第57話 迷えるマリア
街は年に一度の盛大な収穫祭の熱気に包まれ、道という道は、着飾った人々でごった返していた。
陽気な音楽と、人々の楽しげな笑い声が、まるで洪水のように街中に溢れている。
しかし、そんな喧騒とは裏腹に、マリア・ガナッシュの心は、鉛のように重く、冷たく沈んでいた。
彼女は、その華やかな人波をかき分けるようにして、一心不乱に走り続け、やがて薄暗く、人気のない裏路地へとその身を潜り込ませた。
路地裏は、表通りの喧騒が嘘のように、まるで時間が止まったかのような静寂に支配されていた。
マリアは、ハアハアと荒い息を切らしながら、ようやくその場に立ち止まると、汚れたレンガの壁に力なく手をついた。
肩で大きく息をしながら、崩れ落ちそうになる体を必死に支える。
その美しい顔は、止めどなく流れ落ちる涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れそぼり、もはや見る影もなかった。こんな無様な姿は、誰にも、絶対に誰にも見せることなどできない。
(ああ、シュオ様…...シュオ様が、もしかしたら、本当に生きているのかもしれないと、あんなにも、あんなにも強く信じていたのに…...私の、私の唯一の光が、再びこの手に戻ってくるのだと、心の底から、そう思っていたのに…...それが、それが手に入らなかった…...もう、これ以上は、私には耐えられない…...)
マリアの心は、希望という名の脆いガラス細工が、無残にも粉々に砕け散ってしまったかのように、完全に打ちひしがれていた。
シュオが生きているかもしれないという、ほんの僅かな可能性に全てを賭けていた彼女にとって、その希望が完全に断たれてしまった今、もはや自分には何も残ってはいないように感じられた。
愛する人も、生きる意味も、未来への希望も、全てが失われてしまったのだ。
マリアは、もう全てがどうでもよくなった。この先生きていても、何の喜びもない。何の価値もない。
(このまま、こんな惨めな思いをして生き続けるくらいなら、いっそ、もう死んでしまった方が楽なのかもしれないわね…...)
懐に常に忍ばせていた、護身用の短剣の冷たい感触を確かめながら、マリアは、自らの命を絶つという、あまりにも短絡的で、そして取り返しのつかない考えに囚われてしまう。
しかし、それを今すぐ現実に移すほどの気力も、もはや今のマリアの衰弱しきった精神には残されていなかった。
ただ、漠然とした死への憧憬だけが、彼女の心を支配していた。
それでも、まるで何かに導かれるかのように、マリアは震える手で懐から短剣を抜き放つと、その冷たく光る切っ先を、自らの白く細い喉元へと、ゆっくりと、そしてためらいがちに当てた。
(シュオ様…...今、私も、あなたのいる場所へと参りますわ…...どうか、どうか私を、おそばに…...)
剣先に、ほんの少し力を込め、自らの命脈を断ち切ろうとした、まさにその時だった。
「マリアっ!!」
切羽詰まった、しかし聞き慣れた声と共に、背後から何者かがマリアに勢いよく飛びかかってきた。マリアは、その衝撃で短剣を手放し、もつれ合うようにして、硬く冷たい石畳の上へと転がった。
「…何をするのよ、リーザ…...もう、私を放っておいて…...私を、死なせてちょうだい…...」
マリアは、地面に顔を伏せたまま、力なく呟いた。その声には、もはや何の感情も込められていない。
「そんなこと、私がさせるわけないでしょ!? あんたが、もしそんな馬鹿なことをしたら、シュオが、天国でどれだけ悲しむと思ってるのよ!!」
リーザは、マリアの肩を掴み、必死の形相で叫んだ。その瞳には、怒りと、そして深い悲しみが浮かんでいる。
「シュオ様……」
シュオの名前を聞いた瞬間、マリアの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。
彼女は、手放してしまった短剣を地面に落としたまま、両手を力なく地面につく。
「それじゃあ…それじゃあ、私は、これから一体どうしていけばいいの…? シュオ様がいないこの世界で、私は、どのようにして生きていけばいいというの!? 教えてちょうだい、リーザ!! ねぇ、教えてよ!!」
マリアは、まるで幼い子供が駄々をこねるかのように、リーザの胸倉に掴みかかり、感情のままに叫んだ。その声は、絶望と、そしてどうしようもないほどの孤独感に満ちていた。
「マリア…落ち着いて聞いて。世界は、シュオ君だけじゃないのよ。もちろん、あなたが彼をどれほど大切に想っていたかは、私にも痛いほど分かるわ。だから、別に今すぐ他の男を探せなんて、そんな無神経なことは言わない。でもね、この世界には、シュオ君以外にも、たくさんの素晴らしいものや、美しいものが溢れているのよ。あるいは、何か別の、あなたが心の底から夢中になれるようなものを見つけて、それに集中してみるのもいいかもしれないわ。あなたなら、きっとできるはずよ。やれることは、まだまだ、いくらでもあるはずよ。」
「でも、でも私にとっては、シュオ様が、シュオ様だけが全てだったのよ! あの、誰よりも優しくて、そして誰よりも力強いシュオ様のそばにいることだけが、私の生きる意味であり、私の全てだったのよ!」
すがるようなリーザの優しい言葉も、今のマリアの心には届かない。マリアは、感情の昂ぶりのままに、リーザの頬を、パシンと強く叩いてしまった。
「マリア! あんた、いつまでシュオ君の幻影にしがみついているつもりなのよ! そんなんじゃ、天国のシュオ君だって、いつまで経っても安心して眠ることなんてできないわよ!」
リーザの、魂からの叫びとも言える一喝に、マリアはハッとしたように動きを止め、呆然とした表情でリーザを見つめた。
「いい加減、シュオ君の亡霊にばかり縋り付いていないで、何か新しいものを見つけようとしなさいよ! 私は、いつまでもそんな暗くて、生気のないマリアを見ているのは辛いのよ! また昔のように、太陽みたいに明るく笑って、一緒に楽しくお喋りしましょうよ!」
「リーザ……」
叩かれた頬にそっと手を当てながら、マリアはか細い声で呟いた。
そうだ、自分には、今でもこんなにも自分のことを心配し、そして叱ってくれる、かけがえのない友達がいるのだ。こんな、どうしようもない自分を見捨てずにいてくれる友達が…...
「リーザ…...私にも、何か、何か新しいものを見つけることが、本当にできるのかな…? シュオ様がいないこの世界で、私にも、まだ何かできることがあるのかな…?」
「できるに決まってるじゃない。私だって、そうやって少しずつ乗り越えてこられたんだもの。きっと、マリアにだってできるわ。大切なのは、無理に忘れようとすることじゃないの。シュオ君との大切な思い出は、心の片隅にそっとしまっておいて、そして、何か新しいことで、あなたの心を少しずつ満たしていくことなのよ。」
マリアは、リーザの胸倉を掴んでいた手をそっと離し、ただ黙ってリーザの顔を見つめた。
リーザは、真剣な、そして心からの友情に満ちた目で、マリアのことを見つめ続けている。
こんなにも自分のことを心配し、そして本気で叱ってくれる友達が、自分にはまだいるんだ。その事実に、マリアの凍てついていた心が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じた。
「リーザ……本当に、ありがとう……私、少し、目が覚めたような気がするわ…...」
「いいのよ、マリア。私達、同じようにシュオ君を失った、同じ境遇の者同士だったんだから。お互い様よ。」
リーザはそう言うと、優しくマリアの体を抱きしめた。その温かく、そして力強い抱擁に、マリアは久しぶりに、心の奥底に、まるで小さな蝋燭の炎が灯ったかのような、温かいものを感じた気がした。それは、生きる希望という名の、小さな、しかし確かな光だったのかもしれない。
その時だった。
「大変だー! 大変だー! 街の外に、見たこともないような、おびただしい数のモンスターの大群が現れたぞー!」
遠くから、誰かの切羽詰まった叫び声が、収穫祭の喧騒を切り裂くように響いてきた。
「リーザ…」
「ええ、聞こえたわ。私は行くわ。生徒会長として、街の人たちを守らなければならないもの。マリアは、どうする?」
リーザは、マリアの瞳を真っ直ぐに見つめながら尋ねた。
「………私も、行くわ。寮の部屋に、愛用の武器が置いてあるから、それを急いで取りに行かなければ。」
マリアの瞳には、先程まで宿っていた深い絶望の色は消え、代わりに、かつての彼女を彷彿とさせるような、強く、そして美しい光が、再び戻っていた。
リーザは、そんなマリアの姿を見て、心の底からホッとしたような、安堵の表情を浮かべた。
「よし! それじゃあ、急いで武器を取りに行って、街の外へと向かいましょう!」
「ええ、もちろんよ! この私の、本当の力を見せて差し上げますわ!」
二人は、互いに力強く頷き合うと、まるで示し合わせたかのように同時に立ち上がり、それぞれの武器を取りに戻るため、寮へと向かって、力強く駆け出していった。
彼女たちの背中には、もはや迷いの色はなかった。大切なものを守るために戦うという、新たな決意を胸に。
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