第70話 シュオとエシュ
セーレン家の広大な屋敷の裏庭。
かつては、幼いシュオが剣の稽古に励み、時にはエシュに手厳しく、しかし愛情のこもった指導を受けていた、思い出深いその場所に、今、シュオとエシュの二人が、静かな緊張感を漂わせながら対峙していた。
お互いの手に握られているのは、訓練用の、安全な木剣ではない。
それは、幾多の戦場を潜り抜け、主と共に死線を越えてきた、紛れもない真剣だった。
エシュが手にしているのは、彼女が長年愛用し、その体の一部と化している、使い込まれた長剣。
その刀身は、月光を浴びて鈍く、しかし鋭い輝きを放っている。
対するシュオが手にしているのは、彼がかつてラムジュとして戦っていた時に好んで使用していた、二本の短剣。
その小ぶりな刀身は、まるで獣の牙のように、鋭く、そしてどこか禍々しい雰囲気を漂わせていた。
「エシュさん、よろしくお願いします。」
「ええ、こちらこそ。シュオ様、お手柔らかにお願いいたします。」
二人は、互いに深々と一礼を交わすと、ゆっくりと距離を取り、それぞれの得物を構えた。
空気が、ピリピリと張り詰める。
それは、もはや単なる手合わせではなく、互いの全てをぶつけ合う、真剣勝負の始まりを告げる合図だった。
エシュとシュオ、二人の視線が、静かに、しかし激しく交錯する。
先に動いたのは、シュオだった。
彼は、まるで地面を滑るかのような、音のないステップで、一瞬にしてエシュとの間合いを詰める。
そして、右手の短剣で鋭く突きを繰り出し、同時に左手の短剣で、エシュの足元を薙ぎ払うかのような、巧みな連携攻撃を仕掛けた。
その動きは、一年前にラムジュが彼の体を使っていた時よりも、明らかに速く、そして洗練されていた。
シュオの体には、かつて彼を支配していた天使マルキエルによって、意図せずして宿されていた聖なる力が、今もなお微かに、しかし確かに残っているのだ。
その力は、シュオ自身の潜在能力を飛躍的に引き上げ、彼の身体能力を、以前とは比較にならないほどに向上させていた。
エシュは、シュオのそのあまりにも速すぎる攻撃に、一瞬目を見張るが、さすがは歴戦の戦士だ。
咄嗟に長剣でシュオの突きを防ぎ、同時に体を軽く跳躍させて、足元への攻撃を巧みにかわしてみせる。
しかし、シュオの攻撃はそれだけでは終わらない。
彼は、エシュが着地する、ほんの一瞬の隙を逃さず、再び二本の短剣を、まるで嵐のように、縦横無尽に振るい始めた。
その猛攻は、エシュに反撃の機会を一切与えず、彼女を防戦一方へと追い込んでいく。
エシュは、必死に長剣を振るい、シュオの繰り出す無数の斬撃を受け流し、あるいは弾き返すが、その表情には、徐々に焦りの色が浮かび始めていた。
(な、なんて速さだ...! まるで、見えない刃に襲われているかのようだ...! これが、今のシュオ様の実力...!?)
シュオの中にいるラムジュもまた、その凄まじいシュオの戦いぶりに、驚きを隠せないでいた。
『おいおい、シュオの奴、いつの間にこんな化け物じみた強さになってやがったんだ…? 俺様が知ってる、あの泣き虫で、弱虫だったシュオとは、まるで別人じゃねえか。へっ、面白い。こいつは、面白くなってきたぜ!』
ラムジュは、シュオのその目覚ましい成長に、まるで自分のことのように喜びを感じ、そして同時に、闘争心という名の熱い炎が、心の奥底で燃え上がるのを感じていた。
いつか、この強くなったシュオと、本気で戦ってみたい。その思いが、彼の心を強く支配し始めていた。
一方、シュオは、エシュの防御を少しずつ、しかし確実に崩していく。
そして、ついに、エシュの構えに、ほんの一瞬の、しかし致命的な隙が生まれた瞬間を見逃さなかった。
シュオは、その好機を逃さず、右手の短剣でエシュの長剣を力強く弾き飛ばし、がら空きになった彼女の喉元に、左手の短剣の切っ先を、寸分の狂いもなく突きつけた。
勝負は、決した。
エシュは、自らの喉元に突きつけられた冷たい刃の感触に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
彼女は、負けたのだ。それも、完膚なきまでに。
「…私の、負けです、シュオ様。あなたのその強さ、もはや、私などが及ぶところではありません。」
エシュは、悔しさを滲ませながらも、どこか晴れやかな表情で、自らの敗北を認めた。
シュオは、エシュの言葉に、静かに短剣を下ろすと、少し申し訳なさそうな顔で、彼女に手を差し伸べた。
「エシュさん、ごめんなさい。僕も、まさかここまでとは…。」
二人の間に、しばしの沈黙が流れる。
それは、互いの成長を認め合い、そして、これから始まるであろう新たな物語への、静かな序曲のようでもあった。
――――――――
一方その頃、遥か彼方の第三世界。
ベロニア法王庁から帰還した天使マルキエルは、天界の最も神聖な場所である「天獄」の前に、一人静かに佇んでいた。
天獄とは、かつて神々に反旗を翻した、あるいはこの世界の秩序を乱そうとした、罪深き者たちの魂が、永遠に封じ込められている場所である。
彼は、あの忌まわしき龍神族の王子、ラムジュの魂が、再びこの天獄に封印されていないことを知り、その美しい顔を、今までにないほどの、激しい怒りに歪ませていた。
「…あの、小賢しい人間の女めに、まんまと騙されたというわけか…! 私としたことが、なんという失態…!」
マルキエルは、マリアの巧妙な奇策によって、ラムジュが完全に封印されたと、まんまと勘違いさせられていたのだ。
その事実に気づいた今、彼の心の中では、屈辱と、そして裏切られたことへの激しい怒りの炎が、荒れ狂う嵐のように燃え盛っていた。
「もはや、あの第四世界の人間どもに、ラムジュの魂の封印を任せておくことはできん。こうなれば、もう一度、私が、この私が自らの手で、あの忌まわしき第四世界へと舞い戻り、ラムジュのその汚らわしい魂を、この聖なる剣で完全に消滅させ、永遠に封印してくれるわ!」
マルキエルは、そう決意すると、自らの魂を憑依させるための、清浄な人間の器を探すことすらもどかしく感じ、ある禁断の魔法を行使することを決意した。
それは、天使族の間でさえも、そのあまりの危険性から、固く禁じられている「禁呪」の一つ、自らの肉体を保ったまま、異なる世界へと転移するという、究極の空間転移魔法だった。
第四世界の、脆弱な人間に憑依するのではなく、自らの、この神聖なる天使の体で、ラムジュを完全に、そして永遠に葬り去るために。
マルキエルは、自らが率いる天空騎士団の中から、最も信頼の厚い、そして最も強力な部下を三人選抜すると、彼らと共に、禁断の空間転移魔法の詠唱を開始したのだった。
その瞳には、ラムジュに対する、愛憎入り混じった複雑な感情と、そして、自らの計画を邪魔した者たちへの、容赦ない復讐の炎が、赤々と燃え盛っていた。
第四世界に、今、新たなる、そしてより大きな脅威が、静かに、しかし確実に迫りつつあった。
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