婚約破棄されて追放された悪役令嬢のわたくしは、隣国の皇帝陛下に溺愛されておりますわ。ただ——わたくしを嗤った方々は今ごろ、どこで、蝉の抜け殻になっているのかしら
「よくも、これまで私を、欺いてくれたな」
真夏の断罪の夜会で、殿下は、そうおっしゃった。
大広間の中央で、わたくし——ヴィオレッタ・アッシェンは、ただ静かに、頭を垂れておりました。
殿下の腕には、涙ぐんでみせる、政敵の令嬢。
わたくしが彼女を虐げたという、ありもしない罪状が、朗々と読み上げられていく。
その令嬢は、もとはといえば、わたくしの侍女あがり。
わたくしが目をかけ、社交界へ引き上げてやった、恩ある相手でしたの。
それが、いつのまにか殿下をたらしこみ、わたくしの座を、奪おうとした。
まあ、それだけなら、可愛いものですけれど。
彼女、わたくしの幼い弟の醜聞まで、でっちあげて、ばら撒きましたのよ。
——ええ。
その時点で、彼女の、この夏の運命は、静かに、決まっておりましたの。
「お前との婚約は、破棄する。……即刻、この国を、去るがいい」
「かしこまりましたわ」
わたくしは、淑やかに、膝を折りました。
「では——ごきげんよう、殿下」
抗弁は、いたしませんでしたの。
だって。
その必要が、ありませんもの。
慌てて弁明などして、無粋に騒ぎ立てるより。
淑やかに微笑んで、お暇するほうが。
ずっと、美しゅうございましょう?
大広間を出るとき、開いた窓から、みいん、と、一匹の蝉の声が、聞こえました。
まだ、夏は、始まったばかり。
これから、いくらでも、鳴いてもらわなくては。
——そんなことを、ぼんやりと、考えておりましたわ。
追放の、その夜。
行く当てもなく街道を歩くわたくしの足元に、一匹の蝉が、力尽きて、転がっておりました。
わたくしは、それを、そっと、拾い上げましたの。
「あなたは、ずいぶんと、気の早い蝉ですこと」
まだ、ひと夏も、鳴かないうちに。
「ご安心なさいな。……お友だちは、これから、いくらでも、増えますから」
わたくしは、そう囁いて、その小さなむくろを、道端の草の陰へ、寝かせてやりました。
* * *
追放された先の、隣国。
わたくしは、思いがけず、その国の皇帝陛下に、見初められましたの。
ルヴェリオ・ヴァルガ陛下。
冷徹無比、あらゆる女に飽ききった皇帝、と名高いお方。
「そなたのような女は、初めてだ」
初めて謁見の間で見えたとき、陛下は、金色の瞳で、わたくしをじっと見下ろして、そう仰いました。
「追放されたというのに、ずいぶんと、涼しい顔をしている」
「あら。喚いて、みっともなく足掻けば、よろしかったかしら」
「いいや」
陛下は、ふ、と、口の端を上げました。
「その、澄ました顔が。……なかなかに、そそる」
そうして、わたくしは、帝国の後宮で、それはもう、大切にされることになりましたの。
陛下は、冷徹という噂が嘘のように、わたくしを甘やかしてくださいます。
「暑いだろう。……ほら、こちらへ」
打ち水をした涼やかな庭で、陛下は、わたくしを膝に抱いて、扇いでくださる。
「陛下。皇帝陛下が、こんなことを、なさるものではありませんわ」
「余がしたいのだ。文句があるか」
そう言って、わたくしの髪に口づける陛下は、存外に、可愛らしいお方でしたわ。
陛下は、わたくしのことを、よく、ご覧になっておいででした。
わたくしが、ほんの少し、遠くを見つめただけで。
「何を、考えている」と、すぐに、お尋ねになる。
「あら。祖国に、少しばかり、残してまいりました"お仕事"のことを」
「仕事?」
「ええ。……夏のうちに、片付けてしまいたいものが、いくつか」
「ほう」
陛下は、面白そうに、目を細められました。
「ずいぶんと、勤勉な花だ。……余の花は」
——そのときのわたくしは、まだ、この方が、どこまでお見通しなのか、存じませんでしたの。
ある日には、陛下は、わたくしに、簪を贈ってくださいました。
銀の細工に、小さな蝉を象った、見事なもの。
「そなたに、似合うと思ってな」
「あら。……蝉、でございますか」
「ああ。そなたは、蝉が、好きであろう」
わたくしは、金色の瞳を、じっと、見上げました。
やはり、この方は。
何もかも承知のうえで、わたくしを、囲っておいでなのですわ。
「ええ。……とても、好きですわ、陛下」
わたくしは、その簪を髪に挿して、艶やかに、微笑みました。
冷徹と恐れられるこのお方は、二人きりのときだけ、少しだけ、子どものような顔を、なさいますの。
「ヴィオレッタ。……どこにも、行くなよ」
「あら。行き場のない女に、そんなことを仰るなんて」
「そういう意味では、ない」
陛下は、ばつが悪そうに、目を逸らされました。
「……ただ、そばに、いろということだ」
まあ。
この可愛らしいお方のためになら。
わたくし、あと百匹でも、蝉を、増やして差し上げてよろしくてよ。
* * *
さて。
帝国での夏の日々は、穏やかで、甘やかで。
——ただ、祖国からの報せだけが、少し、奇妙でしたの。
「ヴィオレッタ様。祖国から、お手紙が」
ある朝、侍女が、青ざめた顔で、そう告げました。
「あの、殿下の隣にいらした……ヴィオレッタ様を、断罪の夜会で嘲笑われた令嬢が。ある晩、忽然と、姿を消されたそうで」
「あら」
わたくしは、紅茶を、ひとくち。
「まあ、それは。……どちらへ、行かれたのかしら」
「それが……その方のお部屋には、ただ、蝉の抜け殻が、ひとつだけ、残されていたと」
「うつせみ」
わたくしは、淑やかに、微笑みました。
「ふふ。夏らしくて、風流ですこと」
侍女は、なぜだか、ぶるりと、身を震わせておりましたわ。
——けれど、それきりでは、ございませんの。
わたくしに罪を着せる偽証をした侍女も。
夜会で、わたくしを指さして嗤った令息たちも。
ひとり、また、ひとり。
夏の日差しに溶けるように、この世から、姿を消していかれました。
そして、そのどなたも。
いなくなった場所には、決まって。
ぽつん、と。
うつろな、蝉の、抜け殻を、ひとつ。
* * *
「ヴィオレッタ様。……こわく、ないのですか」
ある夕暮れ、簾ごしの蝉時雨を聞きながら、侍女が、おずおずと尋ねました。
「祖国で、あなた様を貶めた方々ばかりが、次々と……」
「こわい?」
わたくしは、扇を広げて、口元を隠しました。
「いいえ。ちっとも」
みいん、みいん、と。
庭の蝉が、日ごとに、賑やかになっていく。
「むしろ——うれしい、くらいですわ」
「うれしい……?」
「ええ。だって」
わたくしは、扇の陰で、そっと、微笑みました。
「わたくしを泣かせた方々が、みなさま、こんなにも夏を、賑やかにしてくださっているのですもの」
侍女は、それきり、何も、申しませんでしたわ。
——いなくなった場所に、抜け殻だけを残して。
その方々は、みな、涼やかな一匹の蝉となって。
海を越え、この帝国の、わたくしのいる庭へと、集まってまいりますの。
わたくしを嗤った、あの方々の声のぶんまで。
それはもう、賑やかに。
一度、こんなことも、ございましたの。
祖国から、帝国へ、使者がまいりまして。
その方が、酒の席で、わたくしを、こう嗤ったのです。
「追放された分際で、皇帝陛下に取り入るとは。……たいした、あばずれよ」
わたくしは、にっこりと、微笑んで差し上げました。
「あら。ようこそ、帝国へ。……どうぞ、ごゆっくり、この国の夏を、お楽しみになって」
その方が、翌朝、宿の寝台に、抜け殻をひとつ残して消えていたことは。
——もう、申し上げるまでも、ございませんわね。
そうこうするうちに、帝国の宮廷でも、囁かれ始めておりました。
「あの、隣国から来た花に、近づいた者は……消えるらしい」
「触れれば、蝉になる、と」
けれど、そんな噂を、むしろ面白がるように。
陛下は、ますます、わたくしを、そばから、お離しになりません。
「よい。……皆、そなたを、恐れればよいのだ」
陛下は、わたくしの肩を抱いて、愉しそうに、囁かれます。
「余の花は、美しくて、少しばかり、毒がある。……それでこそ、であろう」
* * *
その夜。
寝所で、陛下が、わたくしの手を取って、ふいに、こう仰いました。
「ヴィオレッタ」
「はい、陛下」
「そなたの故郷では……ずいぶんと、蝉が、よく鳴くそうだな」
わたくしは、金色の瞳を、まっすぐに見返しました。
この方は、気づいていらっしゃる。
とうに、何もかも。
——ならば、隠す必要も、ございませんわね。
「ええ。今年は、特に」
わたくしは、淑やかに、微笑みました。
「わたくしを泣かせた方々のぶんまで。……それはもう、賑やかに」
しばらく、陛下は、わたくしを、じっと、ご覧になっておりました。
恐れるでも、咎めるでも、なく。
やがて。
ふ、と、この上なく愉しそうに、笑われたのです。
まるで、長年探し求めた、宝物を、ようやく見つけたような、お顔で。
「……なるほど。道理で」
陛下は、わたくしの指先に、口づけを落としました。
「そなたのそばは、いつも、蝉時雨が、やかましいわけだ」
「あら。お耳障りでしたかしら」
「いいや」
金色の瞳が、蕩けるように、細められる。
「——心地よいよ。そなたが、笑っている証だからな」
わたくしは、少しだけ、目を見張りました。
「陛下は……こわく、ないのですか? こんな、わたくしが」
「こわい?」
陛下は、おかしそうに、喉を鳴らしました。
「退屈な女なら、掃いて捨てるほどいた。だが、余を、これほど愉しませる女は。……そなただけだ」
「では、陛下」
わたくしは、扇を閉じて、艶やかに、微笑みました。
「わたくしが、この先も。……夏のたびに、蝉を、増やしてしまっても、よろしいの?」
「構わぬ」
陛下は、即座に、そう仰いました。
「ただし——ひとつ、条件がある」
「あら。なんでございましょう」
「その"手入れ"の顛末を。……余にも、隣で、聞かせろ。退屈しのぎに、な」
なんという、お方でしょう。
わたくしは、思わず、扇の陰で、くすりと、笑ってしまいましたわ。
「ええ、喜んで。……わたくしたち、きっと、いい夫婦に、なれますわね」
その言葉が、あんまり甘くて。
わたくしは、生まれて初めて、淑女の仮面の下で、ほんの少し、頬を染めてしまいましたの。
* * *
夏が、深まってまいりましたわ。
祖国からの、最後の報せが、届きましたの。
わたくしを断罪した、あの殿下その人が。
失政の数々を暴かれ、廃位のうえ——ある夜、忽然と、姿を消された、と。
残されていたのは、玉座の上に、ひとつ。
大ぶりの、蝉の、抜け殻。
「……あら」
わたくしは、その報せを読んで、扇を、そっと閉じました。
「これで、みなさま、お揃いになったこと」
もう、わたくしを嗤う声は、この世に、ひとつも、残っておりませんわ。
みなさま、涼やかな夏の蝉に、なられて。
わたくしの庭で、朝から晩まで、それはもう、賑やかに。
祖国は、わたくしを追放したことを、さぞ、悔いておりましょう。
けれど、もう、遅うございますわ。
わたくしを嗤った方々は、ひとり残らず、夏の音に。
そして、追放されたはずのわたくしは——今、この大帝国で、皇后の座に、就こうとしているのですもの。
「ヴィオレッタ」
いつのまにか、背後に、陛下が。
わたくしを、後ろから、そっと抱きしめて、囁かれました。
「ようやく、片付いたか。そなたの、夏の"手入れ"は」
「ええ、陛下。おかげさまで」
わたくしは、陛下の腕の中で、うっとりと、目を閉じました。
「これからは。……ただ、あなたの隣で、蝉の声を聞いておりますわ」
「ああ。……余も、そなたの蝉時雨を、生涯、隣で聞こう」
夏の夜。
窓の外では、りいん、りいん、みいん、みいん、と。
数えきれないほどの蝉が、鳴いております。
そのひとつひとつが、かつて、わたくしを嗤った、どなたかの成れの果てだということを。
この世で、陛下と、わたくしだけが、知っている。
そして、それでも——いいえ、だからこそ。
陛下は、わたくしを、誰よりも深く、愛してくださいますの。
夜ごと、陛下は、わたくしを腕に抱いて、こう囁かれます。
「今日は、何匹、増えた」
「あら。今日は、お行儀よく、一匹だけ」
「そうか。……よい夏だ」
まるで、他愛のない睦言のように。
わたくしたちは、そんな会話を、交わすのですわ。
「ふふ」
わたくしは、扇で口元を隠して、そっと、微笑みました。
「——今年の夏も。まだ、蝉が、足りませんこと」
だって、この広い世界には。
わたくしの知らないところで、まだ、わたくしの大切なひとを、嗤う者が。
いるかも、しれませんもの。
そのときは、また。
——一匹、増やして、差し上げますわ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。
今作は、少しばかり趣向を変えて——狂っているのは、ヒーローではなく、ヒロインのほう。
淑やかに微笑みながら、自分を嗤った者を一人ずつ夏の音に変えていくヴィオレッタと、それに気づいてなお(いいえ、だからこそ)彼女を溺愛する皇帝の、歪んだ蜜月をお楽しみいただけたら嬉しいです。
「ざまぁしてスッとして、ゾクッとして、それでもキュンとする」——★やご感想が次を書く力になります。




