番外編2 マリア・ガナッシュ2
「いったいどうしたの? 彼に何かあったの?」
目に大粒の涙を溜め、必死の形相で肩を揺すってくるユニに、マリアはひとまず落ち着くよう優しく声をかけ、何があったのかを丁寧に尋ねた。
ユニの華奢な体は小刻みに震え、その表情は恐怖と絶望に染まっている。
「クリスが…クリスが、奴らに連れていかれてしまったの…! このままじゃ、彼が…彼が殺されちゃうわ…!」
「落ち着いて。どこに連れていかれたか、心当たりはあるの? 一体、彼は何をしていたの?」
「彼は…以前は薬屋を営んでいたんだけど、裏では…その…違法な薬物を流す仕事をさせられていたの…彼のお店が経営難で潰れてしまいそうだった時に、お金を借りてしまって…ただ、その借りた相手が悪かったのよ…お金を借りたロメット商会というところは、実は違法薬物の密売を行っている悪質な組織と深く繋がっていて…それで彼は、断り切れずに…」
そこまで一気に話すと、ユニは嗚咽を漏らし、力なくその場にへたり込んでしまった。
マリアは、その痛ましい姿を黙って見つめる。貴族の世界とはかけ離れた、裏社会のどす黒い現実が、目の前の少女を苦しめているのだ。
「…事情は分かったわ。クリスは、私が必ず助け出す。あなたは、一刻も早く憲兵の所へ行って、この事を報告してちょうだい。」
マリアは、ユニの肩を力強く抱き寄せると、決然とした口調で告げた。
「ええ、お願い…! きっと、彼は貧民街にある6番倉庫にいるはずよ。あそこが、奴らのアジトだったから…」
「6番倉庫ね。分かったわ。」
マリアは、ユニからアジトの場所を聞き出すと、すぐさま駆け出した。
裕福な貴族たちが暮らす瀟洒な住宅地から、荒廃した貧民街までは、全力で走ればおよそ10分といったところだろうか。急げば、まだ十分に間に合うはずだ。
整備された石畳の道が途切れ、徐々に埃っぽく、荒れた街並みへと変わっていく。
見慣れない上等な衣服を身に纏った少女が、必死の形相で走り抜けていく姿を、道端にたむろする浮浪者たちが、物珍しそうに、あるいは何かを期待するような濁った目で見つめていた。
マリアは、そんな彼らの視線を意にも介さず、ただひたすらに目的地である倉庫街へと突き進んだ。
やがて、古びたレンガで作られた倉庫がいくつも建ち並ぶ一角へと到着した。
その中でも、ひときわ大きな一つの倉庫だけが、入口の前に二人組の見張りを立たせている。
間違いない、あそこがアジトだろう。
マリアは、息を潜め、気づかれないように慎重に倉庫へと近づいていく。
(下手にここの見張りに声でも出されたら、中の連中にこちらの存在がバレてしまうわ…ここは、魔法で一気に黙らせるしかないわね…)
マリアは、物陰に身を隠しながら、そっと手を見張りにかざし、集中して魔力の詠唱を開始する。
マリアが覚醒している魔法属性は『火』。
その白魚のような手のひらに、瞬く間に小さな火の玉が形成されると、それを寸分の狂いもなく、見張りの一人へと向けて放った。
炎の弾丸は、正確に見張りの口元を焼き、声を発する機能を奪ってしまう。
突然の出来事に何が起きたのかも分からず、慌てふためき始めるもう一人の見張りを目掛けて、マリアは一気に飛び出した。
そして、腰に下げていた細剣を抜き放つと、流れるような動きで、もう一人の見張りの足を的確に貫いていく。
足を負傷した見張りは、苦痛の声を上げる間もなく、その場に崩れ落ちる。
そこでマリアは、容赦なく剣の持ち手(柄頭)で、倒れた見張りの後頭部を強かに殴りつけ、完全に意識を奪った。
「これで見張りは二人とも片付いたわね。さて、問題は中だけど…」
マリアは倉庫の側面に回り込み、埃にまみれた窓を見つけて、そっと中の様子を覗き込む。
倉庫の中には、全部で五人の男たちがいた。
その内の一人が、荒々しく縄で椅子に縛り付けられており、そのやつれた姿から、おそらく彼がクリスだろうとマリアは判断した。
残りの四人は、それぞれ手に物騒な剣を握っており、下手に踏み込めば、クリスは人質として即座に殺されてしまう可能性が高い。
しかし、憲兵の到着を待っていたとしても、それまでクリスが無事でいるという保証はどこにもない。
「…もう、行くしかないわね…」
マリアは覚悟を決めると、窓を静かに開けて中に忍び込もうと試みる。
が、しかし、長年放置されていた窓はひどく錆び付いているのか、ギシギシと嫌な音を立てるばかりで、ほんのわずか、人が通るには到底足りない隙間までしか開かない。
「…まいったわね…これじゃあ、さすがの私でも通り抜けられないかもしれないわ…」
マリアは、自らの豊満に成長した胸元を、少し恨めしそうに見下ろした。
戦闘以外の場面で、自分の恵まれた体つきについて、これほど恨めしいと思ったのは、これが初めての経験だった。
「こうなったら…奥の手ね…!」
マリアは再び魔力を集中させ、魔法の詠唱を開始する。
今度は、先程のような小さな火球ではない。
周囲を一瞬で焼き尽くすほどの、巨大な火球だ。
この火球を男たちの周囲に放ち、混乱を生み出せば、その隙に中に突入できるはずだ。
マリアは、渾身の魔力を込めた巨大な火球を、倉庫内にいる男たちの頭上目掛けて正確に放った。
火球は轟音と共に炸裂し、倉庫内に積まれていた荷物に次々と引火し、瞬く間に激しい炎が燃え上がる。
「な、なんだ!? 火事か!?」
突然の爆発と炎に、男たちは完全に不意を突かれ、慌てふためいて周囲を見渡す。
「今だ!」
マリアは、その混乱の隙を見逃さず、固く閉ざされていた窓を力任せに蹴破ると、燃え盛る炎をものともせずに倉庫内へと飛び込んだ。
炎の勢いに気を取られていた男たちは、マリアの電光石火の突入に完全に反応が遅れる。
マリアは、その卓越した身体能力を活かして素早く動き、まず一番近くにいた男の足を、寸分の狂いもなく剣で突き刺す。
男が苦痛の声を上げる間もなく、続いて剣を抜きざまに、その隣にいた別の男の頭部を、剣の柄で強かに殴りつけた。
「こ、こいつ、何者だ! ただの女じゃねえぞ!」
三人目の男が、恐怖と怒りの入り混じった表情で、剣を大きく振り被ってマリアに襲いかかってくる。
マリアは、その大振りの攻撃を紙一重でかわすと、流れるような動作で短い詠唱を行い、再び火球を放った。
炎は男の衣服に燃え移り、男は悲鳴を上げながら床を転げ回る。
「たいした女狐だが、そこまでだぜ。」
不意に、背後から低い声が聞こえた。
マリアが素早く振り向くと、そこには、最後の生き残りであるリーダー格の男が、縛り上げられたクリスの首筋に、冷たく光る剣の刃を当てつけて立っていた。
「お前、昨日の市場にいた女か。やはり、お前の目的はこの男だったんだな?」
「くっ…どこまでも卑怯な蛆虫め...」
「こいつがどうなってもいいって言うんなら話は別だが、殺されたくなかったら、おとなしくその剣を捨てるんだな。」
ここで剣を捨てなければ、間違いなくクリスは目の前で殺されてしまうだろう。
マリアは悔しさに唇を噛み締めながらも、おとなしく手にしていた細剣を自分の前の床へと投げ捨てた。
「ふん、素直でよろしい。まあ、お前のおかげで、大事な薬品の方はほとんど燃えちまったが、代わりに、お前さんを人身売買で売り飛ばせば、それなりの儲けにはなるだろうからな。」
リーダー格の男がそう言った直後、マリアの背後から、先程火だるまになっていたはずの男が、いつの間にか炎を消し止め、荒々しくマリアの体を縄で縛り上げた。魔法で完全に仕留めきれていなかったようだ。
「へへっ、こいつ、いい体してるし、こりゃあ相当な高値で売れますぜ、ボス。」
「そうだな。クリスはここで始末して、この女を連れてさっさとこの街を出るとするか。」
「おい! 俺がまたお前たちの言うことを聞くから! だから、その子だけはどうか放してやってくれ!」
クリスが、縄で縛られながらも、必死の形相で叫ぶが、
「だめだ。こうなった以上、お前はもう用なしだ。大人しく死ね。そして、俺たちはあの女で一儲けさせてもらうとしよう。」
男は、下卑た笑いを浮かべ、マリアの体をねめ回すように見ながら、クリスの首筋に当てていた剣に、ゆっくりと力を込めようとする。
「この卑怯者め!! その男を殺すことは、この私が許さないぞ!!」
マリアが、悲痛な叫びをあげた、まさにその瞬間だった。
マリアが先程蹴破った窓から、突如として無数の色とりどりの魔法の光弾が、雨あられのように飛び込んできたのだ。
それとほぼ同時に、倉庫の大きな扉が内側からけたたましい音を立てて破られ、武装した憲兵たちが雪崩れ込むように突入してきた。
「動くな! 全員武器を捨てて、両手を上げろ!」
屈強な憲兵たちが、あっという間に残りの男たちを取り囲む。その後ろからは、魔導師部隊も続き、いつでも魔法を発動できる体勢で男たちを威圧する。
「お前たちを、違法薬物の密売及び所持の容疑で現行犯逮捕する!」
「な、なんで憲兵が、こんなところに…?」
クリスが、呆然とした表情で呟く。
その憲兵たちの後ろには、涙で目を真っ赤に腫らしながらも、心配そうにクリスを見つめるユニの姿があった。
男たちは、抵抗する間もなく憲兵たちに拘束され、次々と連行されていく。縄を解かれたクリスに、ユニが泣きながら抱きついた。
「クリス…! ああ、クリス…! 生きてて、本当によかった…!」
「ユニ…まさか、君が…あのお嬢さんに、俺の救助をお願いしてくれたのか…?」
「ええ、そうなの…市場で、偶然彼女に出会うことができたから…だから、あなたもこうして助かったのよ…」
「そうか…本当にありがとう、ユニ。だが…俺も、結局は奴らの密売に加担してしまっていた。だから、俺も憲兵に連れていかれることになるだろう…」
「クリス……」
しっかりと抱き合う二人。しかし、その感動的な再会の場面も長くは続かず、憲兵は無情にもクリスの腕を掴むと、他の男たちと同様に連行していった。
マリアは、その場で号泣するユニの肩を、ただ黙って抱きしめることしかできなかった。
――――――
それから三日後の昼下がり。
マリアはいつものように、しかしどこか晴れやかな気持ちで市場を歩いていた。
クリスが経営していたという薬屋は、結局、今回の事件で完全に潰れてしまったらしい。
しかし、その跡地には、早くも新しい店がオープンしていた。
そこでは、以前ユニと名乗っていた、あの快活で気立ての良い女性が、食事もできる賑やかな酒場を切り盛りしているという噂だった。
マリアは、その新しい酒場を目指して歩いていた。
あの時、絶望の淵にいた彼女が見せた、一筋の希望の光。その女店主の、太陽のような元気な笑顔を、もう一度見るために。
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