第15話 怪異の噂
煌めく魔法の光が日常的に飛び交い、若き才能たちが魔法の研鑽に励む名門、サディエル王術学院。しかし、その輝かしい学び舎に、ここ最近、不穏な影が差し始めていた。
生徒会役員、特に風紀を担い、広大な学園敷地内を見回る者たちの間で、奇妙な噂が囁かれるようになったのだ。
「なあ、聞いたか? また見回りに出ていたペアが戻ってこないらしい」
「夕暮れ時を過ぎると危ないって話だ。なんでも、真っ黒な影のような化け物に襲われるとか…」
「助かった奴らの話じゃ、あれはただのモンスターじゃない。もっと邪悪な…そう、悪魔だって言ってたぞ!」
生徒会室。重厚なマホガニーのデスクに肘をつき、生徒会長であるガイア・ランフォードは、眉間に深い皺を刻んでいた。
彼の銀灰色の瞳は、窓の外に広がる平和なはずの学園風景ではなく、その裏側に蠢く不確かな恐怖を見つめているようだった。
(黒い魔物…悪魔、か)
ガイアはこのサディエル王術学院の歴史と記録に通じている。
これほど大規模で、かつ具体的な被害を伴う怪異譚が、公式・非公式問わず記録に残されたことは一度もない。
となれば、最初に疑うべきは集団心理による虚言、あるいは悪質な悪戯だろう。
(だが…)
ガイアの思考はそこで行き詰まる。実際に、ここ数週間で学園への登校が途絶えた生徒がいるのは事実なのだ。
親元からの連絡も途絶えがちで、学園側も調査に乗り出してはいるが、明確な手がかりは掴めていない。
行方不明になったとされる生徒の多くが、生徒会の見回り担当者であることも、単なる偶然では片付けられない。
(虚言か、真実か。確かめる術は一つ)
ガイアの口元に、冷徹ともいえる笑みが浮かんだ。
(その『黒い魔物』とやらが、本当に存在するのか、あるいは誰かが作り出した偽物なのか。直接対峙し、その正体を白日の下に晒してやればいいだけの話だ)
彼がそんな物騒な結論に達した、まさにその時。生徒会室の重い扉がノックと共に開かれ、三人の生徒が入ってきた。
「失礼します、会長。」
快活な声と共に現れたのは、カイル・ディラート。実直そうな顔立ちの1年生で、生徒会の書記を務めている。
彼の後ろからは、少し不安げな表情を浮かべた、長いピンク色の髪が印象的な少女、リーザ・フローレンスが顔を覗かせた。彼女は会計担当だ。
そして、最後に入ってきたのは、他の二人とは明らかに雰囲気の異なる少年だった。シュオ・セーレン。
まだ1年生でありながら、その鋭い眼光と、どこか達観したような態度は、上級生すら気圧されるほどの異彩を放っている。
彼は最近、ガイアが半ば強引に生徒会に引き入れた、素性の知れない問題児…いや、逸材だった。
(ちょうどいい。駒は揃った。)
ガイアの頭脳が高速で回転を始める。彼の脳裏に浮かんだのは、非常に効率的で、そして少々悪辣な計画だった。
「会長、お話通りシュオを連れてきましたが。」
「よく来たな、三人とも。ちょうど君たちに話があったところだ。」
ガイアは椅子から立ち上がると、三人を室内に招き入れた。
「最近の不審な噂について、君たちも耳にしているだろう。見回り中の生徒が行方不明になるという件だ。これ以上の混乱を防ぐため、そして真相を究明するため、本日の見回りは特別体制で行うことにする。」
ガイアは、落ち着いた、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「本日の見回りは、二交代制とする。最初の組は、カイルとリーザ。君たちに行ってもらう。」
「えっ!?」
「わ、私たちが…ですか?」
カイルとリーザの顔色が変わった。特にリーザは、長い前髪で顔を隠すように俯いてしまい、かすかに肩が震えている。
「会長…! あの噂、ご存じなんですよね!? 夕暮れ過ぎに、黒い魔物に…!」
カイルが悲痛な声を上げた。無理もない。自ら危険な噂の渦中に飛び込めと言われているのだ。
「もちろん知っている。だが、それがどうした?」
ガイアは冷たいとさえ言える視線をカイルに向けた。その瞳には、恐怖や同情といった感情は一切窺えない。ただ、事実を分析する機械のような冷徹さだけがあった。
「わ、私たちだって…行方不明になんて、なりたくないんですけど…」
リーザが蚊の鳴くような声で訴える。ピンクの髪の隙間から見える瞳は、不安に潤んでいた。
「心配は無用だ」ガイアは断言した。
「第一陣で行く君たち二人が行方不明になることはない。」
「……どういう、ことですか?」
カイルが訝しげに問い返す。ガイアの自信に満ちた口調に、わずかながら疑念が混じった。
「これまでの被害報告を精査した結果、ある傾向が見えてきた。被害が集中しているのは、いずれも日が完全に落ち、夜の帳が降りてからだ。つまり…」
ガイアはゆっくりと、隣で腕を組み、壁に寄りかかっていたシュオに視線を移した。
「第二陣。私とシュオが見回りを行う時間帯に、その『何者か』は現れる可能性が高いということだ。」
「……は?」
それまで黙って話を聞いていたシュオが、初めて声を発した。それは疑問というよりも、呆れと不快感が入り混じったような響きだった。
「はぁぁ…。また面白いことをおっしゃる生徒会長様だ。それで? その高尚な推理が外れたら、どう責任を取るつもりだ? 俺があんたを跡形もなく消し炭にしてやっても文句は言わないんだろうな?」
シュオの瞳に、明確な殺気が宿った。それは冗談などではなく、本気で相手を害することのできる者の持つ、鋭く冷たい光だった。
一年生が学園の最高権力者である生徒会長に向けるには、あまりにも不遜で、危険な視線。
しかし、ガイアは全く動じなかった。むしろ、その挑戦的な態度を楽しんでいるかのようだった。
「心配するな、シュオ。もし私の読みが外れたら、その時は詫びとして、私が君に『極上のスリリア牛のステーキ』を、それも最上級の部位でご馳走してやろう。」
「スリリア牛の…ステーキ…!?」
殺気立っていたシュオの表情が一変した。
彼の瞳が、キラリと、ステーキの肉汁にも似た輝きを放ったように見えたのは、気のせいだろうか。
分厚く、完璧な焼き加減で、芳醇な香りを漂わせる最高級の牛肉。その具体的なイメージが、彼の脳内を駆け巡ったのは間違いない。
「……分かった。会長の指示に従おう。」
数秒の逡巡の後、シュオはあっさりと態度を翻した。先ほどの殺気はどこへやら、今はむしろ、期待感のようなものすら漂わせている。
(やはり、これで釣れるか。)
ガイアは内心でほくそ笑んだ。
このシュオという少年と付き合ってきて、ここ何週間かで判明した、彼の最大の、そしておそらく唯一と言っていい弱点。
それは、異常なまでの食への執着、特に美味いものに対する欲求だった。
悪魔だの魔物だのというものよりも、最高級ステーキの魅力の方が、彼にとっては遥かに勝るらしい。
弱みさえ握ってしまえば、この扱いにくい後輩の手綱を握ることは、そう難しくない。
「話は決まったな」ガイアは満足げに頷くと、カイルとリーザに向き直った。
「では、早速第一陣の二人に頼む。時間もちょうどいい頃合いだ。」
その言葉を証明するかのように、学園の大時計が重々しい鐘の音を響かせ始めた。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン…。
午後四時を告げる鐘の音が、生徒会室の窓を震わせ、夕暮れの始まりを告げていた。
「さあ、行ってこい。何か異常があれば、すぐに支給してある通信魔導具で連絡するように。」
「は、はい…」
「りょ、了解しました…」
カイルとリーザはまだ不安を拭いきれない表情ではあったが、生徒会長の命令に逆らうことはできず、お互いに顔を見合わせながら、重い足取りで生徒会室を出ていった。
パタン、と扉が閉まり、室内に残されたのはガイアとシュオの二人だけになった。窓から差し込む西日が、部屋を茜色に染め始めている。
「さて…」
ガイアは窓の外に目を向けた。
「我々の出番まで、あと数時間といったところか。」
「ステーキ、忘れるなよ。」
シュオは、壁に寄りかかったまま、ぼそりと言った。
その声にはもはや先ほどの殺気はなく、ただただ、約束された報酬への期待だけが込められているようだった。
ガイアは答えず、ただ静かに、夕暮れの空を見つめていた。
彼の頭の中では、これから起こるであろう『黒い魔物』との対峙に向けた、いくつものシミュレーションが繰り返されていた。
噂の真相、行方不明の生徒たち、そして、この奇妙な事件の裏に潜むであろう、本当の『悪意』。それを暴き出すための舞台は、整いつつあった。
深淵のような闇が、ゆっくりと、しかし確実に、王術学院を覆い始めようとしていた。
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