番外編2 マリア・ガナッシュ1
太陽が真夏の到来を告げるように、ルビーの月へと変わり、暑さも一段と厳しさを増してきた季節。
学院の廊下をシュオ・セーレンが歩いていると、突然後ろから明るい声がかかった。
「シュオ様! こんなに暑いからこそ海へ行きましょう!」
振り返ると、そこには期待に満ちた表情を浮かべるマリア・ガナッシュが立っていた。
貴族の令嬢らしい華やかなドレスに身を包み、その瞳はシュオだけを真っ直ぐに見つめている。
学院も間もなく夏季休暇に入り、多くの貴族たちが避暑地へと向かう時期だ。マリアの提案は、そんな夏の訪れを感じさせるものだった。
「海かぁ…僕…実は泳げないんだよね…」
シュオは、えへへと照れくさそうに頭を掻いた。彼のそんな飾らない姿も、マリアにとっては魅力的に映る。
「まあ! 泳げなくたって、全く問題ありませんわ! なんなら、この私が手取り足取り、シュオ様に泳ぎの楽しさをお教え差し上げます! シュオ様と二人きりで、青い空の下、輝く海で泳ぎのトレーニング…。ああ、考えただけで胸が熱くなりますわ!」
泳げないシュオの手を取り、優しく指導する自分。
練習中に起こるかもしれない、ちょっとしたアクシデントによるドキドキの接触…マリアの頭の中では、甘い妄想が際限なく膨らんでいく。
頬を染め、うっとりとした表情を浮かべるマリアの姿は、恋する乙女そのものだった。
「海とか、そりゃあ羨ましいけど、残念ながら無理な話だぜ。シュオはそう簡単に学院から離れられないしな。」
突然、二人の間に割って入るように、少しイラッとしたような声が響いた。
声の主は、シュオの幼馴染であり、生徒会のメンバーでもあるカイル・ディラートだった。
彼は腕を組み、やれやれといった表情でマリアを見ている。
「何の用だ、三流騎士。私とシュオ様の大切な時間を邪魔するんじゃない。」
マリアはシュオ以外の人間には容赦がない。カイルに対しても、まるでゴミムシでも見るかのような冷たい視線を向ける。その態度は、出会った頃から少しも変わっていなかった。
「まだ人の事を三流って呼ぶのか! まあ、いいけどさ。俺たち生徒会は、夏季休暇中も基本的に学院に待機していないといけないんだよ。いつ騎士団から緊急の応援要請がかかるか分からないからな。」
「え! そ、そうですの、シュオ様!?」
マリアは信じられないといった表情で、シュオに確認を求める。
「えっと……うん、そうなんだ。生徒会は、万が一の事態に備えて、いつでも動けるようにしておかないといけないからね。だから、残念だけど、休暇中も学校を離れることはできないんだ。」
シュオは申し訳なさそうにマリアに告げた。
「そ、そんなぁ……。」
その言葉を聞いた瞬間、マリアはショックのあまり、その場にガックリと崩れ落ちた。
手には、いつの間にか握りしめていた真新しい水着のカタログが力なく垂れ下がっている。
(せっかく、シュオ様にお見せするために、新しい水着も買って、完璧な計画を立てておりましたのに……。)
「まあ、そういうわけだから、諦めるこったな。シュオ、そろそろ生徒会の会議の時間だぞ。」
カイルは、どこかマリアをからかうような口調で言うと、シュオの肩を叩いた。
「う、うん。ごめんね、マリア。また今度、何か別の機会に…。」
シュオは、心底申し訳なさそうな顔でマリアに謝ると、カイルと共に生徒会室へと向かってしまった。
残されたのは、夏の計画が無残にも打ち砕かれ、悲しみに打ちひしがれるマリアただ一人だった。
肩を落とし、とぼとぼと人気のない廊下を歩く彼女の背中は、ひどく小さく見えた。
(仕方ありませんわ…。今は、おとなしく屋敷へ帰るとしましょう…。)
マリアは重いため息をつきながら、一人寂しく学院の門を出た。
何の当てもなく、ふらふらと人気のない市場の裏通りを歩いていたマリアの目に、様々な品物が並ぶ露店が映る。
品揃えもすっかり夏らしくなり、瑞々しい果物や涼しげな衣料品、そして、なぜか肌の露出が多い、きわどいデザインの防具などが所狭しと並べられていた。
(まあ…こんなものを嬉しそうに身につけて、仲睦まじく冒険の旅に出かける恋人たちもいるのでしょうね…)
あまりにも薄手で、本当にこれで体を守れるのかと疑問に思うような防具を眺めながら、マリアはシュオとの甘いバカンスを夢想していただけに、なんだか無性に切ない気持ちになってきてしまう。
その時だった。突然、マリアの目の前に、一人の男性が勢いよく転がってきた。
よく見ると、顔面を殴られたようで、口からは血を流し、苦悶の表情を浮かべている。
すぐに、慌てた様子で一人の若い女性が駆け寄り、男性の体を心配そうに抱き起こした。
「クリス、大丈夫!?」
「ああ…ユニ、お前は下がってろ…こいつらは、俺に用があるんだ。」
クリスと呼ばれた男は、ユニと名乗る女性を左手で庇うように後ろに追いやると、苦痛に顔を歪めながらも、ゆっくりと立ち上がった。
そのクリスの前に、いかにも柄の悪そうな、大柄な男たちが四人ほど、威圧するように立ちはだかった。
「おい、クリス。お前、まさか本気で俺たちの組織から抜けようなんて思ってるわけじゃねえだろうな。」
集団の真ん中に立つ、リーダー格らしき男が、嘲るような口調で倒れているクリスに話しかける。
「悪いけどな…俺はもう、真っ当な人間に戻りたいんだ。これ以上、恋人に心配かけさせたくないんだよ。」
「恋人、だぁ?」
男は、クリスの背後で不安げに佇むユニに、いやらしい視線を向けた。
「なるほどな。女のために、俺たちを裏切って抜けたいって言うのか。だったら、それなりの筋は通してもらわねえとなぁ、クリスよぉ。」
「…何をさせる気だよ?」
クリスは、警戒心を露わに男を睨みつける。
「お前の店に貸してやった金、利子もきっちりつけて、5000ゴールド、今すぐここで返しな。」
「5000ゴールドだと!? 俺があんたに借りたのは、たったの200ゴールドだったはずだぞ! それに、その分は、あんたたちの仕事に十分すぎるほど協力してきたはずだ!」
クリスは、信じられないといった表情で声を荒らげた。
男は「はぁ?」と鼻で笑うと、唾棄するように地面に唾を吐き捨てた。
「返さなけりゃ、毎日毎日、雪だるま式に利子は増えていくんだよ! お前が今まで働いた分を差し引いても、それだけ莫大な利子がついてるってことだ。文句あるか?」
「ふざけるなよ! そんな大金、今すぐ払える訳ないだろ!」
「だったら、別に違うものでもいいんだぜ?」
男は、ねっとりとした舌舐めずりをしながら、再びユニの方へと視線を送った。その目には、下卑た欲望の色が浮かんでいる。
「別に、そこの女をこっちに差し出せば、それで借金はチャラにしてやってもいいぜ。その女なら、俺たちの下で十分稼いでくれそうだしなぁ。」
男が下品な声で笑うと、それに釣られるように、周りにいた他の男たちも、いやらしい笑みを浮かべた。
その一連の卑劣なやり取りを黙って見ていたマリアだったが、もはや我慢の限界だった。彼女は、毅然とした態度でクリスと男たちの間に割って入った。
「ちょっと、そこのあんたたち。先程から黙って聞いていれば、まるで蛆虫のようなあなたたちが、随分と汚らしく、聞き苦しいことを喚いているようだな。」
「なんだぁ、お嬢ちゃん? お前には関係ねえだろ。それとも…。」
男はマリアの美しい容姿に気づくと、品定めするように、いやらしい目で彼女の頭の先からつま先までを、ねっとりと舐めるように見た。
「お前が代わりに働いてくれるってのか? そっちの方が、よっぽど稼げそうだな、ひひひ。」
「気持ちの悪いことを言うんじゃない、ドブネズミ共。死にたくなければ、さっさとその汚いツラを隠して帰るんだな。」
マリアは腰に下げていた細剣を抜き放つと、優雅な動作で構えた。その剣先は、寸分の狂いもなく、リーダー格の男の喉元に向けられている。その全身から放たれる、ただならぬ気迫に、男たちは一瞬怯んだ。
「ちっ、まあいい。おい、クリス、明日まで返事は待ってやる! しっかりと頭を冷やして、よーく考えるんだな!」
男たちは、捨て台詞を残すと、そそくさとその場を立ち去っていった。
マリアは男たちの姿が完全に見えなくなるまで油断なく見送ると、剣を鞘に納め、改めてクリスの方へと向き直った。
「お前、詳しい事情は知らないが、随分と厄介な奴らからお金を借りてしまったようだな。」
「…助けてくれたことには礼を言う。だが、君のようなお嬢さんが関わっていい話じゃない。ユニ、行こう。」
クリスはぶっきらぼうにそれだけ言うと、すぐに立ち上がり、マリアに軽く頭を下げると、ユニの手を取って足早にその場から去っていった。
「まあ、なんですの、あの方。あまりにも失礼極まりない態度ですわね。」
マリアは納得がいかないといった表情で、憮然としながら二人の後ろ姿を見送った。
――――――
翌日。
生徒会の仕事で忙しいというシュオとは、結局、避暑地へ出かけることはおろか、まともに顔を合わせることすらできず、マリアはまたしても一人で、所在なく市場をブラブラと歩いていた。
夏向けの涼しげなアイテムが並ぶ店の前を通りかかるたびに、マリアは知らず知らずのうちに深いため息をつく。
(ああ、シュオ様と一緒に、どこか景色の良い避暑地で、二人きりの甘い時間を過ごしたかったですわ…。)
そんなことを考えながら、あてもなくフラフラと歩いていると、いつの間にか賑やかな市場を抜け、静かな住宅街の一角へと迷い込んでいた。
そういえば、この辺りはあまり来たことがなかったな、と思いながら、見慣れない街並みを興味深そうに眺めていると、先日見かけた若い女性――ユニが、息を切らしながらこちらへ向かって走ってくるのが見えた。その表情は、ひどく切羽詰まっている。
(あれは…確か、この前クリスという男性と一緒にいた方…。一体どうかなさいましたの…?)
全力で走ってくるユニは、マリアの姿を見かけると、目の前で急ブレーキをかけるように立ち止まり、そのままマリアの肩に必死に掴みかかってきた。その美しい瞳には、大粒の涙がみるみるうちに溜まっていく。
「お願い! どうか助けてください! このままじゃ、クリスが…クリスが殺されてしまうわ…!」
ユニは、今にも泣き崩れそうな、必死の形相でマリアに懇願してきたのだった。
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