7.旦那様の帰宅
「愛しの我が妻よ〜〜っ!!!」
「おかえりなさいませ、旦那様」
空が橙色に染まる黄昏時。リヒトが仕事から戻って来た。仕事の疲れをまるで感じさせない明るい様子に、つむぎは思わず安堵した。術師の仕事は何かと厄介事が付きものだ。下手をするとあやかしとのいざこざに巻き込まれて体の一部を失う事もあると聞く。しかし、今のリヒトを見ているとそんな様子は全く無い。嬉しそうに元気につむぎの周りをくるくると回っている。
「変わった事はなかった?不便なところとかあったら直ぐに言ってくれ。環境が変わったばかりだからな。体調は悪くないか?」
瞳をキラキラと輝かせてつむぎの様子を伺うリヒトはやっぱりどう見ても犬のようであった。一通りつむぎの様子を確認したリヒトは満足そうに、そして満面の笑みを浮かべた。
「うん元気みたいだね!」
その笑顔は老若男女を魅了する事間違いない。それほど眩しい笑顔だった。
嬉しいという気持ちがとてもよく伝わってくる。
それがつむぎにはくすぐったくて、嬉しかった。
そして何より素直な旦那様が可愛く見えてしまった。
「ふふ」
つむぎまで釣られて笑みをこぼした。まるで見えないはずの尻尾が見えるような気持ちだった。
つむぎの笑顔を見たリヒトは急に真顔になり、体が力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。あまりに突然のことでつむぎはギョッとした。
「旦那様?どうかされましたか?」
「いやちょっと可愛すぎて動悸が」
やはり何を言っているのか分からない。これは大事かもしれないと、つむぎは慌てて瀬戸を見た。
しかし瀬戸は哀れなものを見るかのような表情をして首を横に振った。
「安心してください。もう手遅れなんです。旦那様の持病ですから」
手遅れ、という言葉につむぎは顔を青くした。何も安心できないではないか、とリヒトを心配そうに見つめる。
するとリヒトはデレデレと美しい顔を歪めた。
正直、ちょっと気持ち悪い。
つむぎは心の底から同情した。
ーーこんなに美しい人なのにかわいそうに。厄介な病気なのでしょうね。
佳人薄明とはよく言ったものである。
つむぎは優しくリヒトの手を取った。
「立てますか?」
「…………はい」
何故かリヒトは頬を赤く染めた。
「顔が赤いようですが、熱があるのでありませんか?」
「ではすぐに部屋へお連れしましょう。せっかくの料理も今日は奥様とは別に召し上がったほうがよいでしょう」
「それは駄目だ」
瀬戸の言葉にリヒトは我に帰ったようにしっかりと拒否した。見事な切替である。
「さあさあご飯にしよう!」
「は、はい」
先程の様子など微塵も感じさせないほど元気になっていた。嬉々としてつむぎの肩を抱き、体をピッタリとくっつけて歩き始めた。
向かう先は勿論、食堂である。
つむぎは右腕にリヒトの温かさを感じ、ほんのりと頬を染めた。
「……あの近くないですか?」
「金城家ではこれが普通だよ?」
当然のようにそう言われ、つむぎは返す言葉もなかった。式町家しか知らないつむぎにとって世間一般の常識など何も分からない。これが普通と言われてしまうと成程そうかと頷くしかないのだ。
リヒトに大事に大事に守られるように抱き寄せられていたつむぎは気が付かなかった。
瀬戸が「何言ってんだコイツ」という目でリヒトを見ていた事に。
そしてすんなりとリヒトの言う事を受け入れてしまったつむぎに、瀬戸はそっと心の中で誓った。
つむぎに常識の勉強の時間も設けよう、と。
食堂に着くと、つむぎは首を傾げた。
何故か椅子が一つしかない。大きな椅子が一つだけ。どんなに部屋を見渡してもその一つしかない。しかしご飯はちゃんと二人分机の上に準備されている。
「椅子が一つしかありませんね」
「一つで充分じゃないか」
つむぎは目をパチクリさせた。何を言われているのか分からずリヒトを見つめるが、リヒトはつむぎと目があって嬉しそうに笑うだけだ。
ーーこれが常識なのでしょうか?
仕方なくつむぎはリヒトの言うままされるがまま動くことにした。
リヒトは本当に本当に楽しそうにつむぎを座らせた。リヒトの上に。
ーーん?旦那様が私の椅子になってませんか?
本当にこれが正しいのかさすがに不安になってきた。助けを求めるように瀬戸の方を見るが、瀬戸は平然と部屋の隅で控えていた。
そんな瀬戸の様子を見て、つむぎはこれが普通の夫婦の姿なのだろうと思う事にした。
「お箸も一つしかないですね?」
「一つで充分じゃないか」
さすがにこれはおかしい。そう思ったつむぎは慌てて瀬戸を見た。しかし今度は瀬戸から目を逸らされてしまった。
「ほらよそ見しないで。口を開けて?」
眩いほどの美しい蕩けるような笑顔を見せられると、抗えない。美人の気迫とは何とも恐ろしいものである。つむぎはされるがまま、口を開け、差し出されたご飯をぱくんと食べた。
これで良かったのだろうか、と何度目かの疑問が頭をよぎる。しかし嬉しそうな旦那様の表情を見ると正解だったようだ。
ーーこれ、偽物だと知られたら大変なことになるんじゃないでしょうか。
つむぎは何度も何度も不安になる。リヒトの溢れんばかりの愛情は、つむぎが受け取るべきものではない。リヒトへの罪悪感を覚えると共に、我が身の今後への不安で胸がいっぱいになる。
ーーこんなに優しくしてくださるのに、本当に申し訳ないです。でも……。でも私はきよ様には逆らえません。
それはまるで呪いのようにつむぎを縛り付けていく。きよから受けたいくつもの暴言と暴力が、逆らうことを全力で拒否している。
きよのそばから離れられたというのに、それは今もなお変わらない。
「美味しい?」
優しく微笑むリヒトを見るたび、つむぎは複雑な気持ちになる。
そんなつむぎの気持ちを察したのか、リヒトは心配そうにつむぎの顔を覗き込んできた。ただでさえ近い距離がさらに縮まった。
「もしかして口に合わなかった?」
つむぎの浮かない表情を見たリヒトは、すっと表情を消した。それはここに来てつむぎが初めて見るリヒトの表情だった。
「そうか。調理人には俺から言っておくよ」
その感情のない口調に、つむぎは背筋が凍る思いをした。そして慌てて答えた。
「お、美味しいです!本当にとっても!」
「そう?良かった!じゃあ明日も用意させようね!」
「あ、ありがとうございます」
何となく、あまねが言っていたリヒトの「恐ろしい」姿を垣間見た気分だった。
「次はどれ食べたい?」
「え。あ、あの。もうお腹いっぱいです」
「え」
リヒトは目を丸くし、口をぽかんと開けていた。
「たったこれだけ!?」
まだご飯茶碗半分ほどしか食べていない。
「少食すぎるよ!」
「そうでしょうか?式町家では出されたものは全部食べてましたけど」
それもそのはず。つむぎは式町家では残飯しか食べてこなかった。そのため、食べられない日だってあったのだ。ご飯茶碗半分も食べられたらその日はたくさん食べられたほうだったのである。
しかしリヒトにはそれが信じられなかった。
「それ本当?こんなに軽いし、それに腰も細い」
心配そうにリヒトはつむぎの腰を掴んだ。あまりに突然のことでつむぎは思わず変な声を出してしまった。
「ひゃん!」
そんな声を出してしまった事につむぎ自身も驚いた。顔を真っ赤にして両手を頬を隠した。
恥ずかしがるつむぎに、リヒトは思考停止した。
ゆっくりとつむぎの腰から手を離し、静かに頭を下げた。
「あ……。ごめん」
「い、いえ」
そしてつられてつむぎも頭を下げた。
先程まで甘い雰囲気だった二人だが、今は何ともむず痒い雰囲気が流れている。
「と、とにかく。やっぱ少食すぎるからもっと食べなきゃ」
「え。これ以上食べれないです」
「だぁめ!」
リヒトは少し強引につむぎの口にご飯を詰め込まれていく。
心なしか、リヒトの頬もほんのりと赤かった。