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歴史短編小説まとめ

『信長if』 灰燼の瞳、天下を見据えて ~第六天魔王、変生す~

長編書き始めると、他の短編がたくさん作れたりするのよね。

 

【警告:この物語は史実を大胆に脚色したフィクションであり、特定の人物、団体、出来事を独自の設定で描いています】


 序章:残滓

 堺の港は、南蛮渡りの珍品と、生臭い魚の匂い、そして猥雑な活気に満ちていた。富を求める商人、一攫千金を夢見る浪人、怪しげな異国の船乗り、そして彼らに纏わりつく遊女たちの嬌声が、渾然一体となって空気を震わせる。その喧騒から少し離れた、打ち捨てられた小舟の陰で、一人の男がじっと海を見ていた。


 男の身なりは、お世辞にも良いとは言えない。着古して所々が擦り切れた墨染めの衣、顎には無精髭が伸び、潮風に晒された髪は乱れている。だが、その佇まいには、困窮した浪人とは明らかに異なる、張り詰めた緊張感と威厳のようなものが漂っていた。そして何より、道行く者が思わず足を止め、あるいは目を逸らしてしまう異様さの根源は、彼の瞳にあった。


 右の瞳は、夜の闇を映したかのように深い鳶色。強い意志と、底知れぬ知性を感じさせる光を宿している。だが、左の瞳は、人間のものではなかった。まるで、星々が砕けて溶け込んだ夜空のかけらか、あるいは錬金術師が精製した未知の金属のように、鈍く、それでいて妖しい銀色の光を放っているのだ。その瞳は、物理的な光だけでなく、もっと別の何か――存在の本質や、事象の因果律のようなものまで捉えているかのように、静かに世界を観測していた。


 男は懐から取り出した、僅かな干し飯を、ゆっくりと、だが隙のない所作で口に運ぶ。その一口一口が、まるで何かを確認する儀式のようだ。不意に、男の銀色の左目が、港大通りを闊歩する一団を捉えた。派手な刺繍が施された絹の衣装をまとい、供回りを何人も引き連れた、いかにも羽振りの良さそうな堺の豪商だ。


(……見える)


 男の脳裏に、声ではない『認識』が流れ込む。他の者には決して見えない世界が、彼の左目を通して展開される。豪商の身体の中心には、渦巻く黒い泥のような塊が見える。それは純粋なまでの金銭への執着であり、他者を踏み台にしてでも富を築こうとする強欲の『色』だ。彼の周りに侍る取り巻きたちからは、薄っぺらな金箔のような光が明滅している。お世辞と追従、虎の威を借る狐の卑小さが、脆く、今にも剥がれ落ちそうな『形』として見えている。


 そして、豪商の背中からは、幾筋もの微かな光の『糸』が伸びていた。それは複雑に絡み合いながら、あるものは京の都へ、あるものは西国の有力大名へ、そして数本は、ひときわ太く、禍々しい光を放ちながら、海の向こう――南蛮と呼ばれる異国の方角へと繋がっているように感じられた。


(欲、虚飾、恐怖、そして利害の糸か。くだらぬ。だが、これこそが今の世を動かすことわりよ)

 男は、かつて自分が「天下布武」の名の下に断ち切ろうとした、古く、そして新しい世の仕組みを、新たな視点で見つめていた。自嘲するように、口の端が微かに歪む。その時、背後から粗野な声がかかった。


「おい、そこのお主、見かけぬ顔だな。何用あって堺に来た? うろうろされると目障りだぜ」


 ごろつき風の男が二人、明らかに腕っぷしに覚えがあるような、それでいて知性の欠片も感じさせない濁った目つきで、男を威圧するように立ちはだかる。男はゆっくりと振り返る。銀色の左目が、真正面から二人を射抜いた。


(弱い。獣じみた短絡的な暴力性が、赤黒いもやのように見えるだけ。背後に繋がりは見えぬ。誰かの捨て駒か、あるいは単なる害虫か)


 男は、もはや言葉を発する価値もないと判断し、無言でその場を立ち去ろうとした。


「あ? 無視してんじゃねえぞ、てめえ!」


「なんだその気味の悪い目は? ああ? 少しツラ貸せや、痛い目見ねえうちに!」


 一人が手を伸ばし、男の肩を掴もうとする。その手が触れる寸前、男は掴みかかってきた腕を、まるで埃でも払うかのように、こともなげに、しかし鋭く払い除けた。


 瞬間、男の体から、形容しがたい威圧感が奔流のように迸った。それは、鍛え上げられた武芸者の放つ殺気とも、大名の持つ権威とも違う。もっと根源的で、抗いがたい、存在そのものの『格』の違いを相手に悟らせるようなオーラだった。まるで、絶対的な捕食者の前に裸で晒されたかのような感覚。チンピラ二人は、文字通り金縛りにあったように動きを止め、顔面から急速に血の気が引いていくのが見て取れた。呼吸すら忘れ、ただ目の前の存在に圧倒されていた。


「……障るな。わしは、貴様らのような塵芥ちりあくたに構っている暇はない。消えろ」


 低い、だが腹の底に直接響き渡るような声。温度を感じさせない、絶対的な拒絶。そして、銀色の瞳が放つ、人間のものではない冷たい光。二人は立っていることもできず、腰を抜かし、無様にその場にへたり込んだ。恐怖に引き攣った顔で、声にならない喘ぎを漏らすばかりだ。


 男は、もはや彼らに一瞥もくれることなく、再び雑踏の中へと歩みを進める。人々は、彼の異様な雰囲気と、道端で震えるチンピラたちを訝しげに見るが、誰も彼に声をかけようとはしない。男は、まるで周囲の世界から隔絶されたかのように、己の思考に没入しながら姿を消していった。


 この男こそ、数日前、天下統一を目前にしながら、京・本能寺にて家臣・明智光秀の謀反によって死んだはずの人間。否、正確には、『死の淵で人ならざるものへと変生した』人間。


 その名を、織田上総介信長。第六天魔王と畏れられ、そして今、灰燼の瞳を持つ者。



 第一章:非時の炎


 天正十年六月二日、夜明け前の本能寺。


 その夜、信長は妙な感覚と共に目覚めた。天下統一事業は最終段階に入り、毛利攻めに向かう秀吉への援軍として、自身も近く中国地方へ赴く予定だった。僅かな手勢と共に京に滞在するのは、ある種の油断があったのかもしれない。だが、それ以上に、何か説明のつかない胸騒ぎが、仮眠をとっていた彼の意識を浅いところから揺り起こしたのだ。


(……何か、妙だ)


 部屋の空気が、異常に乾燥している気がした。そして、鼻をつく微かな異臭。それは、寺に焚かれる香の匂いではない。硫黄のような、それでいて甘ったるく、金属が焼けるような、今まで嗅いだことのない不快な匂いだった。さらに、身体が鉛のように重く、まるで水底に沈んでいくかのような奇妙な圧迫感があった。


 その時だ。彼の周囲の空間が、一瞬、ぐにゃりと陽炎のように歪んだ。視界が僅かに揺らぎ、耳の奥でキーンという高い音が鳴る。


「…む?」


 状況を把握しようとした瞬間、切羽詰まった声が響いた。


「敵襲! 敵襲にございます!」


 近習・森蘭丸の声だ。飛び起きた信長の目に、障子の向こうで揺らめく無数の松明の灯と、響き渡る鬨の声が飛び込んでくる。


「騒ぐな、蘭丸。相手は何者だ」


「旗印は…桔梗! 明智日向守、謀反にございます!」


「…光秀が?」


 一瞬の驚愕。だが、次の瞬間には、いつもの冷徹な思考が戻る。


(日向守…なぜ? いや、理由を問うている暇はない!)


 状況は絶望的だ。供回りは僅か。敵は大軍。そして、最も信頼していたはずの男による裏切り。


「是非に及ばず」


 短く呟き、手にした弓に矢をつがえる。障子を開け放ち、闇の中、的確に敵兵を射抜く。だが、敵は無限に湧いてくるかのようだ。


 その時、信長は再びあの奇妙な感覚に襲われた。肌を刺すような『熱』。それは、燃え広がり始めた炎の熱さとは明らかに違う。身体の内側、骨の髄から炙り出されるような、あるいは、存在そのものが根本的に書き換えられようとしているかのような、異様な感覚。視界の左端が、激しく銀色に明滅し始める。耳に入る鬨の声や鉄砲の音が、奇妙なエコーを伴って歪んで聞こえる。そして、あの異様な『熱』が、急速に左の眼球へと集中していくのを、彼は明確に感じ取っていた。


「火を放て!」


 明智軍の中から声が上がる。次の瞬間、本堂の各所から火の手が上がった。だが、それは尋常の炎ではなかった。色は赤黒く、時に青白い光を放ち、まるで意思を持っているかのように蠢いている。木材や畳に燃え移ると、通常の炎よりも遥かに速い速度で対象を呑み込み、一瞬にして灰に変えてしまうのだ。そして、その炎から立ち上る煙は、先ほど感じた異臭をさらに強く放っていた。


 不可解なことに、その『非時の炎』は、信長の身体を直接焼こうとはしなかった。まるで、彼を中心とした一定の空間を避けるかのように、あるいは、彼自身を巨大な炉の中の鉄塊のように見做し、鍛え上げようとするかのように、その周囲で激しく渦巻いている。


「上様! 御身に危険が! こちらへ!」


 蘭丸が叫ぶ。信長は、本能だか理性だかわからない衝動に従い、蘭丸と共に本堂の奥へと向かう。


(光秀め…これは単なる焼き討ちではないな。南蛮の妖術か、あるいは我が国に古くから伝わる鬼道の類か。奴は何を企み、どこでこのような術を覚えた?)


 蘭丸に導かれ、万一のために備えたという抜け道へ辿り着く。燃え盛る本堂は、もはや阿鼻叫喚の地獄と化していた。熱風が肌を焼き、呼吸をするたびに肺が灼けるようだ。しかし、信長の周囲だけ、炎は奇妙な壁のように道を空けている。まるで、彼を『生かして』この場から逃がすことが目的であるかのように。


 左目が、限界を超えて熱い。視界は完全に、激しい銀色の閃光に覆われた。現実の光景と、脳内に直接流れ込んでくる膨大な『情報』が混線し、意識が朦朧とする。


 敵兵たちの、剥き出しの殺意が、どす黒い棘のような『形』で見える。近習たちの、忠誠と恐怖が入り混じった感情が、揺らめく光の『色』として感じられる。そして、この本能寺全体が、巨大で精密な『術式』の一部として機能していることが、理解を超えたレベルで『認識』できた。


「蘭丸!」


 背後で、激しい剣戟の音と、蘭丸の悲鳴に近い声が聞こえた。信長は、振り向こうと身を捩った。だが、その瞬間、左目の激痛と共に、さらに鮮明な『ビジョン』が脳裏を焼いた。それは、数多の槍に貫かれ、炎の中に崩れ落ちる蘭丸の姿――彼の揺るぎない忠誠心が、純粋な白い光となって消えていく『確定した未来』だった。そして同時に、この抜け道だけが唯一の『生への道』であり、蘭丸の犠牲がその道を開くための『鍵』であることも、疑いようのない事実として理解させられた。


(これは…わしを『殺す』ためではなく、『変える』ための儀式…!)


 蘭丸の犠牲の意味を悟った瞬間、激しい後悔と怒りが込み上げた。だが、それに抗う術はない。銀色の光の奔流が左目から溢れ出し、現実の感覚を完全に奪い去る。信長の意識は、そこで完全に暗闇へと沈んだ。


 次に気が付いた時、彼は本能寺の敷地から少し離れた、小さな祠の裏手に倒れていた。夜は白み始め、小鳥のさえずりが聞こえる。身体を確認すると、驚くべきことに、火傷一つなく、戦闘で負ったはずの肩の掠り傷も、ほとんど塞がっていた。ただ、左の瞳だけが、あの銀色の光を宿したまま、全く別のものへと変質していた。


 そして、世界が、昨日までとは全く違って見えていた。朝日を浴びて輝く草葉の露、その一つ一つに宿る生命の微かな『光』。遠くで響く鐘の音、その音波が空気中に描く『波紋』。そして、通り過ぎる人々の内に渦巻く、様々な感情の『色』や、他者との間に結ばれたえにしの『糸』。嘘や欺瞞は、風景に落ちた染みや淀みのように見え、時には、未来に起こりうる『可能性の残滓』が、現実の光景に重なって陽炎のように揺らめいて見えるのだ。


(第六天魔王、か。笑わせる。魔王などではない。わしは、人ならざる『観測者』にでもなったというのか…?)


 彼は、もはや以前の織田信長ではなかった。本能寺の非時の炎は、彼から激情や焦燥といった人間的な感情の一部を焼き切り、代わりに冷徹な『真実』を見通す灰燼の瞳を与えたのだ。失ったものと得たものの代価を測りかねながら、信長はよろめきながら立ち上がり、夜明けの光の中へと歩き出した。復讐でも、天下統一でもない、全く新しい戦いが始まろうとしていた。



 第二章:猿と狸、そして糸


 堺に身を隠して数日が過ぎた。信長は、当初の混乱と戸惑いを乗り越え、己の新たな『眼』の特性を冷静に分析し始めていた。灰燼の瞳――彼は自嘲気味にそう名付けた――は、物理的な視力とは別に、事象の本質や因果律、人の感情や繋がりを視覚情報として捉える能力を持つらしい。


 潜伏先は、港に近い、打ち捨てられた納屋だった。食料は、夜陰に紛れて調達する。昼間は、この『眼』に慣れるため、そして世の動きを探るため、人目を避けながら堺の町を観察して過ごした。


 灰燼の瞳を通して見る世界は、圧倒的な情報量に満ちていた。すれ違う人々の顔には、喜び、悲しみ、怒り、不安といった感情が、オーラのような様々な『色』となってまとわりついている。商人たちの間には、金銭や取引に関する複雑な『糸』が張り巡らされ、どこからどこへ富が流れ、誰が誰を利用しているのかが一目瞭然だった。遊女たちの悲哀は、煤けた灰色の『靄』のように見え、彼女たちに纏わりつく男たちの欲望は、粘ついた泥のような『形』をしていた。


 この力は、使い方によっては絶大な武器になるだろう。だが同時に、常に他者の本質を見せつけられることは、精神を酷く摩耗させた。純粋な好意や信頼が、いかに稀有なものであるかを思い知らされる。かつては気にも留めなかった些細な嘘や欺瞞が、醜い『染み』となって視界を汚し、吐き気を催すこともあった。


(慣れるしかない。この『眼』は、わしが生き延びた証であり、これからを生きるための武器だ)


 そんな中、京からの情報が断片的に堺にも届き始めた。本能寺の変、織田信長と嫡男・信忠の死、そして明智光秀の天下。しかし、その情報は錯綜しており、噂の域を出ないものも多い。信長は、情報の真偽を、灰燼の瞳で『観測』した。情報をもたらす者の感情の『色』、言葉に含まれる嘘の『淀み』、そしてその情報がどこから来たかを示す『糸』の繋がり。それらを分析することで、彼は比較的正確な状況を把握していった。


 驚くべき報は、羽柴秀吉の動きだった。備中高松城で毛利と対峙していたはずの秀吉が、信じられない速さで京へ取って返し、「中国大返し」と呼ばれる電撃的な行軍を成し遂げたという。そして、山崎の地で明智光秀を討ち果たした。


 信長は、その報を聞いた時、秀吉という男から伸びる『糸』を観測した。それは、燃え盛る炎のような赤――強烈な野心の『色』――を基調としながらも、今はまだ、自分(信長)への忠誠を示す、純金のような輝きを放つ『糸』が複雑に絡み合っていた。


(猿め…好機と見て、一気に跳ね上がったか。その速さ、見事よ。だが、その野心の色、いずれはわしにも牙を剥くか…?)


 一方、徳川家康。彼もまた、堺から伊賀越えという危険な逃避行を経て、命からがら本国・三河へ帰り着いたという。家康に繋がる『糸』は、秀吉のそれとは対照的だった。深く、静かに、まるで地中に根を張る大樹のように張り巡らされた『忍耐』の糸。感情の『色』はほとんど見えず、ただただ冷静に、状況を分析し、次の『時』を待っている気配が感じられた。その網の中心には、天下という巨大な獲物を狙う、冷徹な計算の『光』が、僅かに、しかし確実に宿っている。


(狸めは、変わらぬな。嵐が過ぎ去るのを、ただひたすらに待つつもりか。だが、その沈黙こそが、最も恐ろしい)


 灰燼の瞳は、さらに深く、本能寺の変そのものの真相を探っていた。明智光秀。彼から伸びる『糸』を辿ると、確かに謀反を計画し、実行した事実は見える。だが、その背後には、より太く、異質な『糸』が幾重にも絡みついていたのだ。それは、堺の一部の豪商――序章で見た男もその一人だった――、そしてさらに海の向こう、南蛮と呼ばれる地からやってきた宣教師たち、特に特定の会派(耶蘇会か?)の影へと繋がっている。


(光秀は、操り人形だった、あるいは、利害の一致から利用されたに過ぎぬか。奴ら南蛮人が、このわしを『変生』させ、この『眼』を与えた目的はなんだ? 天下統一を邪魔するためか? それとも、この力を利用して、日の本を意のままにしようとでもいうのか?)


 本能寺で使われた『非時の炎』。あれは、明らかに人間の技術や通常の術の域を超えていた。南蛮の錬金術アルキミアか、あるいは失われた古代の技術か。謎は深まるばかりだった。


 だが、信長に焦りはなかった。この灰燼の瞳を持つ限り、時間は彼の味方だ。性急に動けば、敵に手の内を晒すことになる。今はただ、情報を集め、状況を分析し、最適な『時』を見極める。


(まずは、猿と狸に、わしが『生きている』ことを知らせねばなるまい。だが、直接名乗り出るのはまだ早い。彼らが、この報にどう反応するか。その『色』と『糸』の変化を、じっくりと観測させてもらおう)


 信長は、納屋の暗がりの中で、静かに思考を巡らせる。彼の銀色の左目は、人の心の奥底と、複雑に絡み合う因果の糸を、そしてその先に待ち受けるであろう、新たな戦乱の予兆を、冷徹に見据えていた。天下布武の道は、一度灰燼に帰した。だが、その灰の中から、人知を超えた新たな『王』が、静かに覚醒しようとしていた。



 第三章:接触


 信長は、己の生存を世に知らしめるための、最初の『一手』を打つことに決めた。ただし、その方法は慎重を期さねばならない。単に「信長生存」の報を流すだけでは、混乱を招き、敵に警戒される隙を与えるだけだ。必要なのは、最も影響力のある二人の男――羽柴秀吉と徳川家康――に、的確に、そして信憑性をもって情報を伝えること。さらに、その反応を『観測』し、彼らの真意を探ることだった。


(誰を使うか…)


 灰燼の瞳で、堺の町を行き交う人々の『糸』を辿る。忠誠、野心、恐怖、打算…様々な感情と繋がりが可視化される中で、信長は一人の人物に目星をつけた。それは、港の近くの小さな寺で、托鉢をして糊口をしのいでいる、年老いた僧侶だった。名は、快念かいねん。若い頃、信長がまだ尾張の一領主に過ぎなかった時代に、世話になったことがある男だ。特に強い繋がりがあったわけではない。だが、信長の『眼』には、この老僧から伸びる『糸』が、極めて純粋な、濁りのない黄金色――それは私欲のない信仰心と、過去の僅かな縁に対する誠実さ――を示しているのが見えた。複雑な利害や野心とは無縁。彼ならば、託した言葉を歪めることなく、確実に届けるだろう。


 その夜、信長は快念の寺を密かに訪れた。最初は訝しげな顔をしていた快念だったが、信長が顔を上げ、特に銀色に光る左目を見せた瞬間、老僧は息を飲み、その場に平伏した。信長が纏う、常人離れした威圧感と、その瞳が持つ異様な力は、疑念を差し挟む余地を与えなかった。


「快念、久しいな。頼みがある」


 信長は、己が何者であるかを明示的に語ることはしなかった。だが、快念には全てが理解できたようだった。


「……お、おおせのままに…」


 信長は、二通の書状を老僧に手渡した。一つは秀吉へ、もう一つは家康へ。内容は、極めて簡潔に、自らの生存と、近い将来の再起を示唆するものだった。そして、その書状には、信長自身が愛用していた、特殊な香木で作られた小さな札を添えた。この香りは、秀吉も家康も知っているはずだ。筆跡だけでは偽造の可能性もあろうが、この香りと札は、本人であることの強力な証となる。


「これを、それぞれ羽柴筑前守と、徳川三河守へ届けよ。決して他人に中身を見られてはならぬ。無事に届け終えたら、堺には戻らず、比叡の山にでも隠棲するがよい。褒美は、わしが再び天下を差配するようになった折、必ず与える」


「は、ははっ…!」


 快念は、震える手で書状を受け取り、深く頭を垂れた。彼の内から発せられる、恐怖と、それ以上に強い使命感の『光』を、信長は確かに捉えていた。


 数日後、快念はそれぞれの宛先へと旅立った。信長は、堺の潜伏先から動かず、ただひたすらに『観測』を続けた。灰燼の瞳は、物理的な距離を超えて、因果の『糸』を辿ることができる。もちろん、距離が離れれば精度は落ちるが、秀吉や家康ほどの強い『存在』であれば、その感情の大きな揺らぎは捉えることが可能だった。


 最初に反応があったのは、京に近い場所に陣を構えていた秀吉だった。快念からの書状を受け取った瞬間、信長の『眼』には、秀吉から迸る、巨大なエネルギーの奔流が見えた。それは、驚愕(白)、歓喜(金)、そして野心(赤)が激しく入り混じった、複雑な嵐のような『色』だった。金の光は強く輝き、信長生存への純粋な喜びを示している。だが同時に、赤黒い野心の色も、決して消えることなく、むしろ勢いを増して渦巻いているのが見えた。


(猿め…喜びは本物か。だが、わしが生きていたことで、自らの天下への道が閉ざされた、あるいは遠のいたことへの焦りも見えるな。面白い…)


 次に反応があったのは、三河で態勢を立て直していた家康だ。書状を受け取った家康の反応は、秀吉とは全く対照的だった。彼の周りに張り巡らされた『忍耐』の糸は、一瞬、僅かに揺らいだ。驚きを示す白と、警戒を示す藍色の『光』が微かに明滅したが、すぐにそれは深淵のような静寂に呑み込まれ、再び感情の『色』はほとんど見えなくなった。


(狸め…驚きはしたようだが、即座に感情を押し殺したか。わしの生存を、己の利とするか、害とするか、瞬時に計算を始めたと見える。底が知れぬ男よ…)


 二人の反応は、信長の予想通りであり、同時に新たな警戒心を抱かせるものでもあった。秀吉の剥き出しの野心も、家康の底知れぬ沈黙も、どちらも一筋縄ではいかない。


(だが、それで良い。御しやすいだけの駒ならば、興が醒めるわ)


 信長は、静かに立ち上がった。快念は、役目を終え、無事に姿をくらましたようだ。堺での潜伏も、これ以上は不要だろう。秀吉と家康は、必ず動き出す。そして、彼らを利用して、本能寺の変の背後にいた者たち――あの異質な『糸』の主たち――を炙り出す。


(次なる舞台は、京か、あるいは安土か…)


 灰燼の瞳が、未来に起こりうる幾筋もの『可能性の残滓』を捉える。血で血を洗う戦乱の光景、陰謀と裏切りが渦巻く政争、そして、人知を超えた力を持つ者たちとの対峙…。どの道を選ぼうとも、それは修羅の道となるだろう。


 だが、信長の顔に、恐怖はなかった。むしろ、その口元には、かつての第六天魔王を彷彿とさせる、獰猛な笑みが浮かんでいた。


 人ならざる『眼』を得て、彼は再び動き出す。日本の歴史は、ここから、誰も予測しなかった未知の領域へと突き進んでいくことになる。灰燼の瞳を持つ信長が、この国を、そして世界を、どのように変えていくのか。それは、まだ誰にも分からない。





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