第60話 魔法陣を封印せよ
ベロニア法王庁の長く、そして静謐な回廊を、一人の金髪の騎士が、カツカツと小気味よい足音を響かせながら急ぎ足で歩いていた。
その腰には、王国が総力を挙げて開発した対魔族用特殊兵器『フランベルジュ』が、鞘に収められた状態で誇らしげに携えられている。
彼の名は、アイス・フォルド。
かつては王国騎士団の団長として、その勇猛さと冷静沈着な指揮能力で名を馳せた男だった。
しかし、シュオ・セーレンが命を落としたあの忌まわしい事件以来、彼はその責任を重く受け止め、自ら騎士団を脱退していた。
だが、彼の卓越した戦績と、魔物に対する深い知識は、法王庁からも高く評価され、今では法王庁直轄の精鋭騎士部隊の隊長という、新たな任に就いていたのだ。
長い廊下の突き当りには、ひときわ大きく、そして荘厳な装飾が施された巨大な扉がそびえ立っていた。そこは、天使の間と呼ばれる、法王庁の中でも最も神聖な場所。
アイスは、その重厚な扉の前で一度足を止め、軽く息を整えると、ゆっくりと、そして敬虔な手つきで扉を開けた。
部屋の中は、外界の光を遮断するかのように薄暗く、しかし、部屋の中央に鎮座する巨大な水晶が放つ淡い光によって、幻想的な雰囲気に包まれていた。
そして、その水晶の前に設えられた豪奢な椅子には、忠義を重んじる天使マルキエルが、静かに腰を下ろしていた。その姿は、人間のものでありながら、どこか人間離れした神々しさを漂わせている。
「マルキエル様、ご報告申し上げます。西の地域に出現しておりました魔法陣の封印、滞りなく完了いたしました。これで、王国に残る活性化状態の魔法陣は、あと二つとなります。」
アイスは、マルキエルの前に進み出ると、その場で恭しく片膝をつき、深く首を垂れながら、任務の完了を報告した。
「うむ、ご苦労様です、アイス。それで、今回の魔族の数は、どれほどでしたかな?」
マルキエルの声は、エリアスの体を借りているにも関わらず、どこか人間離れした、鈴を振るような美しい響きを持っていた。
「はっ。出現いたしましたのは、魔獣がおよそ20体といったところでございました。当方の被害としましては、幸いにも死者はなく、軽傷者が3名、重傷者が1名出たのみでございます。」
「ふむ、やはり人間では、たかが魔獣相手であっても、それなりに手こずるものですか。それで、その魔獣の群れの中に、魔族の姿は確認できましたかな?」
マルキエルのその問いに、アイスは静かに首を横に振った。
「いえ、残念ながら、魔族の姿は一体も確認できませんでした。おそらく、あのシュオ・セーレンの命を奪ったとされる、忌まわしきアスタロトという名の魔族は、恐らくですが、残る二つの魔法陣のうち、より強力な魔力を感知する方に出現している可能性が高いかと存じます。」
「なるほどな。では、その魔力をより強く感じるという魔法陣については、この私が自ら赴き、対処するとしましょう。もう一つの方の魔法陣の封印は、あなたたち法王庁騎士部隊にお任せします。よろしいですかな?」
「はっ、承知いたしました。必ずや、マルキエル様のご期待に応えてみせます。」
アイスは、力強く返事をすると、静かに立ち上がり、一礼をして天使の間を退出していった。その背中には、かつての騎士団長としての威厳と、そして新たな使命への決意が漲っているように見えた。
「…やれやれ、人間という生き物は、どうにもあまり役に立たないようですね。まあ、あの忌まわしき魔族が本格的に相手となったら、いくら鍛え上げられた人間とて、赤子の手をひねるように、どうすることもできないでしょうしな。」
マルキエルは、一人残された天使の間で、まるで独り言のようにそう呟くと、椅子から静かに立ち上がり、傍らに立てかけてあった、白銀に輝く長剣を手に取った。その剣は、かつて彼が第三世界で振るっていた愛剣であり、神聖な力を宿している。
「ふふ、久しぶりに、この聖剣の出番となりそうですか。血が騒ぎますな。」
マルキエルは、その剣の冷たい感触を確かめるように、そっと指でなぞりながら、かつて、龍神族の王子ラムジュと死闘を繰り広げた時のことを、鮮明に思い出していた。
あの戦いは、本当に、心の底から魂が震えるほどに熱く、そして激しいものだった。
互いの全力と全霊をぶつけ合い、一瞬の油断も許されない、まさに死闘と呼ぶにふさわしい戦い。
もし、あの時、天使の種族としての絶対的な加護がなければ、あるいは自分がラムジュに敗北していた可能性も、決して否定はできない。
あの、肌が粟立つような、ヒリヒリとするようなギリギリの戦いを、もう一度ラムジュと繰り広げてみたい。しかし、その唯一無二の好敵手は、こともあろうに、取るに足らないはずの魔族ごときに殺されてしまったという。
許せん。断じて許せん。
マルキエルは、まるで大切にしていた玩具を、横から理不尽に取り上げられてしまった幼い子供のように、心の奥底から、どす黒く、そして激しい怒りがふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
「ふう、まあ良いでしょう。感傷に浸っている暇はありませんな。では、さっさと片づけてしまいましょうか。」
マルキエルは、軽く息を吐き、気持ちを切り替えると、何やら神聖な呪文を低く唱え始めた。すると、彼の体は淡い光に包まれ、次の瞬間には、その姿が一瞬にして天使の間から消え失せていた。転移魔法か、あるいはそれに類する高度な空間移動の術を用いたのだろう。
――――――――
ベロニア王国の首都から、南に大きく離れた、鬱蒼とした森の奥深く。そこに、問題の魔法陣の一つは存在していた。
アイス率いる法王庁騎士部隊は、その魔法陣を完全に封印するため、既に現地へと到着し、臨戦態勢を整えていた。
魔法陣の周囲には、まるでそれを守護するかのように、おびただしい数の魔獣の群れが、殺気立った様子で徘徊している。その数、ざっと見ても20体は下らないだろうか。
「総員、戦闘準備! 騎士隊は、前衛となって魔獣を排除せよ! その後、魔導部隊が、魔法陣を速やかに封印するのだ!」
アイスの張りのある声が、森の中に響き渡る。その声に呼応するように、屈強な騎士たちが一斉に動き出し、それぞれの得物を構える。
魔法陣の周囲は、一瞬にして激しい戦闘状態へと突入した。
法王庁騎士部隊の騎士たちは、皆、王国が誇る最新鋭の対魔族用特殊武器『フランベルジュ』を装備している。
そのため、かつての王国騎士団のように、魔獣との戦闘に一方的に苦戦を強いられるということはなく、むしろ優勢に戦いを進めることができていた。フランベルジュの刃は、魔獣の硬い皮膚や甲殻を、まるで紙でも切るかのように容易く切り裂いていく。
アイスは、目の前に立ちはだかる巨大な魔獣の首を、フランベルジュの一閃で正確に切り落とすと、間髪入れずに次の魔獣へと向かう。部下の一人が、複数の魔獣に囲まれ苦戦しているのを見つけると、瞬時にその場へと駆けつけ、華麗な剣捌きで加勢し、敵を一刀両断する。
「隊長! ありがとうございます、助かりました!」
「気にするな! 俺はもう、二度と誰も死なせはしないと誓ったんだ!」
シュオを、あの忌まわしい事件で死なせてしまった時の、どうしようもない無力感と、そして深い後悔の念を、アイスは今もなお、常に胸の奥に抱き続けていた。
だからこそ、今度こそ、自分の部下は一人たりとも死なせはしない。その強い決意を胸に、アイスはたとえ息が切れ、全身が悲鳴を上げようとも、魔獣との激しい戦いを、ただひたすらに続けた。
やがて、最後の魔獣が断末魔の叫びを上げて倒れた時、騎士部隊に死者は一人もおらず、軽傷者がわずか3名という、素晴らしい戦果を挙げることができていた。
アイスは、血に濡れたフランベルジュを地面に突き刺すと、その場に片膝をつき、荒い呼吸を必死に整える。
「隊長! 近隣に、これ以上の魔獣の気配は感知されません!」
斥候に出ていた部下の一人が、朗報を伝えに戻ってきた。
「そうか…ご苦労だった。よし! 魔導部隊、今すぐに魔法陣の封印を開始するんだ! 一刻も早く、この忌まわしいものを消し去ってしまえ!」
アイスの指示を受け、待機していた魔導部隊の魔術師たちが、一斉に魔法の詠唱を開始する。
彼らの杖から放たれる神聖な光が、不吉な輝きを放つ魔法陣を包み込み、その力を徐々に、そして確実に打ち消していく。やがて、魔法陣は完全にその輝きを失い、跡形もなく消え去った。
「…ふう、こちらは、どうやら無事に完了いたしましたな。あとは、残るもう一つの魔法陣…マルキエル様、どうか、ご武運を…」
アイスは、遠い空の彼方、マルキエルが向かったであろう方向を見つめながら、静かに、そして祈るように呟いた。
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