第27話 ラムジュ、目覚める
洞窟の入り口に吐き出されたとき、空は既に夕暮れの茜色に染まり始めていた。
ゴブリン退治の依頼自体は、ヨーカスたちの手にかかればあっという間に終わった。
洞窟の最深部にいたリーダー格のホブゴブリンも、アルグの豪快な一撃とヨーカスの鋭い剣技、そしてイドネスとフィエリッテの連携の前に、なす術なく討伐された。
問題は、シュオ自身だった。
結局、最初の戦闘で恐怖に竦んで以来、シュオは一度も剣を振るうことができなかった。
ただ、仲間たちの後ろをついて歩き、彼らの戦いを呆然と見守るだけ。
時折、フィエリッテが心配そうに声をかけてくれたが、それすらも今のシュオには、自分の不甲斐なさを突きつけられているようで辛かった。
「…お疲れ様でした。」
洞窟を出て他のメンバーに別れを告げる際も、シュオの声はか細く、俯いたままだった。
アルグは「まあ、次は頑張れや、シュオ坊。」と励ますように背中を叩いてくれたが、イドネスは何も言わず、ヨーカスはただ黙ってシュオを見つめていた。その視線が、痛いほど突き刺さる。
帰り道、ヨーカスは何も言わなかった。
それがかえってシュオを追い詰めた。
叱責された方が、まだましだったかもしれない。
兄の無言は、弟への深い失望を表しているように思えてならなかった。
セーレン家の屋敷が見えてくると、シュオはもはや限界だった。
ヨーカスに一言「お先に失礼します」と告げるや否や、玄関を駆け抜け、一目散に自室へと飛び込んだ。
バタン、と乱暴に扉を閉めると、そのままベッドに倒れ込み、顔を枕に強く押し付けた。
「…う…っく…ひっく…。」
抑えきれない嗚咽が漏れ、熱い涙が枕を濡らしていく。
悔しい。
情けない。
エシュ先生との地獄のような特訓を二週間も続けて、確かに体は少し強くなったはずだった。
剣の扱いだって、以前とは比べ物にならないくらい上達したはずだった。
なのに、いざ本物のモンスターを前にしたら、何もできなかった。恐怖で体が動かなかった。
(やっぱり、僕はダメなんだ…。いくら頑張ったって、臆病な性格は変わらないんだ…。強くなるなんて、僕には無理なんだ…!)
自己嫌悪の波が押し寄せ、シュオは枕の中で声を殺して泣き続けた。
もう何もかもが嫌になって、このまま眠ってしまいたい、そう思った。
『――おい。』
その時、不意に、頭の中に直接響くような、低い声が聞こえた。
(…え?)
シュオは泣きじゃくるのをぴたりと止め、顔を上げた。部屋には自分以外、誰もいないはずだ。空耳だろうか?
『おい、聞こえているんだろう。いつまでメソメソしているつもりだ。』
再び同じ声が響いた。今度ははっきりと聞こえた。それは、自分の頭の中から聞こえてくるような、奇妙な感覚だった。
「だ、誰!? どこにいるの!?」
シュオは慌ててベッドから起き上がり、部屋の中を見渡した。しかし、やはり誰もいない。
クローゼットの中も、ベッドの下も確認したが、人影は見当たらない。
『だから、お前の中だよ。落ち着け。』
声は少し呆れたような響きを帯びていた。
「僕の中って…そんな、馬鹿な…! 何を言ってるんだよ…!」
得体の知れない声に、シュオは恐怖を感じ始めた。これは幻聴なのか? それとも、何かの呪いにかかってしまったのだろうか?
『ふーん…お前が、シュオ・セーレンか。話には聞いていたが…想像以上に情けない奴だな。』
声はまるでシュオを観察するように言った。その言葉には、侮蔑の色が隠されていない。
「そ、そんな酷いこと言わないでよ!」
シュオは恐怖よりも怒りがこみ上げてきて、思わず叫び返した。
『はは、悪い悪い。だが、事実だろう? せっかく少しは体が鍛えられていたというのに、あの程度のゴブリン相手に腰を抜かすとはな。俺が使っていた頃の体よりせっかく鍛え上げられているのに、戦闘の経験はまだ雲泥の差だな。』
声は悪びれもせず、さらにシュオを苛立たせるようなことを言った。
「…前の体って…もしかして…君が、僕の記憶がなかった三ヶ月間の…『犯人』なの?」
シュオは恐る恐る尋ねた。エア先生の仮説、魂の入れ替わり。
もしそれが本当なら、今、自分に話しかけているこの声の主こそが、あの傲慢で強かった「もう一人の自分」なのかもしれない。
『犯人とは心外だな。俺だって望んでお前の体に入ったわけじゃない。気がついたら、見知らぬ世界で、見知らぬひ弱な小僧の体になっていただけだ。』
声は不機嫌そうに反論した。
(やっぱり、エア先生の言っていたことは本当だったんだ…。)
シュオは確信した。魂の入れ替わりは、実際に起こっていたのだ。
しかし疑問が残る。エア先生は、元の魂が戻れば、入れ替わっていた魂は消えるか、元の場所に戻るはずだと言っていた。
「で、でも…なんで今になって僕に話しかけてきたの? 僕が目を覚ました時に、君は消えたんじゃなかったの?」
シュオは混乱しながらも問いかけた。
『俺にもよく分からん。第五世界の魔獣を倒した後、急激な疲労感と共に意識が途絶えた。そして、次に気がついたら…この、何も見えない、何も感じない、ただ暗いだけの空間にいた。まるで、魂だけの存在になったような感覚だ。そこから必死にお前の意識に呼びかけて、ようやく今、こうして話せるようになったというわけだ。』
声の主も自身の置かれた状況を完全には理解していないようだった。
(つまり…僕と入れ替わっていた魂は、消えずに、僕の意識の奥底みたいな場所に閉じ込められてる…ってこと?)
シュオは背筋が寒くなるのを感じた。一つの体に、二つの魂が存在する。そんな異常な状態が、今の自分に起こっている。
「…訳が分からないよ…」
シュオは頭を抱えた。あまりにも現実離れした状況に、思考が追いつかない。
「…とりあえず、君の名前を教えてくれないかな。そうじゃないと話しづらいよ。」
混乱しながらも、シュオは最低限のコミュニケーションを取ろうとした。
『…ラムジュ。それが俺の名だ。』
声は、少し間を置いて、重々しく答えた。
「ラムジュ…」
シュオはその名前を口の中で繰り返した。聞いたことのない名前だ。
少なくとも、第四世界の歴史や神話には登場しないはずだ。
(ラムジュ…一体、何者なんだろう…?)
分からないことだらけだ。
彼が何者で、なぜ自分の体に入り込み、そしてなぜ今、自分の意識の中に存在するのか。
聞きたいことは山ほどあったが、今日の出来事で心身ともに疲れ果てていた。
「…ごめん、ラムジュ。今日はもう疲れたから、寝てもいいかな。話の続きは、また今度にしたい。」
シュオは正直な気持ちを伝えた。
『…ふん。まあ、いいだろう。今の俺には、お前の許可なく何かをすることもできんようだしな。ゆっくり休め…だが、覚えておけ、シュオ。お前がこのまま弱い臆病者でいる限り、いずれまた、俺がお前の体の主導権を握ることになるかもしれんぞ。』
ラムジュは最後に不穏な言葉を残すと、すっとその気配を消した。シュオの頭の中から、声は聞こえなくなった。
(僕の中に…ラムジュがいる…。)
シュオは改めてその事実を噛み締めた。
それは恐ろしいことであると同時に、ほんの少しだけ、心強いような気もした。
あの圧倒的な強さを持つ存在が、完全に消えたわけではないのだから。
(…明日、エア先生に相談してみよう。)
この異常な事態を、自分一人で抱え込むのは無理だ。
魔術と魂の専門家であるエア先生なら、何か解決策を知っているかもしれない。
シュオは、重い体を引きずるようにベッドから起き上がると、着替えを手に取り、再び浴室へと向かった。
今日の出来事と、ラムジュと名乗る謎の声のことを考えながら、熱い湯に浸かり、疲れた心と体を少しでも休めようとした。
明日はまた新しい一日が始まる。そしてシュオ・セーレンの、ラムジュという同居人との奇妙な共同生活が、幕を開けようとしていた。
Xは以下のアカウントでやっています。
フォローお願いします。
@aoi_kamiya0417
感想もお待ちしています。




