第28話 魔獣、再来
翌日、学院の授業が終わるとシュオは足早にエア・グリニスの研究室へと向かった。
昨日、ヨーカス兄さんとの洞窟探索で味わった屈辱と、その後に現れた謎の声「ラムジュ」との奇妙な対話。
それらがシュオの頭の中でぐるぐると渦巻き、一睡もできなかった。
(ラムジュ…...本当に僕の中にいるんだろうか…。)
昨夜あれだけはっきりと聞こえたラムジュの声は、それ以来一度も聞こえてこない。
まるで悪夢だったかのように静かだ。もしかしたら、あの声は疲れ切った自分が見た幻覚だったのかもしれない。
(でも、もし本当だとしたら…)
エア先生に相談しなければ。この異常な事態を、専門家である彼女なら解明してくれるかもしれない。そんな一縷の望みを抱きながら、シュオは研究室の扉をノックした。
「はーい、どうぞー。」
中から聞こえてきたのは、いつもの少し間の抜けた声。扉を開けると、そこには予想通りの光景が広がっていた。
白衣は着ているものの、その下に着ているシャツのボタンはいくつか外れ、髪はボサボサ。机の上には用途不明な魔導具や薬品の瓶が散乱し、床には読みかけの難解そうな魔導書が積み重なっている。エアは椅子に深く腰掛け、何かの液体が入ったフラスコを怪しげに振り混ぜていた。
「あら、シュオ君。時間通りね。さ、今日も私の可愛いペット…じゃなくて、貴重な研究対象になってもらおうかしら。」
エアは振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あ、あの、先生。今日は検査の前に、ちょっとご相談したいことがあるんですけど…」
シュオは意を決して切り出した。
「ん? 相談? 改まっちゃって、どうしたの?」
エアはフラスコを置くと、興味深そうにシュオを見た。シュオが自ら何かを相談してくるのは珍しい。
シュオはごくりと唾を飲み込むと、昨日起こった出来事を順を追って話し始めた。
ヨーカス兄さんとの洞窟探索での失敗、自分の不甲斐なさへの自己嫌悪、そして、自室に戻った後、頭の中に響いてきた「ラムジュ」と名乗る謎の声との対話。
最初は「あらあら、大変だったわねぇ」と相槌を打ちながら面白そうに聞いていたエアだったが、シュオがラムジュの声について語り始めると、徐々にその表情が険しくなっていった。
シュオが話し終える頃には、彼女の顔からはいつものふざけた笑みは消え、真剣な、研究者としての鋭い眼差しに変わっていた。
「…シュオ君。」
エアは重々しく口を開いた。
「それって…かなり、難しい問題かもしれないわね。」
「難しい問題って…どういうことですか?」
シュオは不安げに尋ねる。
「正直に言うわね。シュオ君が聞いたという『ラムジュ』の声…それはもしかしたら、シュオ君自身の精神が不安定になっているせいで、無意識のうちに作り出してしまった…いわゆる『別人格』のようなものである可能性も否定できないのよ。」
「そ、そんな…!」
シュオは愕然とした。ラムジュの声は幻聴や別人格などではなく、確かに存在する別の魂だと信じたかった。
「だって、それなら、僕の記憶がない三ヶ月間に起こったことはどう説明するんですか? 僕が使ったっていう雷や炎の強力な魔法は…?」
「そこなのよ、難しいのは。」
エアは腕を組み、眉間に皺を寄せた。
「複数の人間…カイル君やリーザさん、それに生徒会長のガイア君までが、君の異常な力や振る舞いを証言している。集団催眠なんていうオカルトじみた話でもなさそうだし、実際に学院の壁が破壊されたという物的証拠もある。君自身の体に残るあの魔獣との戦いで負ったとされる傷も説明がつかない。」
エアは椅子の上で唸りながら考え込み始めた。
「君の精神が生み出した幻の人格が君自身の潜在能力を一時的に引き出した…なんていう可能性もなくはないけれど、属性の違う複数の高位魔法を行使するなんて、常識では考えられないわ。ましてやあの魔獣を倒したという『竜の力』とやらは、第四世界のどの魔術体系にも存在しない、全く未知の力よ。」
「ですよね!? だから、僕の中に本当にラムジュっていう別の魂がいるんじゃないかって…。」
シュオが訴えると、エアは再び難しい顔で首を捻った。
「うーん…魂の入れ替わりが起こったとして、元の魂…つまり君が戻ってきた時点で、入れ替わっていた魂は通常、元の体に戻るか、あるいは完全に消滅すると考えられているの。君のように一つの体に二つの魂が同居しているような状態は、古代の文献にもほとんど記述がない、極めて稀な、というか、理論上ありえない現象なのよ。」
エアはまるで難解なパズルを解くかのように、様々な可能性を頭の中で巡らせているようだった。
「…ねえ、シュオ君。君、実は自分でも気づいていないだけで、とんでもない魔術の才能を隠し持っていたりしない 例えば、先祖返りとか、古代の血筋がどうとかで…。」
エアが半ば冗談めかして尋ねてきた。
「そんなの持ってたら落ちこぼれなんて言われてませんよ…」
シュオは自嘲気味に答え、少し恥ずかしくなった。
「…よし、分かったわ。」
エアは何かを決意したように椅子から立ち上がった。
「こうなったらもう一度徹底的に君の中の魔力の流れを調べてみましょう。何か異常が見つかるかもしれない。」
エアは研究室の奥から、以前シュオを検査した時にも使った、複数の金属製のパッドがついた機械を引っ張り出してきた。これは対象者の体内に流れる魔力の波形を測定する装置だ。
通常、覚醒している魔術属性に応じて、特有の波形が一つだけ観測される。
その波形の大きさや安定度から魔力量やコンディションを測るのがこの機械の本来の使い方だ。
「さ、服を脱いで、そこに横になって。」
エアに促され、シュオは少し恥ずかしがりながらもシャツを脱ぎ、研究室の中央にある簡易ベッドに横たわった。エアは手際よく、シュオの額、胸、腹、そして両腕に、ひんやりとした金属製のパッドを取り付けていく。
「準備完了。じゃあ、始めるわよ。」
エアは機械のコンソールを操作しスイッチを入れた。ブゥン、という低い機械音と共に、シュオの体に微弱な電気が流れる感覚があった。これが魔力と共鳴し、波形として計測されるらしい。
計測が始まって、すぐのことだった。
「おおっ!?」
エアが驚きの声を上げた。コンソールに表示された波形グラフを見て目を丸くしている。
「ど、どうしたんですか、先生!?」
シュオは、不安になって尋ねた。
「し、シュオ君! これを見て! 君の体の中から、魔力の波形が…二つ、観測されているわ!」
エアは興奮と驚きが入り混じった声で叫んだ。モニターには確かにシュオ本来の水属性を示す青い波形とは別に、もう一つ、これまで見たこともないような、力強く、しかし不安定に揺らぐ、禍々しい赤黒い波形が表示されていたのだ。
「そ、そんな馬鹿な…!」
シュオも信じられないという顔でモニターを見た。これまで何度もこの検査を受けてきたが、こんな結果が出たことは一度もなかった。
「今まで何度測っても波形は一つだけだったのに…どうして急に…!? まさか、本当に君の中にもう一つの魂が…!? しかもこの赤黒い波形…これは一体何の属性なの!? こんな波形、見たことも聞いたこともないわ!」
エアは研究者としての好奇心を爆発させ、モニターに食い入るように波形を分析し始めた。
その時だった。
『…なんだ、これは? やけに体がビリビリするじゃないか。』
再びシュオの頭の中に、あのラムジュの声が響いた。
「あ! 先生! 今、話しかけられてます!」
シュオは思わず叫んだ。
『おい、シュオ。お前、俺の体に何を取り付けているんだ? この妙な感覚は何だ?』
ラムジュの声は、明らかに不快そうだった。
「君の存在を確かめるためにエア先生が検査してるんだよ! それより、今まで話しかけてこなかったのに急にどうしたの?」
シュオは頭の中でラムジュに問いかける。
「シュオ君!? 今、誰と話しているの!? その『ラムジュ』とやらかしら!?」
シュオの様子を見てエアはさらに興奮し、目を輝かせている。
『どうもこの暗闇の状態だと外部からの強い魔力干渉がない限り、お前の意識に干渉するのが難しいらしい。このビリビリする機械のおかげで、ようやく声が届くようになったというわけだ。…だが、あまり気分のいいものではないな。』
ラムジュは忌々しげに答えた。
「そうなんだ…。じゃあ、これからどうすればいいんだろうね。何か、君と安定して話せる方法を見つけないと…。」
シュオが呟くと、『それが分かれば苦労はしない。』と、ラムジュはぶっきらぼうに返した。
「シュオ君! 聞こえているなら答えて! そのラムジュは今どこにいるの!? 君の意識の中なの!? どんな姿をしているの!?」
エアが、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
「あ、えっと、それは…。」
シュオがエアに説明しようとした、まさにその時だった。
ドゴォォォォンッ!!!
突然、研究室の外、それも学院の敷地内のかなり近い場所から、巨大な爆発音が響き渡った。建物全体がビリビリと震え、窓ガラスがガタガタと音を立てる。
『―――緊急警報。緊急警報。現在、学院敷地内に所属不明の大型モンスターが侵入。全生徒及び教職員は、直ちに校舎内に避難し、許可なく屋外へ出ることを禁ずる。繰り返す―――』
間髪入れずに学院内に設置された魔導機からの緊急放送が流れ始めた。切迫した声が、ただならぬ事態が起こっていることを告げている。
『…この魔力…間違いない。この間俺が叩き潰した奴と同種の、あるいはそれ以上の力を持つ魔獣だ。』
ラムジュの声がシュオの頭の中で冷静に告げた。その声にはわずかな警戒の色が混じっている。
「そ、それって…! すごく、やばい奴なんじゃ…。」
シュオの声が震える。
『普通の人間にとってはな。本来の力が使える俺ならあれぐらい余裕だが、今の状態では手も足も出ないな。』
ラムジュは傲慢に言い放った。
『おい、シュオ。ぐずぐずしている暇はない。状況を確認しに行くぞ。』
「い、嫌だよ! 放送でも危ないって言ってたじゃないか! 僕が行ったって、何もできないよ!」
シュオは、昨日の恐怖が蘇り、首を横に振った。
『馬鹿を言うな。このままでは、お前の大事な友達や、あのやかましいメイド、無愛想な兄貴どもも、皆殺しにされるかもしれんのだぞ? 魔獣は、普通の人間や騎士団程度では絶対に勝てん相手だ。それを止められるのは、今、この世界では…おそらく、俺だけだ。』
ラムジュの言葉は重い真実を突きつけてきた。カイル、リーザ、家族、そして学院の人々…。彼らが危険に晒されている。そう思うと、シュオの心臓が大きく脈打った。
「……分かったよ。でも見るだけだからね! 戦うなんて絶対に無理だから!」
シュオは、恐怖を振り払うように叫んだ。
「いくら魔獣だって、ちゃんと王国の騎士団が来てくれれば、きっと大丈夫なはずだし…!」
シュオは自分に言い聞かせるように言うと、体に取り付けられていた計測用の機械を乱暴に引き剥がし、ベッドから飛び降りた。
「ちょ、シュオ君!? どこへ行くの!? 危ないわよ!」
エアの制止の声も聞かず、シュオは研究室の扉を開け、爆発音が聞こえた方角へと走り出した。頭の中ではラムジュの「それでいい」という、どこか満足げな声が響いていた。
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