ペトリコール
ポツ、ポツ……。
窓ガラスを叩く優しい音で、私は目を覚ました。薄暗い部屋に差し込むのは、太陽の光ではなく、厚い雲に覆われた空の、白くぼやけた光。空気はひんやりと湿り気を帯びていて、ベッドから出るのが少し億劫になる、そんな雨の日の朝。
「…また、雨かぁ」
ため息ひとつ。でも、心のどこかで、この雨を待っていた自分もいる。だって、この匂いがするから。
玄関のドアを開けると、むわっとした湿気と一緒に、あの匂いが私を包み込んだ。アスファルトに雨粒が吸い込まれていくときにだけ立ち上る、少し土っぽくて、どこか懐かしい匂い。
ペトリコール。
いつか理科の先生が教えてくれた、雨の匂いの名前。でも、私にとってこの匂いは、もっと別の、たった一つの名前で呼ばれるもの。
それは、君の匂い。
傘を広げ、一歩踏み出す。パタ、パタ、と傘が雨音を奏でる。水たまりを避けながら歩く通学路。いつもと同じ道なのに、雨が降るだけで、世界は少しだけ違って見える。濡れた紫陽花はいつもより色鮮やかで、街路樹の緑は深く、しっとりと艶めいている。
この匂いを嗅ぐと、必ず思い出す。去年の、梅雨の日のこと。
放課後の図書室。窓の外は、今日みたいなどしゃ降りの雨だった。返却カウンターで、偶然、君と隣り合わせになった。クラスも違うし、話したこともほとんどない。心臓が、キュッと音を立てたのを覚えてる。
「すごい雨だね」
不意に、君が話しかけてくれた。私はびっくりして、気の利いた返事もできず、「う、うん」と頷くのが精一杯だった。そんな私にお構いなしに、君は窓の外を見ながら、ふわりと笑って言ったんだ。
「でも、俺、この匂い、好きなんだ。雨が降ってきた時の、地面の匂い」
その時の君の横顔を、私はきっと一生忘れない。少しだけ濡れた前髪。静かに本を見つめる、長いまつ毛。そして、雨の匂いが好きだと言った、優しい声。
それ以来、私にとって雨の匂いは、君を思い出すための、特別な合図になった。
通学路の角を曲がると、駅前のバス停が見えてくる。いつも君が立っている場所。雨の日は、小さな屋根の下で、少しだけ窮屈そうに電車を待っている君がいる。
今日も、会えるかな。
期待と不安で、胸がドキドキする。もし会えたら、今日こそは、「おはよう」って言えるだろうか。ううん、きっとまた、遠くから見つめるだけで終わってしまうんだろうな。
バス停に、見慣れた後ろ姿を見つけた。紺色の傘。少しだけ癖のある黒髪。間違いない、君だ。
心臓が、また高鳴る。どうしよう。声をかける勇気なんて、やっぱりない。でも、このまま通り過ぎるなんて、絶対に嫌だ。
私がバス停の前で立ち尽くしていると、不意に、君がくるりと振り返った。
「あ…」
目が、合ってしまった。
時間が、止まったみたいだった。雨の音も、街の喧騒も、全部が遠くに聞こえる。私の目に映るのは、驚いたように少しだけ目を見開いた、君の顔だけ。
沈黙を破ったのは、君の方だった。
「…おはよ」
少し照れたように、はにかみながら。
「…お、おはよう」
自分でも驚くくらい、声が震えた。でも、ちゃんと言えた。ずっと言えなかった、たった一言。
君は嬉しそうに、またふわりと笑う。そして、自分の隣を、傘でトントンと示した。
「ここ、空いてるよ。電車、もうすぐ来ると思う」
私は夢見心地のまま、君の隣に並んだ。二人の傘が触れ合って、カサ、と小さな音を立てる。君との距離は、ほんの数十センチ。近い。近すぎて、どうしよう。
ふいに、またあの匂いがした。雨に濡れたアスファルトの匂い。君を思い出させる、切なくて、でも今は、甘酸っぱい匂い。
「やっぱり、いい匂いだな」
君が、ぽつりと言った。
「うん、私も、好き」
今度は、ちゃんと答えられた。
君は少し驚いたように私を見ると、嬉しそうに、前よりももっと深く、笑ってくれた。
雨はまだ、しとしとと降り続いている。でも、私の心は、すっかり晴れやかだった。この鬱陶しいだけの雨の日が、こんなにも特別な日になるなんて。
雨の匂いが、また一つ、宝物みたいな思い出を運んできてくれた。明日も、雨が降ればいいのに。
そんなことを、少しだけ思った。




