3.月下の老人
朧が夜の帝都を包み込んでいる。暗い上に景色がかすみ、周りなんてほとんど見えない。寝静まり帰った夜の帝都は不気味なほど静かだった。
こっそりと家を出るには絶好の日和である。
そんな中をつむぎは歩いていた。
きよの言う通り『きよを出し抜いて金城家に嫁ぎに行くため』である。術師として権威ある立場にある金城家は、帝都の一等地に屋敷を構えている。帝都の中心地から離れた場所にある式町家から歩いて向かえば半日はかかる程離れた場所にある。
本来の婚姻ならば馬車で向かうところなのだが、つむぎはそう言うわけにはいかなかった。誰にも気付かれないように、まるで卑しい泥棒のように、こそこそと身を潜めて向かうには、徒歩しか手段がない。
しかし、つむぎは帝都の中心地に来るのが初めてだ。地図もなく、追い出されるように最小限の荷物だけしかないつむぎはため息をついた。
「さすがに道が分かりませんね」
『お困りのようですね』
初老の男性から声をかけられて、つむぎは振り返った。朧が酷くて、目の前の人の顔も見えない。
いや。人ではない。あやかしである。
つむぎは少し身構えた。
『そう警戒なさるな。どこかへ向かうところですかな?それとも当てもなく彷徨っているのですかな?』
そう問われて、つむぎは一瞬答えに詰まった。
「えっと……金城家へ向かっているところですが、少し道に迷いまして」
初老の男性は面白そうに笑った。突然笑われて、つむぎは戸惑った。
馬鹿にされているのか。
それとも世間知らずなつむぎが何かしてしまったのか。
つむぎは黙って様子を伺った。
『いやあ申し訳ない。失礼な事をした。金城家か。あそこは良い!非常に良い場所だ!』
つむぎは首を傾げた。何故男性がとても楽しそうで嬉しそうなのか。つむぎには理解出来ない。
『まことめでたい。おお迷子になられておるのだったな。良い良い。案内しよう。いいやさせておくれ』
男性は嬉々として道案内を始めた。何か事情を知っていそうな男性の様子につむぎはついていけなかった。
しかし道に迷い続けるわけにもいかない。
つむぎは大人しく男性の後に続いた。
『お嬢さん。何かお悩みのようだが、何も迷う事はないぞ』
「はい?」
男性は振り返って優しく微笑んだ。顔はよく見えなかったが口元が弧を描いているのは分かった。
『老人の助言を信じなさい。苦労する事も悩む事も沢山あろうが、お嬢さんが金城家に嫁ぐ事は運命じゃ』
「そう、ですか」
その助言は素直に受け取れない。なんせこの婚姻は本来ならばきよのものなのだ。所詮身代わりでしかないつむぎには的外れな助言であった。
『おお着いたぞ』
思ったよりも近くまで来ていたようである。男性との話もそこそこにすぐに着いてしまった。
歴史ある術師の家系と聞いていたが、和洋折衷建築の目新しい屋敷であった。しかし帝都の一等地というのにかなり広い敷地で屋敷もかなり大きい。
つむぎは圧倒されてしまい、呆然と立ち尽くしていた。
『おぉーい』
男性は勝手知ったる我が家のように門を開けた。するとそこには身なりをしっかりと整えた青年が立っていた。
『お。瀬戸ではないか』
「ああ。ユエ様でしたか。不審者かと思い身構えてしまいましたよ」
『なんじゃなんじゃ。花嫁様を連れてきたのにその言い草は』
「花嫁様ですか?」
瀬戸はユエと呼ばれた男性の後ろにいるつむぎへと視線を移した。
由緒正しい金城家への嫁入りだと言うのに、荷物は少なく、しかも徒歩で現れた女性に、瀬戸は眉間に皺を寄せた。つむぎは瀬戸の気持ちも分からなくはない。
ーーこんな身なりじゃ花嫁には見えませんよね。
何だか急に恥ずかしくなり、つむぎは俯いてしまった。
『うむ。間違いなく金城家の花嫁様じゃ』
しかしユエは自信満々に頷いた。そんなユエに瀬戸はため息をついた。
「貴方がそこまで言うなら」
そうして瀬戸はつむぎの方へと近寄った。そうして深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました、花嫁様」
頭を下げられるという経験をした事がないつむぎは顔をさっと青くした。
「か、顔を上げてください!」
つむぎが慌ててそう言うと、瀬戸はゆっくりと顔を上げた。そしてつむぎの手から荷物を取った。あまりにも自然な動作につむぎは何も言えなかった。
「どうぞこちらへ」
「は、はい」
つむぎは瀬戸の言う通り、金城家の門をくぐった。
『お嬢さん、お幸せに』
「あ。ありがとうございました」
ユエから声をかけられ、つむぎは慌てて振り返り、頭を下げた。そうして頭を上げた時にはもうユエの姿はなくなっていた。
「いかがされましたか?」
「いえ。ユエ様がいなくなってしまったので」
「ああ。あの方はそういうモノですからお気になさらずに」
「そうなんですね」
「そう言えばまだお名前を伺ってませんでした」
「失礼しました。これからお世話になります。式町きよと申します」
つむぎは深々と頭を下げた。
きよの代わりに何としてもこの結婚をやり過ごさなくてはならない。つむぎは決意を固め、頭を上げた。
「お待ちしておりました」
すると瀬戸は口元を押さえ、感無量と言わんばかりの表情をしていた。先程まで冷静沈着で有能そうだった瀬戸の予想外の反応につむぎは戸惑った。
「あ、あの。大丈夫ですか?」
何か粗相でもしてしまったのだろうか。それともきよではないとバレているのだろうか。
「いえ。失礼しました。ようやくかと思うとつい」
「ようやく?」
「はい。我ら金城家に仕える使用人一同貴方様を心よりお待ちしておりましたから」
瀬戸は花が咲いたような美しい笑顔を見せた。冷静な第一印象からは考えられないほど喜びに満ちた優しい笑顔だ。
何とも大袈裟な態度と言い振りにつむぎはプレッシャーを感じた。まさかこれ程までに金城家当主様がきよを愛しているとは想像もしていなかったのだ。
もし。もしも、つむぎだと分かってしまったら。
当主が望んだ女性ではないと分かってしまったら。
そう想像するだけでつむぎは背筋が凍る。
「さあ旦那様がお待ちです」
「は、はい」
だがつむぎに出来ることなんて何もない。
嬉々とした様子の瀬戸について行く事しかできないのだ。
つむぎが案内されたのは屋敷の奥の部屋だった。扉もかなり豪奢な飾りが施されていて、一目で当主の部屋だとわかる。
ーー御当主様はかなりきよ様に惚れ込んでいる様子ですし、きっとすぐに分かってしまいますね。
もう覚悟を決めるしかない。
きよに反発して身代わりを断る事も出来ないのだし、当主の怒りを買ってどんな罰を下されようと受け入れるしかないのだ。
「きよ様。こちらです」
つむぎは大きく深呼吸をして扉を開けた。