第17話 現れた魔獣
サディエル王術学院の西棟三階、普段は生徒の往来も少ない古びた廊下に、けたたましい悲鳴が木霊した。それは恐怖に染まった若い男女の声――見回りに出ていたはずのカイルとリーザのものだった。
「チッ…! もう出やがったか!」
「いくぞ、シュオ!」
生徒会長ガイア・ランフォードの鋭い声と共に、二人は生徒会室を飛び出した。長い廊下を駆け抜け、悲鳴が聞こえた方角へと急ぐ。
放課後の静寂を破る二人の足音だけが、やけに大きく響いた。夕暮れの赤い光が窓から差し込み、床には不吉なほど長い影が伸びている。
角を曲がった瞬間、彼らは息をのんだ。
廊下の突き当り、ステンドグラスから漏れる最後の光が、異様な光景を照らし出していた。
そこにいたのは、噂に聞く『黒い魔物』。いや、その禍々しさは、単なる魔物という言葉では言い表せない。
闇そのものが凝縮して形を成したかのような、漆黒の獣。
ぬらりとした光沢を放つ体表は、どんな攻撃も滑らせてしまいそうだ。
太く筋肉質な四肢には、剃刀のように鋭利な爪が鈍く輝き、低く唸るような呼吸音が、まるで地獄の底から響いてくるかのように廊下に満ちていた。
周囲の空気が重く歪むような、圧倒的なプレッシャー。
これこそが、異界からの侵略者――『魔獣』。
その存在は、この世界の法則から逸脱しているかのように感じられた。
そして、その魔獣の目前には、恐怖に打ちのめされた二人の生徒がいた。
カイルは腰を抜かし、尻もちをついたまま顔面蒼白でわなわなと震えている。
隣では、リーザが気丈にもカイルを庇うように前に出ていたが、その薄緑色の髪は乱れ、握りしめた魔導杖を持つ手は小刻みに震え、戦闘の意思とは裏腹に、体は正直に恐怖を示していた。
抜かれた剣は、持ち主の戦意喪失を物語るように、力なく傍らに転がっている。
二人とも魔獣が放つ絶対的な恐怖のオーラに完全に心を折られていた。
「カイル! リーザ!」
ガイアが叫ぶ。その声には、普段の冷静さはなく、焦りと怒りが滲んでいた。
刹那、彼は腰の愛剣を抜き放つ。
磨き上げられた刀身が、夕陽を反射して鋭い光を放った。
切っ先を真っ直ぐに魔獣に向け、その赤い髪が逆立つほどの闘気を立ち昇らせる。
学園最強と謳われる生徒会長の威厳が、一瞬だけ魔獣の圧力を押し返したかに見えた。
「シュオ! 二人を頼む!」
「言われるまでもねぇ!」
ガイアが魔獣の注意を引きつけると同時に、シュオは弾かれたように駆け出した。尻もちをついたまま動けないカイルとリーザのもとへ瞬時に到達する。
「立て! 早くここから離れろ!」
有無を言わさぬ力強さで二人の腕を掴み、半ば引きずるようにして立ち上がらせる。
「シュ、シュオ…! あ、あれは一体…なんなんだよぉ…!」
カイルが涙声で訴える。
「喋ってる暇があったら走れ! 死にたいのか!」
シュオは二人を叱咤し、壁際まで強引に後退させる。恐怖で足がもつれる二人を背中で庇うように立ちながら、彼はガイアと魔獣の対峙を見据えた。
その間にも、ガイアは行動を開始していた。
「我が学び舎を穢し、生徒に牙を剥く不届き者め! 生徒会長ガイア・ランフォードが、その罪、断じて許さん!」
宣言と共に、ガイアの長剣が赫々たる炎の輝きを纏い始めた。
彼の覚醒した魔術属性、『火』。膨大な魔力を剣に注ぎ込み、物理的な斬撃力と魔術的な破壊力を融合させる高等技術――『魔法剣』。
燃え盛る炎は剣身を完全に包み込み、廊下の空気を歪ませるほどの熱気を放つ。赤い髪と燃える剣を持つその姿は、まさに炎の騎士そのものだった。
「喰らうがいい!」
気合一閃、炎の尾を引く灼熱の斬撃が、魔獣の分厚い脇腹目掛けて叩き込まれた。
それは並のモンスターなら一撃で炭化させる威力を持つ、ガイアの必殺剣技の一つ。キィィィンッ! という甲高い金属音と共に、激しい火花が飛び散った。
しかし――。
「なっ…!?」
ガイアの表情が驚愕に凍りついた。
手応えがない。正確には、硬すぎるのだ。
渾身の一撃を叩き込んだはずの剣は、まるで巨大な鉄塊に阻まれたかのように、びくともしない。魔獣の漆黒の体表には、魔法剣の炎による僅かな焦げ跡すら残っていなかった。ただ、鈍く重い衝撃だけが、ガイアの腕を痺れさせた。
「グォオオオオッ!!」
まるで煩わしい虫を払うかのように、魔獣は低く唸りながら首を振った。そして、ガイアの攻撃など意にも介さず、鋭い爪を備えた太い前脚を、薙ぎ払うように振り上げた。その巨体に似合わぬ、恐るべき俊敏さ。
「くっ…!」
ガイアは咄嗟に剣を盾のように構え、防御姿勢を取る。だが、魔獣の前脚が振り下ろされる速度は、彼の反応速度を遥かに凌駕していた。視界の端で、巨大な爪が迫るのがスローモーションのように見えた。
肉を打つ鈍い音とは違う、何かが砕けるような轟音が響き渡った。
ガイアの体はまるで打ち上げられたボールのように宙を舞い、廊下の硬い石造りの壁に激しく叩きつけられた。
受け止めた剣ごと叩きつけられ、背後の壁には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、石の破片が飛び散る。
「ぐっ…! がはっ…!」
全身を襲う激痛と衝撃で、ガイアは肺から全ての空気を絞り出され、激しく咳き込んだ。
口の端から生々しい血が流れ落ち、視界が急速に霞んでいく。
腕は痺れ、感覚がなくなりかけ、握りしめていたはずの愛剣が、カラン、と乾いた音を立てて床に転がった。
(馬鹿な…私の…魔法剣が…全く、通用しないだと…!? これほどの、硬度…そして、この圧倒的なパワー…! これが…噂の…『魔獣』…!)
これまでのどんなモンスターとも違う。次元の異なる強さ。
サディエル王術学院始まって以来の秀才と謳われ、常にトップを走り続けてきたガイアのプライドと自信は、この一撃で、音を立てて砕け散った。
「ガアアアアアッ!!」
壁際でうずくまり、もはや抵抗する力も残っていないガイアにとどめを刺さんと、魔獣が再び低い姿勢から飛びかかった。巨大な顎が開き、獲物を喰い千切らんとする鋭い牙が、夕暮れの光を浴びて鈍く光る。
「会長っ!」
「いやぁぁっ!」
カイルとリーザの絶叫が響く。もはや万事休すかと思われた。
その、刹那だった。
吹き飛ばされたガイアと、襲い来る魔獣との間に、黒い影が滑り込むように割って入った。制服姿のままの、茶色い髪の少年――シュオ・セーレン。
魔獣の、岩をも容易く粉砕するであろう強靭な前脚による薙ぎ払いが、シュオの顔面目掛けて振り下ろされる。風圧だけで周囲の埃が舞い上がるほどの凄まじい一撃。誰もが、次の瞬間には、シュオの体が無残に引き裂かれる光景を想像した。
だが――。
信じられないことに、シュオは、迫りくる魔獣の前脚を、自身の右手――ラムジュとしての本来の力を100パーセント発揮できないはずの、その右手一本で、真正面から受け止めていたのだ。
ピクリとも動かない。シュオの足は、まるで大地に深く根を張った古木のように、その場に固定されている。
これまでの戦いで貧弱すぎると感じて自身でトレーニングを行ってきていた結果なのだろうか。
魔獣の圧倒的な質量と速度が生み出した衝撃は、シュオの小さな手のひらの一点で完全に受け止められ、霧散してしまったかのようだった。
「な…に…!?」
壁際で朦朧としていたガイアが、信じられない光景に目を見開いた。
常識では考えられない。あの魔獣の一撃を、生身の人間が、それも片手で受け止めるなど。
「シュオ…?」
「うそ…」
カイルとリーザも、恐怖で声も出せず、ただ目の前の現実離れした光景に呆然と立ち尽くしている。
魔獣自身も、予期せぬ抵抗に驚愕したのか、一瞬その動きを止めた。その凶暴な獣の瞳に、初めて明確な警戒の色が浮かんだように見えた。
目の前の、小柄な人間が、自分と同等か、あるいはそれ以上の『何か』であると、本能で感じ取ったのかもしれない。
「……うるせぇな、この駄犬が」
シュオは、魔獣の前脚を受け止めたまま、低く、静かに呟いた。
その声には、普段のどこか投げやりな響きはなく、絶対的な強者が持つ、底冷えのするような威圧感が宿っていた。
それは、3000年の時を経て蘇った竜人族の王子、ラムジュとしての紛れもない風格だった。彼の茶色い瞳の奥が、冷たく、しかし鋭い光を放っている。
シュオは魔獣を睨みつけたまま、視線だけを背後のガイアに向けた。その口調は生徒会長に対する敬意など微塵も感じられない、ぶっきらぼうなものだった。
「おい、会長。あんた、いつまでそこで突っ伏してるつもりだ。邪魔だ、とっとと離れろ。」
絶対的な自信に裏打ちされた、有無を言わせぬ命令。その言葉を聞き、ガイアは反射的に体を動かそうとした。
痛みと混乱で思考がまとまらないが、シュオの言葉には逆らえない何かがあった。
「…くっ…!」
ガイアは呻きながらも、壁に手をつき、ふらつく足でなんとか立ち上がった。
シュオの背中を見つめる彼の瞳には、驚愕、困惑、そして、わずかな屈辱の色が浮かんでいた。
シュオは、ガイアが壁際まで下がり安全な距離を取ったことを確認すると、魔獣に向き直った。
「よし」
短く呟くと、魔獣の前脚を受け止めていた右手に力を込める。そして、次の瞬間、まるで邪魔な小石でも蹴り飛ばすかのように、その右足で魔獣の腹部を蹴り上げた。
「グギャンッ!?」
魔獣は奇妙な悲鳴を上げ、その巨体が軽々と宙に舞い上がった。
先ほどガイアを吹き飛ばしたのが嘘のように、無造作なシュオの一蹴りで、廊下の反対側の壁まで一直線に吹き飛ばされ、轟音と共に叩きつけられた。壁が大きく陥没し、粉塵が舞い上がる。
「…ふぅ」
シュオは軽く息をつくと、自分の着ているサディエル王術学院の制服の上着に目をやった。
「ったく、こんな安物、本気で動いたらすぐに破れちまうな」
彼は面倒くさそうに呟くと、制服の上着を脱ぎ、無造作に床へと投げ捨てた。
壁に叩きつけられ、もがきながら起き上がろうとしている魔獣を、シュオは冷めた目で見据える。そして、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「さあ、かかってこいよ、駄犬が」
彼の声は、先ほどよりもさらに低く、挑発的に響いた。
「第二ラウンドだ。今度は――俺が、たっぷり遊んでやるよ」
その言葉に呼応するかのように、吹き飛ばされた魔獣が、怒りと憎悪に満ちた、空気を震わせるほどの巨大な咆哮を上げた。
「グルオオオオオオオオオオッッ!!」
夕暮れの廊下に、異界の獣の咆哮と、3000年の時を超えた王子の闘気が激突する。ガイア、カイル、リーザが見守る中、戦いが、今、始まろうとしていた。




