5.新しい日常の始まり
リヒトは制服に着替え、後ろ髪引かれる思いで仕事へと向かった。そんな困った主人をようやく送り出した瀬戸は一仕事終えたような表情をしていた。
「いつもこうなのですか?」
「いえ。旦那様はいつもはすぐに仕事へ向かわれますよ。今日ほ奥様がいらっしゃったからです。奥様が来るまで仕事にはいかないと駄々をこねておりましたので、奥様が早くきてくださり本当に感謝しております」
まさかこんなに早く、しかも日が昇る前に花嫁が歩いてやって来るとは思ってもいなかっただろう。つむぎは何だか居た堪れない気持ちになってしまった。
「では奥様。侍女を紹介いたします」
「はい」
瀬戸が部屋の隅で控えていた侍女へと視線を向けた。侍女には猫耳と猫の尾がついている。いわゆるあやかしだった。
侍女は嬉しそうな笑顔でこちらに駆け寄ってきた。
『あまねといいます。よろしくお願いします!奥様!』
「よろしくお願いします。あまねさん」
あまねと名乗った侍女は嬉しそうに尾を揺らした。日焼けした肌が健康的で、太陽のような笑顔がとても眩しい。
「では奥様。分からない事がありましたら、あまねに何でもお聞きください」
「はい」
『お任せくださいな!』
自信満々に胸を張るあまねに、瀬戸は一瞬不安そうに表情を曇らせた。
「では私も仕事がありますのでこれで失礼します。あまね、奥様を部屋に案内してあげなさい」
『はい!』
あまねは元気いっぱいにつむぎの方を振り返った。
『では奥様!ご案内いたします』
「よろしくお願いします」
金城家は非常に広かった。式町家も広いだったが、金城家はそれ以上に広い。正直、しばらくはあまねがいてくれないとつむぎは迷子になってしまいそうでえる。
『奥様こちらです!こちらが奥様のお部屋です』
そう言ってあまねが案内してくれた部屋は、とても広い部屋だった。今まで物置で寝ていたつむぎには信じられない広さだ。
いや。きよの部屋よりもあきらかに広い。しかも用意された家具も新しく高級なものばかりだ。
こんな立派な部屋を用意してくれるなんて、つむぎは驚きすぎて何も言えなかった。
「旦那様は……とても優しい方なのね」
『え?そうでもないですよ?』
「え?そうなのですか?」
あまねの驚いたような返答に、つむぎは困ってしまった。つむぎが接してきたリヒトは美しくて甘くて優しくて、本当に奥様を愛しているという人物だった。
『はい。どちらかと言うと冷たい印象です。外国の血があるからでしょうか?何と言うか雪女みたいなクールな感じです』
「そ、そうなのですね」
どちらかというと犬みたいな感じだった。仕事に行くリヒトの姿を思い出して、つむぎは思わず首を傾げる。
不思議そうなつむぎに、あまねはニヤニヤと楽しそうに笑った。
『きっとそれは奥様だからですよ〜。惚気ですか、もう!』
そんなつもりは一切なかったのだが、そう言われてしまうとつむぎは思わず顔を赤くした。
『旦那様は本当に小さい頃から奥様のことを探しておられましたから。仕事はできるんですがとにかくクールで認めた人以外にはとことん冷たいんです。けど奥様が来るってわかってから、使用人みんなに優しくて。本当に奥様のことを愛しているんだなって思います!』
嬉しそうなあまねの様子を見ていれば、それが事実だと嫌でも伝わってくる。だがそんな事、知らなきゃ良かったとつむぎは思う。
なんせつむぎは身代わりでしかないのだ。
リヒトの愛は、本当ならばきよに注がれるべきものだ。
ーーもし。
優しくて甘いリヒトの視線が、忘れられない。だがいつかは忘れなければならないだろう。
こんな偽りの日々が続くとはとても思えない。
だからこそ思う。
ーーもしも。私が身代わりだと知ったらどうなるのかしら。
ふと窓の外を見ると、朝日がようやく顔を出し始めていた。
いつもとは全く違う、新しい日常の始まりだった。
手荷物を片付けたつむぎは、あまねに屋敷内の案内をしてもらっていた。
金城家には多くの使用人がいた。まだ朝は早いというのに、皆せっせと働いている。使用人の中には人間だけでなく、あやかしの姿もちらほらと見られた。人間しかいなかった式町家と違う風景に、つむぎは驚くばかりであった。
そしてもっと驚くべきは、出会う使用人達が皆つむぎを、迎えられた花嫁を心から歓迎していることだった。
「貴方様が奥様ですか!」
『ようこそ、金城家へ』
「我らが救世主!!」
『貴方様を心待ちにしておりましたぁ!!』
中には涙まで流すものがいたほどだ。さすがのつむぎも困惑する。つむぎが困ったようにあまねを見ると、あまねは親指を立てていい笑顔を見せた。
『奥様大人気ですね!』
「そ、そうでしょうか」
何だか違う気がする。そもそも金城家の当主の花嫁だからこそ受け入れられているだけなのだ。そうに違いないと思ったつむぎは首を横に振った。
「これは旦那様の人望ですよ」
しかしあまねは千切れんばかりに首を横に振った。血相を変えた顔が、全力で否定している。
『そんなことありませんって!本当に旦那様は怖い方なんですから!』
「そ、そうなんですね」
あまりの気迫につむぎは頷く事しかできなかった。
しかしそこまでリヒトが恐れられているとはどうにもつむぎには理解できない。なんせ花嫁に対するリヒトの態度は甘くて優しいばかりだったからだ。と言ってもつむぎもリヒトとはほんの少ししか話せていない。付き合いの長い使用人達の方が、リヒトのことをよく知っている事だろう。
本当に。
もし本当にリヒトがそんなに怖い存在なのだとしたら。
もし身代わりだとリヒトに知られてしまった時、彼はどんな顔をするのだろうか。
あんなに花嫁を、きよを愛するリヒトの事だ。
きっと怒り狂うに違いない。
それを想像するとつむぎはゾッとした。まず命はないだろう。あっさり殺してくれれば御の字かもしれない。そう考えると、こうのんびりしていていいのだろうか、とも思ってしまった。
『奥様はこのまま!旦那様の隣にいてくださるだけで!我々の平穏が守られるのですよ!』
「そうなのでしょうか。何か……他にする事はないのですか?」
『ありませんね!』
旦那様の隣にいるだけ、と言われても困る。今まで使用人のように働くのが普通の生活だったつむぎは、何をして良いのか分からない。暇を持て余すのが目に見えている。
むしろこの暇を活用して、嘘がバレた時の対策を取るべきではないだろうか。
「あのあまねさん」
『はい!奥様!』
せめて、金城家に有益だと分かれば命だけは助けてくれるかもしれない。術師としての才があったからこそ式町家に預かってもらえたように、金城家でもせめて使用人として生活させてもらえれば。
そう思い至ったつむぎは、ぐっと拳を強く握りしめた。
「私にも何かできることはありませんか?」
『ん?と、いいますと?』
「あの。私、いつも式町家では家事をしていましたので、金城家でも何かお手伝いできないかと思ってるんです」
『え!?お、奥様……何を!?というか家事!?奥様が実家では家事をしていたんですか!?』
あまねは慌てふためいた。動揺して口をパクパクしている。
「え……どうしたんですか、あまねさん?」