15.つむぎの術
リヒトにそこまで言われてしまってはさすがに逆らうわけにもいかない。つむぎは項垂れながら帰路についた。
しょんぼりしたつむぎを見て、あまねは慌てて励ました。
『元気出してください、奥様。これで旦那様に料理を作らない言い訳できますよ!それに旦那様のことですからすぐに事件解決です!何も悲しむことないですよ!』
明るく励ましてくれるあまねが何だか可笑しくて、つむぎはつい笑みを溢した。
「ありがとうございます、あまねさん」
くよくよしたって仕方ない。
そう思う事にした。
だが、それでもやはり残念な事には変わりない。リヒトのために作ってあげたかったし、リヒトのためにできることは何でもしたかった。しかし、それはまた今度の機会となってしまった訳である。
ーー旦那様、どうかご無事で。
術師の仕事は危険と隣り合わせだ。リヒトが怪我する可能性も少なくはない。しかしつむぎは未熟な身代わりの花嫁にすぎない。そんなつむぎに出来ることは、ただ祈る事だけだった。
「帰りましょう、あまねさん」
『はい!』
あまねのほっとした表情に、つむぎもこれが正しい判断だったのだろうと思えた。きっとまた次の機会がある。その時には必ず術師として役に立ってみせる。
そう信じて、つむぎは一歩を踏み出した。
その時だった。
『奥様っ!!』
禍々しい気配を感じた。背筋が凍るような嫌な感覚だ。それに加えてどろっとした粘着質な視線も感じた。
視線を感じたと思ったその瞬間に、あまねに名前を呼ばれ強引に引っ張られた。
その瞬間につむぎは「え?」と言葉が漏れた。どうしていいのか戸惑いながらも、視線の正体が知りたくてその方向を向こうとしたが、あまねに遮られた。
何事かとつむぎが混乱している最中にもあまねは素早く対応していく。
「きゃ」
あまねがつむぎを力強く抱きしめた。そして体がふわっと浮く感覚になる。下を向くと地面が遠い。
どうやらあまねに抱き抱えられて飛んでいるようだった。
しかし、その感覚も長くは続かない。
先程いた場所からかなり離れた場所にあまねとつむぎは降りた。地面に降りた後、つむぎはあまねの後ろに匿われた。
『貴方は何者ですか』
「が……グ……』
あまねが険しい表情で問い詰めるが、相手は話の通じる相手ではなさそうだ。うめき声のようなものしか発さず、おぼつかない足取りで二人に近付いてくる。
よたよたとした歩き方だが、着実に、一歩ずつ、近寄って来ている。
目の下には大きなクマを作り、目は虚で焦点が合っていない。口元だけでなく服まで真っ赤に汚れている。
「あまねさん。あれって……」
『ええ』
あまねは手を強く握りしめた。
あれはまさしくあやかし。
否。もはやあやかしではない。
『あれは、吸血鬼……いえ、もうあれはケカレになりかけてる状態ですね』
確かにケカレになりきれてはいない。しかし、ケカレになるのも時間の問題であろう。もうほとんど自我なんて残っていない様子だ。
とてもあまねやつむぎに対処できる状況ではない。
そう判断したあまねは手に汗滲ませた。
『奥様……逃げてください』
「え。あ、あまねさんは……」
『私の心配は無用です』
きっと、あまね一人ならあの跳躍力ですぐに逃げ切れるのだろう。けれどそれもつむぎがいてはそう上手くはいかない。
つまりつむぎはお荷物でしかないのだ。
悔しい、とつむぎは感じる。
ーー私は結局、何も出来ないのだ。
式町家でも、金城家でも、それは同じ。
つむぎは式町家でどんなにこき使われようと、黙って従っていた。逆らえばもっと酷い目にあうから逆らわない方が楽だと言い聞かせていた。
けれどきっと、それはつむぎには変わろうとする勇気がなかったのだ。
そしてそれは金城家でも一緒なのだ。
どうしようもない無力感がつむぎを襲ってくる。
変わりたいと思うのに、結局何もできないから、変われないのだ。
つむぎが一人もどかしい思いをしていると、あまねが声をかけてきた。
『奥様!』
あまねの声で、つむぎは吸血鬼との距離が縮まっている事に気が付いた。ここでじっとしていてもどうしようもないのだ。
『今ならまだ旦那様が近くにいます。だから奥様はここから逃げて、旦那様を呼んできてください』
それは最善の方法だと思う。
それでもつむぎはあまねを置いていけるわけがなかった。猫娘のあまねでは吸血鬼には敵わない。理性を失いかけた半狂乱の吸血鬼など、なおさらである。
ーーつむぎ!今勇気を出さなきゃ、いつ勇気を出すんですか!
つむぎの手は見て明らかなほど震えていた。それでもあまねの後ろで震えているだけなんて、とても出来ない。
ーーしっかりしなきゃいけませんね。
気が付いたら、つむぎはあまねの前に立っていた。
『奥様!?』
あまねは目を丸くした。何をしようとしているのか、あまねは動揺を隠せなかった。
けれどつむぎはあまねとは逆に落ち着いていた。まだ術師として勉強を始めて日は浅いが、教わっていたことはちゃんと覚えている。
大丈夫、と言い聞かせながらつむぎは呪文を唱えた。
「『式術解放』」
つむぎが呪文を唱えると、周囲が柔らかな光に包まれた。それはまるでその光が暖かい春の陽の光のようだった。
『奥様……』
つむぎの手は確かに震えていた。けれど必死に立っているつむぎの背中を見ていると、止めるのもはばかられてしまった。
「私だって……金城家の一員なんです」
震えるつむぎの声に、あまねは言葉を詰まらせた。つむぎはずっと他人行儀のような一線を引いた態度を取っていた。つむぎの事情を知るあまねは、それも仕方ないと思っていた。
そんなつむぎが、金城家の一員だと言ったのだ。
あまねにはそれが嬉しかった。
「ごめんなさい、あまねさん。心配してくださったのに、私。私は……」
呪文を唱えたのだから、後はやるだけだ。
つむぎは決意を固めた。
「私はやってみせます」
つむぎは吸血鬼をしっかりと見据えた。確かに吸血鬼はとても正常な状態ではなく、恐ろしく感じる。けれどそれ以上につむぎには譲れないものがあった。
認められたい。
金城家に、そして、リヒトに。
たとえ。
今つむぎがしている事が無茶なことで、身勝手な我が儘だとしても。
それでもつむぎにとっては必要な我が儘なのだ。価値のないつむぎが居場所を探すための我が儘なのだ。
そしてその居場所は、リヒトのそばであってほしい。
『あ……ア…啞ァ…』
「『式法・制御』」
つむぎは教わった呪文を間違えないよう、慎重に唱えた。
術を学ぶ中でつむぎにはその場を支配する術が使えると教わった。つむぎが発動させた範囲は全てつむぎの命令通りになる。
止まれと命じれば皆止まり、死ねと言えば皆自殺する。
それがつむぎの術なのだと。
ならばその術を使って足止めくらいなら出来るだろうと考えたのだ。
つむぎは下唇をぎゅっと噛み締めた。
ーー足止めくらいなら、私にもできるはずです。
今は自分を信じてやるしかない。そう思ってつむぎが術を発動させると、吸血鬼はぴたりと動きを止めた。
うめき声を上げ、なんとか体を動かそうともがいているが全く動く気配もない。
そんな吸血鬼の様子を見たつむぎは、ほっとした。
ーー良かったです。
自分の術が吸血鬼に有効だと分かったつむぎは心から安心した。しかしここで力を緩めてはならない。つむぎの力がいつまで続くかも分からないが、この状況では何の解決にもなっていないのだ。
「あまねさん!今のうちに旦那様を!」
『お、奥様。そんな……置いてなんて』
あまねだって主人を置いて行くわけにはいかない。
「大丈夫です。ですから、おね」
「よく耐えたね」