番外編3 エシュ・ホランド1
朝靄がまだ庭の隅々に残り、ひんやりとした空気が肌を撫でる早朝。
セーレン家の広大な庭の一角で、一人の女戦士が黙々と剣を振るっていた。
エシュ・ホランド。
その名はセーレン家に仕える最強の女戦士として知られていた。
一心不乱に、彼女は素振りを続ける。
その動きは、見る者によって異なる印象を与えるだろう。
ある者は、まるで華麗に舞い踊る剣の姫君のようだと感嘆し、またある者は、荒れ狂う鬼神の如き凄まじい気迫を感じ取るかもしれない。
汗が玉のように額を流れ落ち、鍛え上げられた筋肉がしなやかに躍動する。
彼女の振るう剣は、朝陽を受けて鈍い光を放ち、まるで生きているかのように鋭い風切り音を立てていた。
「エシュさん、私達も朝食にしませんかー?」
屋敷の勝手口からエプロン姿のアーニャ・レノンが顔を出し、穏やかな声でエシュに声をかけた。
貴族の家の風習として、仕える者たちは主の食事が終わってから、ようやく自分たちの食事を開始する。
アーニャがこうして呼びに来たということは、セーレン家の当主や家族たちの朝食が済んだという合図だった。
エシュは、アーニャの声に気づくと素振りをピタリと止め、ふぅ、と深く息を吐きながら、傍らに置いてあったタオルで額の汗を拭った。
「エシュさんの剣捌きはいつ拝見しても本当に綺麗ですね。まるで、本当に目に見えない敵と戦っているかのように見えますわ。」
アーニャは感嘆の声を漏らしながら、エシュの傍へと歩み寄る。
「...そうか。アーニャ、私はな、今でもずっと戦っているんだよ。決して消えることのない、過去という名の敵と、な。」
剣を鞘へと静かに納めると、エシュはどこか遠い空を見つめながら、ぽつりと呟いた。
その瞳には、深い悲しみと、そして決して消えることのない決意の色が宿っているように見えた。
――――――――
夜の帳が下り、街の酒場はいつものように喧騒に包まれていた。
冒険を無事に終え、互いの武勇伝を肴に酒を酌み交わし、高らかに褒め称え合う者たち。
依頼が見つからず、カウンターで一人不貞腐れながら酒を呷っている者。
日々の仕事の疲れを癒すため、仕事仲間達とくだらない話で馬鹿騒ぎをしている者たち。
様々な人間模様が交錯するこの雑多な雰囲気は、エシュにとって決して嫌いなものではなかった。
一人で飲んでいても不思議と孤独を感じることはなく、むしろこの賑やかさが心地よいとさえ感じていた。
エシュはカウンター席の一番端に一人静かに座り、キンキンに冷えたエールをゆっくりと味わっていた。
今日の依頼で溜まった肉体的な疲労と、精神的な緊張感が、エールの苦味と共に喉を通り過ぎ、すぅっと流れ落ちていくような感覚が、たまらなく気持ちいい。
今日の仕事は久しぶりにパーティーを組んでの依頼だった。パーティーの実力は全員エシュ以下。
そんな中パーティーを守りつつ依頼をこなすという事はなかなか難儀である。
それをやり遂げた満足感から今日のエールは格別な味だった。
「よお、あんたが一人で気ままに冒険者稼業をしているっていう噂の女戦士、エシュ・ホランドかい?」
突如、背後から気安そうな声がかけられた。
エシュがゆっくりと振り返ると、そこには、金色の髪を短く刈り込み、碧い瞳をした、いかにも騎士然とした出で立ちの若い男が立っていた。
男は、手入れの行き届いた立派な鉄製の鎧を身に纏い、腰には鞘に収められた長剣を携えている。その佇まいからは、それなりの実力者であることが窺えた。
「私はあんたのことを見かけた覚えはないんだが、誰だい? 私に何か用でもあるのかい?」
「おっと、これは失礼した。俺はギット・ライアン。『トライデント』っていうパーティーのリーダーをやってる。ちょっと、あんたに相談したいことがあるんだ。」
「相談、だって? 初対面の私に、一体どんな相談があるっていうんだい?」
「まあ、立ち話もなんだしな。あっちで俺のパーティーの奴らと飲んでるんだが、よければ一緒に一杯どうだ? 話はそれからでも遅くはないだろう?」
ギットが親指で指し示したテーブル席の方を見ると、そこには、男女混合の四人組が、こちらに興味深そうな視線を向けながら座っていた。
見たところ、特に怪しい雰囲気はなく、少なくともチンピラや悪党の類ではなさそうだ。話だけでも聞いてやってもいいかもしれない、とエシュは判断した。
「...いいだろう。そっちで話を聞かせてもらうとしようか。」
エシュはまだ半分ほど残っていたエールのジョッキを手に取り、ギットの後に続いてテーブル席へと移動した。
四人のメンバーは、エシュの姿を見ると、それぞれ少しずつ席を詰めあい、彼女が座るためのスペースを空けてくれる。
せっかくの厚意だ、エシュは素直にその席に腰を下ろし、ギットはその対面にどっかりと腰を下ろした。
「改めて紹介するぜ。こちらが、巷で噂の凄腕女戦士、エシュ・ホランドだ。」
ギットの紹介に、周りのメンバーたちから、「へえ、こいつがあの...」「噂で聞いてたより、ずっと美人ね...」といった、感嘆と好奇の入り混じった声が小さく上がる。
「それで、私への相談というのは、一体なんなんだい?」
周りのざわめきを意にも介さず、エシュは単刀直入にギットに尋ねた。
「ああ、そうだな。その前に、俺たちのことをもう一度ちゃんと自己紹介させてくれ。俺たちは『トライデント』。ギルド認定A級のパーティーだ。で、左から、屈強な戦士のモーゼ、手先が器用な盗賊のリンド、回復魔法の使い手である治癒士のアイファ、そして魔術師のメイだ。」
ギットに紹介されたメンバーたちは、それぞれ「よろしくなー」「よろしくねー」と、エシュに向かって気さくに声をかけてくる。パーティーの雰囲気は悪くないようだ。
「実はな、エシュ。俺たちは、これからとあるダンジョンに挑もうと思ってるんだ。そこで、ぜひともあんたの力を貸してほしいと思ってる。」
「ダンジョン、だって? A級の実力を持つあんたたちが、わざわざ私なんかに協力を要請してまで行こうっていうダンジョンってのは、一体どこにある、どんな場所なんだい?」
「...デルガライト洞窟だ。」
「なんだって...!?」
その名を聞いた瞬間、エシュは思わず目を見開いた。
デルガライト洞窟。
それは、ごく最近になって発見されたばかりの、未踏破の巨大な洞窟だった。
その内部には、古代文明の遺産や莫大な財宝が眠っているという噂が絶えず、今、多くの冒険者たちが最も攻略目標として目指している、いわば垂涎の的とも言える場所だ。
しかし、その内部構造は複雑怪奇を極め、強力な魔物も多数生息していると言われており、最深部まで辿り着いた者は未だ一人もおらず、かのS級パーティーですらも攻略途中で撤退を余儀なくされたという、曰く付きの難攻不落のダンジョンだった。
「あんたたち、本気で言ってるのかい? あのデルガライト洞窟に、S級パーティーでもないあんたたちが挑もうって言うのかい?」
「ああ、本気だとも。俺たちはな、この洞窟を踏破するために、これまでコツコツと情報を集め、金に糸目をつけずに有力な情報をたくさん買い込んできた。それらの情報を上手く活用し、そして、あんたのその卓越した剣の腕があれば、きっと踏破できるはずだと信じてるんだ。だからこそ、こうしてキミの力を借りたいと思ってる。」
エシュは値踏みをするかのように、パーティーのメンバー一人一人の顔をじっくりと見渡す。
確かに、ギットの言う通りそう簡単には死にそうにない、それなりに修羅場を潜り抜けてきたような面構えをしている。
パーティーの構成バランスも、前衛、後衛、回復役と揃っており、悪くない。
情報も大量に持っているというのなら、あるいは、洞窟の半分くらいまでは進むことができるのかもしれない。
そして、何よりも彼らの瞳には、本気の覚悟と、成功への渇望が宿っているように見えた。
「...報酬は、どうするつもりなんだい?」
「そうだな...道中で見つけた財宝や金品、その総額の3割ってところでどうだろうか? もちろん、それ以外に今回の依頼料として、別途成功報酬も支払うつもりだ。」
3割。それは、決して悪い話ではない。
もし、噂通りデルガライト洞窟の奥深くに、とんでもない価値のある秘宝でも眠っていたとしたら、それこそ、この先の人生、冒険者を引退してものんびりと暮らしていけるだけの大金を手にすることができるかもしれない。
「…いい話だ。乗った。それで、出発はいつにするつもりなんだい?」
「そうこなくっちゃな! 出発は、明日の朝一番でこの街を出る。アルドラ地域までは、馬車を使っても三日はかかるだろう。そこから、目的のデルガライト洞窟までは、さらに五日といったところか。」
「分かった。私にも少し準備があるからな。自分の宿に一度戻る。明日の朝、街の北門で合流しよう。」
そう言うと、エシュは残りのエールを一気に飲み干し席を立つと、誰に挨拶をするでもなく颯爽と酒場を出ていった。
久しぶりにエシュの心の奥底で、冒険への渇望という名の熱い炎が、再び燃え上がった瞬間だった。
翌朝、まだ日の昇りきらない薄暗い中、エシュが北門へと向かうと、そこには既に一台の頑丈そうな馬車が用意されていた。
おそらく、トライデントのメンバーたちが手配したものだろう。馬車の側面には、三叉の槍をモチーフにした、彼らのパーティーエンブレムが描かれている。
「おはよう、エシュ。時間通りだな。もしかしたら、来てくれないんじゃないかと少し心配してたんだぜ。」
馬車の幌からギットがひょっこりと顔を出し、エシュに気づくと朗らかな笑顔で挨拶をした。
「おはよう、ギット。約束は守る主義なんでね。これからしばらくの間、よろしく頼むわ。」
「ああ、こちらこそ、よろしく頼む。さあ、乗ってくれ。長旅になるからな。」
ギットに促され、エシュは軽やかな身のこなしで馬車へと乗り込む。
内部には既に他のメンバーたちが乗り込んでおり、エシュに気づくと軽く会釈をしてきた。
やがて、御者の合図と共に馬車はゆっくりと動き出し、まだ眠りから覚めやらぬ街を後にして、未踏のデルガライト洞窟へと向けて、その長い旅路を開始したのだった。




