第1話 王子、転生する
どれほどの時が流れたのだろうか。
ふと、ラムジュは意識を取り戻した。
最初に感じたのは、柔らかな感触と、微かな温かさだった。そして、ゆっくりと目を開けると、そこには見たこともない光景が広がっていた。
(…ここは…どこだ…?)
目に映ったのは、精巧な彫刻が施された、豪奢な天蓋。
白い絹のような布地が優雅な曲線を描いている。戦場の土埃と血の匂いではなく、清潔で、どこか甘い香りが鼻腔をくすぐった。
(何が…あった…?)
ラムジュは必死に記憶を辿ろうとした。
そうだ、俺はマルキエルと戦っていた。守護騎士団の団長…天使族の…奴に、左腕を切り落とされ…そして、とどめを刺されそうになった…はずだ。
マルキエルが剣を振り上げた、あの瞬間までの記憶は鮮明にある。だが、その後の記憶が、まるで霧がかかったように思い出せない。
「そうだ! ヨーギ! ヨーギはどこだ!」
ラムジュは部屋の中を見回すも部屋には誰もいなかった。
「俺1人か...天使に捕縛でもされたのか...?」
ひとまず周囲の状況を確認しようと体を起こそうとする。そこで違和感に気づいた。
(妙に…体が軽い…?)
戦いで負ったはずの無数の傷の痛みも、左腕を失った激痛も感じない。
それどころか、長年鍛え上げてきた屈強な肉体とは違う、奇妙な軽さと、ある種の脆弱さのようなものを感じた。
ラムジュはその妙に軽い体をゆっくりと起こした。
自分が寝かされていたのは、見たこともないほど豪華で、ふかふかとした手触りの大きなベッドの上だと気づく。
周囲を見渡せば、そこは広々とした部屋で、磨き上げられた木製の家具や、美しい装飾品が並んでいた。
壁には見慣れない絵画が飾られ、窓の外には青い空が広がっている。戦場の殺伐とした風景とは、あまりにもかけ離れた、平和で、豊かな空間だった。
(ここは…天国、というやつか…? いや、天使どもに殺された俺が、そんな場所に行けるはずがない…)
通常天使に殺された者はその罪の重さによって魂の行き場所が変わる。
ラムジュほど天使を切り倒した者の魂は天獄と呼ばれる魂の牢獄に閉じ込められるはずだ。
天国になど行けるはずもない。
混乱したまま、ラムジュはベッドから降り、ふらつく足取りで部屋の中を歩いた。
そして、部屋の隅に置かれた、大きな姿見の前で足を止めた。
等身大の自分の姿を映し出す、豪奢な装飾が施された鏡。
ラムジュは、何気なくその鏡を覗き込んだ。
そして―――絶句した。
鏡に映っていたのは、ラムジュ自身ではなかった。
そこに立っていたのは、見知らぬ人間の少年だった。
歳は16か、17くらいだろうか。燃えるような赤い瞳ではなく、平凡な茶色の瞳。日に焼けた褐色の肌ではなく、病的なまでに白い肌。
何よりも違うのは、その体格だ。長年の鍛錬によって鋼のように鍛え上げられたラムジュの肉体とは似ても似つかない、筋肉の全くついていない、細く華奢な体。まるで、風が吹けば折れてしまいそうなほど頼りない姿だった。
「な……んだ、これは……俺は……誰だ……?」
ラムジュは、鏡の中の少年の姿に、自分の声が重なって聞こえることに気づき、さらに混乱した。
鏡の中の少年が、ラムジュと同じように、驚愕と困惑の表情を浮かべている。
そして、彼は気づいた。
鏡の中の少年――いや、自分自身の体には、切り落とされたはずの左腕が、何事もなかったかのように、ちゃんと付いていることに。
見慣れない顔。
見たこともない体。
失われたはずの左腕。
失われた記憶。
「……………」
ラムジュは、言葉を失い、ただ呆然と鏡の中の自分を見つめることしかできなかった。
ここはどこで、今はいつなのか?
思考は混乱し、答えの見えない問いだけが頭の中を駆け巡る。
コンコン。
その時、部屋の扉が控えめにノックされた。
反射的に身構えるラムジュ。戦場での経験が、不意の物音に対する警戒心を呼び覚ます。しかし、今のこの体ではかつてのような力は出せない。ましてや武器もない。
「…誰だ?」
ラムジュはできるだけ落ち着きを装い、低い声で問いかけた。声質もかつての自分のものとは違う、どこか頼りない響きを持っていることに、改めて苛立ちを覚える。
「失礼いたします、シュオ様!」
返事と共に、勢いよく扉が開かれ、一人の若い女性が慌てた様子で部屋に入ってきた。
歳は二十歳前後だろうか。黒いワンピースに白いエプロンという、ラムジュが見たこともない服装を身に着けている。
その女性はラムジュの姿を認めると、信じられないものを見るかのように目を見開き、次の瞬間には安堵と喜びがない交ぜになった表情で駆け寄ってきた。
「シュオ様! お、お目覚めになられたのですね! ああ、本当によかった…!」
女性は、ラムジュの手を握りしめ、感極まった様子で高い声を上げた。
「シュオ」という全く聞き覚えのない名前で呼ばれたことに、ラムジュは眉をひそめた。
しかしそれ以上に驚いたのは、この女性が話す言葉を自分が何不自由なく理解できているという事実だった。まるで、元から知っていた言語であるかのように。
「…ちょっと待て。」
ラムジュは、女性の手を振り払い、後ずさった。
「シュオとは誰のことだ? そして、お前は誰だ? ここはどこで、俺は…俺は一体、誰なんだ?」
ラムジュの鋭い問いかけに、女性は戸惑いの表情を浮かべた。潤んだ瞳でラムジュの顔をじっと見つめ、まるで信じられない言葉を聞いたかのように首を傾げる。
「シュオ様…? 何をおっしゃっているのですか? ご冗談でしょう…?」
「冗談じゃない!」
ラムジュは語気を強めた。
「俺は自分が誰なのか分からない。ここはどこだ? そして、俺の名は何だ!」
ラムジュの今までとは明らかに違う鋭い眼光と威圧的な声の響きに、女性はびくりと肩を震わせた。
目の前にいるのは確かにシュオ様のはずなのに、まるで別人のようだ。
その変化に怯えながらも、彼女は震える声でラムジュの問いに答えた。
「あ、あなた様は…シュオ・セーレン様です。このベロニア王国における第四貴族、セーレン家の三男であらせられます。そして、この場所は、セーレン家の屋敷にある、シュオ様ご自身の部屋でございます…」
シュオ・セーレン。ベロニア。第四貴族。セーレン家。
ラムジュにとってそのどれもが全く聞き覚えのない単語だった。第三世界には存在しない国名、家名、そして身分。ラムジュの混乱は深まるばかりだった。
「…ベロニア…セーレン家…? 全く、何も分からん…」
ラムジュは頭を抱え、苦悩の表情を浮かべた。
その様子を見て、女性ははっと息を呑み口元に手を当てた。その顔には、先ほどの安堵とは違う、深刻な不安の色が浮かんでいた。
「ま、まさか…シュオ様…記憶を…失っておられるのですか…?」
女性は恐る恐るラムジュに問いかける。
その言葉にラムジュは一つの可能性に行き当たった。
記憶がないわけではない。マルキエルに敗れるまでの記憶は確かにある。
だが、それ以降の記憶と、この「シュオ・セーレン」としての記憶がないのだ。
魂が入れ替わった? あるいは、何らかの術で記憶を封じられた?
「…そうかもしれない。」
ラムジュは正直に答えた。
「すまないが、お前のことも全く思い出せない。」
ラムジュの言葉に女性は悲しげに眉を寄せたが、すぐに気を取り直したように姿勢を正した。
「わ、私はアーニャと申します。シュオ様が幼い頃より、身の回りのお世話をさせていただいている、専属のメイドでございます。」
アーニャ。その名前にも、ラムジュには何の記憶もなかった。
「…そうか、アーニャ。すまないな、覚えていなくて。」
ラムジュは素直に詫びた。
「いえ、とんでもございません!」
アーニャは慌てて首を振った。
「それよりも、シュオ様、先ほど私が『お目覚めになられた』と申しました理由ですが…」
ラムジュはアーニャの言葉に頷き、説明を促した。なぜ自分はこのベッドで寝ていたのか、それを知る必要があった。
アーニャは少し言い淀みながらも、説明を始めた。
「シュオ様は、サディエル王術学院という、剣術と魔術を学ぶ学院に通っておられます。現在、一年生でいらっしゃいますが…その…三日前の魔術の実践授業中に…」
アーニャはそこで言葉を切ると、心配そうにラムジュの顔色を窺った。
「…同級生であるマッシュ様の雷魔法が、シュオ様に直撃してしまい…それ以来、三日間、ずっと意識を失っておられたのです」
「…何だって?」
ラムジュの眉間に皺が寄った。
「俺が…いや、このシュオという奴が、同級生に魔法で攻撃され、三日も意識を失っていたというのか? なぜそんなことになった?」
アーニャは俯き、小さな声で答えた。
「…申し訳ありません。シュオ様は…その、剣術も魔術も、あまり…お出来になる方ではなく…そのことで、マッシュ様には、以前から少し…目をつけられていたようで…」
つまり、この「シュオ・セーレン」という少年は、落ちこぼれで、いじめられていた、ということか。
ラムジュは内心で舌打ちした。竜人族の王子であった自分が、こんな情けない人間の体に宿るとは。
しかも、その体は同年代の子供にやられて意識を失うほど弱いらしい。
(…まあ、今は仕方ない。まずは状況を把握するのが先決だ)
ラムジュ――シュオは思考を切り替え、アーニャに言った。
「…少し、事情は分かった。アーニャ、着替えを用意してくれ。いつまでも寝間着のままではいられない。」
「は、はい! すぐにご用意いたします!」
アーニャはぱっと顔を上げ、テキパキと動き出した。
そして出されてきた衣装にシュオは驚愕するのであった。
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