただ、蝉の抜け殻が、ひとつだけ、残されていたと」


「うつせみ」


わたくしは、淑やかに、微笑みました。


「ふふ。夏らしくて、風流ですこと」


侍女は、なぜだか、ぶるりと、身を震わせておりましたわ。


——けれど、それきりでは、ございませんの。


わたくしに罪を着せる偽証をした侍女も。


夜会で、わたくしを指さして嗤った令息たちも。


ひとり、また、ひとり。


夏の日差しに溶けるように、この世から、姿を消していかれました。


そして、そのどなたも。


いなくなった場所には、決まって。


ぽつん、と。


うつろな、蝉の、抜け殻を、ひとつ。


* * *


「ヴィオレッタ様。……こわく、ないのですか」


ある夕暮れ、簾ごしの蝉時雨を聞きながら、侍女が、おずおずと尋ねました。


「祖国で、あなた様を貶めた方々ばかりが、次々と……」


「こわい?」


わたくしは、扇を広げて、口元を隠しました。


「いいえ。ちっとも」


みいん、みいん、と。


庭の蝉が、日ごとに、賑やかになっていく。


「むしろ——うれしい、くらいですわ」


「うれしい……?」


「ええ。だって」


わたくしは、扇の陰で、そっと、微笑みました。


「わたくしを泣かせた方々が、みなさま、こんなにも夏を、賑やかにしてくださっているのですもの」


侍女は、それきり、何も、申しませんでしたわ。


——いなくなった場所に、抜け殻だけを残して。


その方々は、みな、涼やかな一匹の蝉となって。


海を越え、この帝国の、わたくしのいる庭へと、集まってまいりますの。


わたくしを嗤った、あの方々の声のぶんまで。


それはもう、賑やかに。


一度、こんなことも、ございましたの。


祖国から、帝国へ、使者がまいりまして。


その方が、酒の席で、わたくしを、こう嗤ったのです。


「追放された分際で、皇帝陛下に取り入るとは。……たいした、あばずれよ」


わたくしは、にっこりと、微笑んで差し上げました。


「あら。ようこそ、帝国へ。……どうぞ、ごゆっくり、この国の夏を、お楽しみになって」


その方が、翌朝、宿の寝台に、抜け殻をひとつ残して消えていたことは。


——もう、申し上げるまでも、ございませんわね。


そうこうするうちに、帝国の宮廷でも、囁かれ始めておりました。


「あの、隣国から来た花に、近づいた者は……消えるらしい」


「触れれば、蝉になる、と」


けれど、そんな噂を、むしろ面白がるように。


陛下は、ますます、わたくしを、そばから、お離しになりません。


「よい。……皆、そなたを、恐れればよいのだ」


陛下は、わたくしの肩を抱いて、愉しそうに、囁かれます。


「余の花は、美しくて、少しばかり、毒がある。……それでこそ、であろう」


* * *


その夜。


寝所で、陛下が、わたくしの手を取って、ふいに、こう仰いました。


「ヴィオレッタ」


「はい、陛下」


「そなたの故郷では……ずいぶんと、蝉が、よく鳴くそうだな」


わたくしは、金色の瞳を、まっすぐに見返しました。


この方は、気づいていらっしゃる。


とうに、何もかも。


——ならば、隠す必要も、ございませんわね。


「ええ。今年は、特に」


わたくしは、淑やかに、微笑みました。


「わたくしを泣かせた方々のぶんまで。……それはもう、賑やかに」


しばらく、陛下は、わたくしを、じっと、ご覧になっておりました。


恐れるでも、咎めるでも、なく。


やがて。


ふ、と、この上なく愉しそうに、笑われたのです。


まるで、長年探し求めた、宝物を、ようやく見つけたような、お顔で。


「……なるほど。道理で」


陛下は、わたくしの指先に、口づけを落としました。


「そなたのそばは、いつも、蝉時雨が、やかましいわけだ」


「あら。お耳障りでしたかしら」


「いいや」


金色の瞳が、蕩けるように、細められる。


「——心地よいよ。そなたが、笑っている証だからな」


わたくしは、少しだけ、目を見張りました。


「陛下は……こわく、ないのですか? こんな、わたくしが」


「こわい?」


陛下は、おかしそうに、喉を鳴らしました。


「退屈な女なら、掃いて捨てるほどいた。だが、余を、これほど愉しませる女は。……そなただけだ」


「では、陛下」


わたくしは、扇を閉じて、艶やかに、微笑みました。


「わたくしが、この先も。……夏のたびに、蝉を、増やしてしまっても、よろしいの?」


「構わぬ」


陛下は、即座に、そう仰いました。


「ただし——ひとつ、条件がある」


「あら。なんでございましょう」


「その"手入れ"の顛末を。……余にも、隣で、聞かせろ。退屈しのぎに、な」


なんという、お方でしょう。


わたくしは、思わず、扇の陰で、くすりと、笑ってしまいましたわ。


「ええ、喜んで。……わたくしたち、きっと、いい夫婦に、なれますわね」


その言葉が、あんまり甘くて。


わたくしは、生まれて初めて、淑女の仮面の下で、ほんの少し、頬を染めてしまいましたの。


* * *


夏が、深まってまいりましたわ。


祖国からの、最後の報せが、届きましたの。


わたくしを断罪した、あの殿下その人が。


失政の数々を暴かれ、廃位のうえ——ある夜、忽然と、姿を消された、と。


残されていたのは、玉座の上に、ひとつ。


大ぶりの、蝉の、抜け殻。


「……あら」


わたくしは、その報せを読んで、扇を、そっと閉じました。


「これで、みなさま、お揃いになったこと」


もう、わたくしを嗤う声は、この世に、ひとつも、残っておりませんわ。


みなさま、涼やかな夏の蝉に、なられて。


わたくしの庭で、朝から晩まで、それはもう、賑やかに。


祖国は、わたくしを追放したことを、さぞ、悔いておりましょう。


けれど、もう、遅うございますわ。


わたくしを嗤った方々は、ひとり残らず、夏の音に。


そして、追放されたはずのわたくしは——今、この大帝国で、皇后の座に、就こうとしているのですもの。


「ヴィオレッタ」


いつのまにか、背後に、陛下が。


わたくしを、後ろから、そっと抱きしめて、囁かれました。


「ようやく、片付いたか。そなたの、夏の"手入れ"は」


「ええ、陛下。おかげさまで」


わたくしは、陛下の腕の中で、うっとりと、目を閉じました。


「これからは。……ただ、あなたの隣で、蝉の声を聞いておりますわ」


「ああ。……余も、そなたの蝉時雨を、生涯、隣で聞こう」


夏の夜。


窓の外では、りいん、りいん、みいん、みいん、と。


数えきれないほどの蝉が、鳴いております。


そのひとつひとつが、かつて、わたくしを嗤った、どなたかの成れの果てだということを。


この世で、陛下と、わたくしだけが、知っている。


そして、それでも——いいえ、だからこそ。


陛下は、わたくしを、誰よりも深く、愛してくださいますの。


夜ごと、陛下は、わたくしを腕に抱いて、こう囁かれます。


「今日は、何匹、増えた」


「あら。今日は、お行儀よく、一匹だけ」


「そうか。……よい夏だ」


まるで、他愛のない睦言のように。


わたくしたちは、そんな会話を、交わすのですわ。


「ふふ」


わたくしは、扇で口元を隠して、そっと、微笑みました。


「——今年の夏も。まだ、蝉が、足りませんこと」


だって、この広い世界には。


わたくしの知らないところで、まだ、わたくしの大切なひとを、嗤う者が。


いるかも、しれませんもの。


そのときは、また。


——一匹、増やして、差し上げますわ。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。

今作は、少しばかり趣向を変えて——狂っているのは、ヒーローではなく、ヒロインのほう。

淑やかに微笑みながら、自分を嗤った者を一人ずつ夏の音に変えていくヴィオレッタと、それに気づいてなお(いいえ、だからこそ)彼女を溺愛する皇帝の、歪んだ蜜月をお楽しみいただけたら嬉しいです。

「ざまぁしてスッとして、ゾクッとして、それでもキュンとする」——★やご感想が次を書く力になります。


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