第50話 悪夢の始まり
薄暗い照明が、だだっ広い石造りの部屋をぼんやりと照らし出す。
ひんやりとした空気が漂い、カビ臭さと薬品のツンとした匂いが混じり合っていた。
シュオはアイスとキュアと共に、部屋の中央に吊り下げられた影を見上げていた。
それは、かつて死闘を繰り広げた魔族の、グロテスクな亡骸だった。
その異様な光景は、見る者に言い知れぬ圧迫感を与える。
「あれはひょっとして…?」
シュオが、不安げに尋ねた。
アイスが、その逞しい腕を組みながら答える。
「そうだ。以前の対抗戦で君たちが討伐した魔族、ゲルトの死骸だ。今回は、キュア主任の研究のために特別に回収しておいた。」
キュアは手にした資料から顔を上げ、シュオが持つ柄頭に宝玉がはめ込まれた剣を指差した。その瞳には、研究者特有の強い探究心が宿っている。
「シュオ君、今日はその剣の性能を試させてもらいたいの。あの魔族の強靭な体皮が、本当に切れるかどうかを、この目で確認したい。」
「僕の力で、ですか?」
シュオは戸惑いを隠せない。自分は騎士でもなければ、特別な訓練を受けた戦士でもない。ごく普通の学生だ。
「ええ」とキュアは静かに、しかし確信に満ちた声で頷く。
「あなたは一般人に限りなく近い存在。特別な戦闘技能を持たないあなたでも、あの魔族の強靭な外皮を切断できるのなら、この剣は対魔獣兵器として画期的なものになる可能性があります。熟練の兵士たちが扱えば、より効率的に、そして安全に魔獣と渡り合えるようになるはず。これは、私たちの研究にとって、そしてこの国の防衛にとって、非常に重要なデータになるのです。」
アイスも力強く頷き、シュオの肩を軽く叩いた。
「そうだ。一般人の君でも魔族を切ることができるのなら、きっと鍛えられた兵士ならば、まともに戦うことができるだろう。これはすごい研究の成果になるはずだ。」
二人の真剣な眼差しと、部屋に漂う期待の重圧を感じ、シュオはごくりと唾を飲み込んだ。
確かに、もしこの剣が本当に、シュオのような非力な者でも魔族を斬れるほどの性能を秘めているのなら、それはまさに希望の光だ。
多くの兵士たちが、魔獣の圧倒的な暴力の前に命を散らす悲劇を、少しでも減らせるかもしれない。
シュオは微かな使命感と、それ以上に大きな緊張感を胸に、こくりと頷いた。
「…分かりました。やってみます。」
シュオはゆっくりとゲルトの死骸へと歩み寄り、剣を両手でしっかりと構えた。
その体は、まるで次の瞬間にも動き出し、攻撃してくるのではないかという生々しい錯覚を覚えさせる。
シュオはごくりと唾を飲み込み、剣を握る手にぐっと力を込めた。
手のひらにじっとりと冷たい汗が滲むのが分かった。深呼吸を一つ。
「ふぅ……っ!」
短く、しかし深く息を吐き出し、覚悟を決める。
シュオは床を強く蹴り、吊り下げられたゲルトの死骸に向かって真っ直ぐに走り出した。
全身のバネを解放するようにして、手に持った剣を横薙ぎに、ありったけの力を込めて叩きつけた。
その瞬間、剣の柄頭にはめ込まれた宝玉が、まるで呼吸をするかのように淡く、しかし力強い光を放った。
シュオ自身も意識していない、彼の中に眠る微細な魔力が、宝玉によって敏感に感知され、瞬時に増幅される。そして、その凝縮されたエネルギーは、白刃の先端へと奔流のように流れ込んだのだ。
シャァァァッ!
乾いた、それでいて肉を断ち切る生々しい音が、静まり返った実験室に鋭く響き渡った。
剣は、見事と言うほかない切れ味で、分厚く硬質であるはずのゲルトの体皮を、その下にある強靭な筋肉組織ごと容易く切り裂いた。
断面は驚くほど滑らかで、そこからは腐臭混じりのどす黒い体液がじわりと滲み出し、床にぽたぽたと滴り落ち始めた。
「よし、成功だ!」
アイスが安堵と興奮の入り混じった声を上げる。
「素晴らしい切れ味ですわ!」
キュアも研究者としての知的好奇心を隠せない様子で声を弾ませ、手にした資料に素早くデータを記録していく。
「シュオ君、以前の戦いで多少は慣れているのかもしれないが、君はもしかしたら剣術の才能があるんじゃないか?」
アイスの賞賛の言葉に、シュオは少し顔を赤らめ、照れたように頭を掻いた。
「いえ、この武器がすごいだけですよ。キュア主任の研究の成果です。これなら……これならきっと、あの忌まわしい魔獣だって、いつか必ず倒すことができるかもしれません。」
シュオは決意を新たにするように剣を握り直した。そして、賞賛の声を向けてくれた二人の方へ振り向こうとした、その時だった。
視界の端で、何かが、ほんの僅かに動いたような気がした。
シュオはハッとして、反射的に切り裂かれたゲルトの死骸に目を戻す。
気のせいだろうか。
いや、違う。
風など一切吹き込んでいないこの密閉された実験室で、吊り下げられたゲルトの体がピクリと、本当にごく微かに、しかし確実に動いたのだ。
それは、まるで死骸が自らの意思を持って動いたかのように、不気味な生命感を感じさせた。
背筋にぞわりと冷たいものが走り、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
『まずいぞ、シュオ。あれは……2つ目の心臓が動き出そうとしている。』
突如、シュオの頭の中に直接響いてくる、冷静だが緊迫した声。
シュオの内に宿る、もう一人の存在であるラムジュの声だ。その声には、いつになく焦燥の色が濃く滲んでいた。
「ラムジュ? 2つ目の心臓って、一体どういうこと?」
シュオは内心で必死に問いかける。状況が全く飲み込めない。目の前で起きた現象が信じられなかった。
『人間は、魔族が2つの心臓を持っていることを知らないのか。まあ、無理もないか。だが、今はそんな説明をしている場合じゃない。そいつはまだ生きているぞ。』
生きている? あの、確かにラムジュが倒した魔族が?
シュオは反射的にアイスとキュアの元へ駆け寄ろうとした。一刻も早く警告しなければ。この場にいる全員が危険だ。
しかし、シュオが行動を起こすよりも早く、ゲルトの死骸が、先ほどとは比較にならないほど大きく、そして激しく動き出した。
「アイスさん! キュア主任! 危ない! その魔族は生きてます! 早くそこから離れてください!」
シュオの絶叫が、静寂を破って実験室に響き渡る。
「なんだと!? 馬鹿な、魔族の心臓は確かにこの手で潰してあるんだぞ!」
アイスは信じられないといった表情で魔獣を見上げる。その顔からは先程までの冷静さが消え、騎士としての困惑と、純粋な恐怖が浮かんでいた。
「なんですって!? そんな……記録上、バイタルは完全に消失していたはず……!」
キュアも蒼白な顔で目を見開いている。研究者としての常識が覆される事態に、思考が追いつかない様子だ。
「ラムジュが言うには、魔族には心臓が2つあるらしいんです! 僕たちが破壊したのは一つ目だけで、もう一つが、今まさに動き出したんだ!」
シュオの必死の言葉を裏付けるかのように、ゲルトは、両腕で自身を吊るしていた極太の鎖を掴むと、まるで細い糸を引きちぎるかのように、凄まじい力で強引に引きちぎった。
バチンッ!バチンッ!と金属が断ち切れる甲高く耳障りな音が連続して響き渡り、激しい火花が周囲に飛び散る。
そして、その体が重力に従って床にドスンッ!と落下した。
壁際に控えていた他の研究員たちの悲鳴が上がり、我先にと狭い出口へと殺到しようとする。
「落ち着け! 全員落ち着いて、すぐにこの部屋から出るんだ! 急げ!」
アイスが怒号に近い声で指示を飛ばし、パニックに陥った研究員たちを避難させようと奔走する。
しかし、蘇った魔族の異様な姿と、それが放つ得体の知れないプレッシャーに、誰もが恐怖で足がすくみ、思うように動けないでいた。
「ラムジュ、これって……かなり、やばい状況だよね……?」
シュオの声は恐怖で震え、上ずっていた。目の前で起きていることは、もはや悪夢という言葉ですら生ぬるい、現実離れした光景だった。
『ああ、そうだ。やばいどころの話じゃない。2つ目の心臓が完全に覚醒した。ただ蘇っただけじゃない……よく見ろ、あれは、更なる魔族へと進化するぞ。』
ラムジュの声は、かつてないほど重々しく、そして険しかった。
「嘘でしょ!? あの、ただでさえ手に負えなかった魔族が……さらに強力な魔族に!? 対抗戦で戦った、あの絶望的な力を持ったゲルト以上になるっていうの!?」
シュオの脳裏に、以前、学園対抗戦の場で突如として現れ、彼らを恐怖のどん底に突き落としたゲルトの、圧倒的なまでの戦闘能力と、その身に纏う絶望的なまでの強さが鮮明に蘇る。あの悪夢が、再び繰り返されるというのか。
ゆっくりとだが動き出すゲルトの体にシュオは恐怖を覚えていた。
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