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眠れぬ夜の旋律

作者: 遠山千佳

 だらしなく床に寝そべって見上げる窓の外で、夜空に煌々と月が輝いている。


 草木も眠ると言われるぐらいの時間帯。不摂生と夜更かしのせいか、こんな夜中でも身体の熱が冷めやらない。季節は初夏に入ろうかというところでほんのり涼しいけれど、ベッドに入れば布団から身体の熱が跳ね返ってきて、とても眠れる気がしなかった。

 それに引き換えフローリングは適度にひんやりとして気持ちいい。ちょっと涼むだけと思いつつ、横になってどれぐらい経っただろう。私は部屋の灯りを消すこともなく、カーテン全開でぼうっと夜空を眺めていた。


 眺めていた――のだろうか。


 澄んだ夜空にぽつりと三日月が浮かんでいるのを見たのは、きっと一分にも満たない。床に積まれた部屋干し後の衣類に背中を預ける私は、視覚からの情報をほとんど頭に入れていない。意識はもっと他にあって、そのせいで視線は虚空へと注がれていた。

 四年間の大学生活で身についた習慣の筆頭は言うまでもなく夜更かしだ。高校の頃から寝るのが遅い方ではあったけれど、大学生になって拍車がかかった。原因はあれやこれやと挙げ出せばキリがない。中でも一番の原因がなんだったかと言えば、サークル活動に違いなかった。


『大学では色んな経験をしろ。新しいことに挑戦しなさい』


 高校で仲良くしてもらった先生の言葉を真に受けた当時の私は、それまでろくに楽器の経験もなかったというのにカントリー音楽のサークルに入った。音楽に興味があったわけではない。新入生歓迎イベントであらゆる部活やサークルを回ってみて、初心者歓迎のムードと応対してくれた先輩の雰囲気にほだされたのが加入の決め手だった。

 そんな信念のかけらもなく音楽系サークルに入ったことは今でも後悔していない。先生の金言に沿うことはできたし、卒業するまでの四年間はサークルを中心として充実していた。

 ただ、自分でも予想しなかったほどのめり込んだおかげで、部屋の灯りを消してから曲を聴き漁ったり歌詞を覚えたりという、横になりながらも眠らない時間が増えたのは明らかだった。


 社会人になって夜更かし癖も多少は矯正されたけれど、二年目になるいまでも遅くまで眠れないことは多い。卒業してからは楽器を触っていないし、カントリーの曲を漁ったりもしていないのに。眠る前の、儀式のようにぼうっとスマホを眺める時間があるのは変わっていない。仕事に影響が出ないよう加減はできていても、睡眠不足で回復しきらなかった身体が小さく悲鳴を上げているのを、いつも聞かぬふりで通しているのは事実だ。対策をうたねばと、思ってはいる。


 まあ、それでどうにかできれば苦労はないんだ。


 サークル選びの決め手からも明らかなように、自分は意思の強い人間ではない。早く寝るようにしようとか、寝付けない時の対処方法を調べたりだとか一通りのことはしてみるものの、実際にそれがうまくいったのはこの二年でも片手で数えるほどしかない。それが継続したかどうかまで考慮に入れれば私の手は弱々しい握りこぶしをつくる。

 怠惰は罪だ。それをわかっていながら自分を変えられないのも、また罪である。その報いとして自律神経の乱れという罰はきっちりと受けている。身体の不調を差し置いて現状に甘んじているのは、ひとえに"(さが)"としか言いようがなかった。


「はぁ」


 取り留めのないことをぼんやりと考えてはや一時間。そっと目を閉じてみても眠れる気配は感じられない。

 明日が休みなのをいいことに、金曜の夜はいつにも増して目が冴えてしまう。何をするでもなくだらだらと時間だけが過ぎていくのを、私には止めることができなかった。


 どうしたらいいんだろう。


 私はどうしたいんだろう。


 何をする気も起きないくせに、何かしたいような物足りなさが心に巣食う。

 なまじ夢中になったことが学生の頃にあったせいだろうか。仕事をこなして家事を済ませ、眠って終わるだけの一日に納得できない自分がいる。

 かといって楽器を手に取るには気力も環境も足りていない。似たような境遇でも楽器を続けている同期や先輩がいるのは知っているけれど、私にそこまでの熱量はない。未経験から楽器を始めるに至ったあの行動力はどこへやら。いまではスマホをいじる指を動かすのすら億劫になりそうな気配すらある。


 小さい頃に想像していた二十四歳はきっとこんな人間ではなかった。仕事に生きがいを感じて目を輝かせていたはずだし、結婚して穏やかに暮らしていたはず……なんてのはさすがに世間知らずの子供が生み出した妄想だったけれど、それでも周りを見れば自分が少しずつ出遅れているのは明らかだった。

 もちろん誰もが同じ流れで人生のステージを進める必要なんてない。そう頭ではわかっているのに、卒業から何も進歩していない自分に焦燥感を抱かずにはいられなかった。


「ん……」


 伸びをして天井を仰ぐ。これほど目が冴えているのも久しぶりだ。

 ここまで来たらいっそ開き直って、何か思い切ったことをしてしまうのもいいかもしれない。どうせ明日は休みだし、その翌日も休みなんだから。

 そう思い立つとにわかに気持ちが前向きになった。ぐったりとしていた身体を持ち上げた私は半ば無意識に着替えを済ませて、最低限の化粧までして。

 気付けば玄関の鍵を閉めていた。


「わっ」


 すぐ目の前の線路を貨物列車が凄まじいスピードで通り過ぎていく。耳の痛さに思わず顔をしかめたけれど、列車の灯りが見えなくなる頃には田舎らしい夜の静寂が戻った。

 出鼻をくじかれはしたものの、気分はほんのり高揚している。深呼吸してみれば涼しい空気が身体を満たして心地良い。それだけで満足して眠れそうな気がしたけど、出たばかりのドアに手をかけようとした私を貧乏性の私が引き止めた。


 わざわざ化粧までしたんだからせめて散歩ぐらいはしよう、と。


 鞄も持たず、鍵だけをポケットに突っ込んでそっとドアの前を離れる。スマホも財布も置いていくことに後ろ髪引かれる心地がするけれど、ひとたび部屋へ戻ればこの夜のうちに出かけないことは明らかだ。

 せっかく普段と違うことをしようと思い立ったこのチャンスを不意にはしまいと、逃げるように階段の方へと歩く。


 トッ、トッ……


 石造りの階段を一つ降りるごとに足音が響く。

 ふと立ち止まってみれば、残響が消えた後に音のない夜が戻ってくる。

 まるで自分だけがこの世界の音を生み出しているかのようで、それが面白いような、ちょっぴり怖いような。複雑な気持ちがないまぜになった高揚感を胸に、いつしか階段を降りるだけのことに没頭していた。


 昔からそうだった。

 好奇心旺盛で、人より広く興味を持つ方だと思う。気付けば何かに没頭していることも多くて、楽器をやっていたのもいい例だった。

 いや、あれほど打ち込んだものもなかったかもしれない。熱しやすく冷めやすい私が飽きずに四年も続けられていたのは、サークルという枠組みや仲間の存在があったからだ。入り口に立つのはそう難しくない。けれどもそれを続けるには熱を注ぐだけの"気"が、それなりの動機がなければ動けない人間だという自覚もあった。

 社会人になって何をするにも時間がないとか疲れているとか、お金がないとか仲間がいないとかそれらしい理由を並べてはいたけれど、結局は自分の心が動かされるだけの動機がなかっただけに過ぎない。それじゃあ自分が動くに足る動機はなにかと自問自答してみても、やっぱり答えはわからない。


 足音のことも忘れて思索を巡らせている間に、気付けば四階分の階段を降り切ってアパートの玄関に立っていた。

 ここまでで満足してしまったような気もする。いつもは働かない脳のどこかが活発に働いたような心地よさがあった。貧乏性の私が横やりを入れないほどには収穫があったと思う。


 外へ一歩を踏み出すか。


 階段を戻っていくか。


 どちらが正解かと言われれば戻る方に軍配が上がるだろう。日勤の社会人が眠りに就く時間はとうに過ぎていて、健康面や仕事への影響を思えば考えるまでもない。それに外へ出たからといって、いまある以上の収穫を得られる保証だってない。


 そう。怖いから前に行けないんだ。


 健康という犠牲を払っておきながら徒労に終わってしまうのが恐ろしい。

 労力を割いたものが身を結ばないことが、報われないことが怖くてたまらない。

 その恐怖を、悲しみを味わわなくてもいいように逃げ道を見つけ続けた結果が怠惰なのかもしれない。何かをするのに理由を求めてしまうのはきっと、犠牲を払っても後悔しないことを保証したいからなんだ。


「はぁ」


 大げさにため息をつく。いつしか保守的になっていた自分が情けない。逃げ続けた結果、無駄にした時間の方が多いだろうに。その時間できっと熱中したいことも、その動機も見つけられたはずだ。

 私の足は玄関のタイルを蹴る。固まっていた身体が前へ動き出し、オートロックの自動ドアをくぐった。


 アパートの外へと出ると山から吹き下ろす風がそっと頬を撫でる。歓迎されているのか冷やかされているのか、そこに意味を見出そうとしてしまう自分は詩人にでもなれそうな気がした。

 言葉にしがたい高揚感は幸いなことに続いている。街灯が明滅する音でも聞こえそうなほど静かな世界に、ザクザクと砂利を踏む音を響かせるのも悪くない。まるで誰にも邪魔されずに一つの曲を演奏するかのようで。

 アパートの敷地を出て踏切のある方、山側ではなくて町の方へと足を進めていく。街灯が増えてきても人の気配はない。その代わり、時おり車の走っていく音が遠巻きに聞こえ始めた。

 人の営みの音が聞こえて、世界に自分だけしかいないような錯覚が消えていく。途端に日常に引き戻されたような気がして立ち止まってしまった。呆然と街灯の灯りも届かない道端の闇を見つめているうちに、今度は人の話し声が近付いてくる。声の様子からして大学生だろうか。

 怪しまれないように止めていた足を動かす。元から目的地なんてなかったけれど、行くあてを失ったように足取りがおぼつかない。このまま道なりに行けば大学生たちとすれ違うだろうけど、避けるべきか道を変えずに行くかも選べずにいた。


 人はみなスイッチを持っていると思う。

 自分で押すのは難しいくせに、自分以外の要因でいとも簡単に切り替わってしまう。ひとたび切り替われば一瞬前のできごとさえも遠い記憶のように錯覚するのは、なんとも不思議なものだ。

 そぞろな気持ちで歩いているうちに三人組の大学生とすれ違い、それからは人影を見ることもないまま国道に出た。非日常だった音の世界がいまは遠く、よくありそうな深夜の光景が辺りに広がっている。

 無感情に切り替わる信号機。

 必要以上に駐車場の広いコンビニ。

 人や車もなく寒々とした景色は普段見ることがないはずなのに、どこか見飽きたもののような気さえした。


 もしかして私は、日常に飽きていたんだろうか。


 胸の奥に冷たい水滴でも落ちたような感覚があった。ふと思い浮かんだ言葉があまりにも核心をついている。それがここ最近の私の胸に巣食っていた病魔なのだとしたら恐ろしい。

 日常に飽きたならそれを終わらせたらいいと、極端な思考に囚われてしまいそうな気がして。

 自分でも不思議なほどに思い切りのいいことがある。変な方向に行動力がある自覚もあった。いまうっすらと思い立ちかけたこともやりかねない。そんな恐ろしさに血の気が引いて倒れそうになり、思わず電柱へ寄りかかってしゃがみ込んでしまった。

 ああ、怖い。こんな切迫した気持ちも久しぶりだ。何かと本気で向き合った時の熱量と同じ冷たさが身を刺している。


「っは……はぁ……」


 乱れた呼吸をゆっくりと落ち着け、へたり込んだ身体に力を入れて立ち上がる。少し乱暴に電柱へと背中を預ければ、ひんやりとしたコンクリートがどっしりと私を受け止めてくれた。


「ああ」


 空を見上げて声を漏らす。部屋の窓越しにちらりと見た三日月がくっきりと夜空に浮かんでいた。半ば遠い世界のように見上げていた月夜が、なんだかいまは手の届くところに広がっているような気さえする。


 声を細く、遠く伸ばせば届くような、そんな気が。


 立ちすくんだのも忘れて歌い出したくなる。とはいえ、こんなところで衝動に駆られるまま声を張り上げていたら警察沙汰になりかねない。そうしないだけの冷静さはあるくせに、ふと湧き上がった熱はなかなか消えてくれそうもない。

 気付けば私は、またあてもなく歩きだしていた。


 店の立ち並ぶ町の中心を離れ、住宅街を抜けてどこへ続くともわからない道をひたすら歩く。ここらの詳しい地理は把握していないけれど、山側に背を向けるように歩いていけば平地が広がっているのはなんとなく知っていた。

 一面に田んぼの広がる場所であればきっと声を出しても怒られない。そんな頼りない確信だけを胸に、私の足は町から遠ざかっていく。

 そうしてどれぐらい歩いただろう。時間も場所もさっぱり見当がつかなくなったけれど、理想通りの場所にはついた。どこを向いても田んぼばかり。街灯の一つもないけれど、綺麗な形の月があぜ道を照らしてくれている。

 胸のすくような景色だ。

 どこか懐かしく感じるのは、うんと小さい頃に実家の近所で散歩をした記憶があるからかもしれない。その時の気持ちがふっと蘇りかけて、だけど誰と歩いたのかも思い出せなくて切なくなる。大事なものを一つ、とりこぼしてしまったみたいに。

 感傷的な気持ちであぜ道に腰を下ろす。額にうっすらと汗が滲むほど身体が温まっていた。声を出すよりも何よりもまず熱を冷ましたくて、私はまたぼんやりと空を見上げる。


「きれい」


 町にいるときは隠れていた星が、いまはそこかしこに散らばっていた。映像や想像の中ではいくらでも見ているのに、国道沿いのコンビニとは違って新鮮な、特別なものに見える。

 床に寝そべって月を見た時とは反対に、いまは心を無にしてひたすらに天体を見つめていた。星座には詳しくないし、きっと星座が描けるほどの星も揃っていない。けれどもよく目を凝らしてみれば輝きもまちまちで、見ていて飽きなかった。

 しばらくして地上へと視線を戻す。相変わらず辺りに人の気配がなくて安心した。でないと、なんのためにここまで来たかわからなくなる。


「んん、あ、あー」


 控えめに声を出してみた。芯のない私の声は何者にもかき消されることなく、だけどどこにも反響せずに淡く虚空へと消えていく。その儚さで自分がいかにちっぽけな存在か思い知らされるようだ。

 バンドのみんなとステージに立ったあの時とは違う。お客さんもいなければ音響機材もなく、屋根や壁もない場所で。


 私はひとり、喉を震わす。


 口を閉じたまま、なんの曲にもメロディにもならない音を身体の中に響かせる。整わない音が気持ちよくて、永遠にそうしていられそうな気分になって。

 なんとなく眺めていた田んぼの水面に焦点を合わせると、黒い水面にもきらきらとした星が映っているのに気付く。


「ふふっ」


 それだけのことが嬉しくて笑みがこみ上げた。

 いまならなんだって出来そうな気がする。そんな気持ちを胸に、好きな曲の出だしを控えめに口ずさんだ。


「――……」


 私の声は吐き出したそばから余韻もなく消えていく。

 もう少し声量を乗せてもいい。フレーズの変わり目でほんの少しお腹に力を込める。

 それでも私の声は響かない。眼下に広がる水面を揺らすこともなく散っていく。本当はもっと糸のように細く、けれどもしなやかに遠くまで届くようなイメージなのに。


 少し遠くの水面に浮かぶ三日月を見つめて私は歌い続ける。

 サビを越え、無意識のうちに曲が変わり、ただ一心に歌を紡ぐ。


 歌声だけでこんな広大な水面を揺らすことなんてできないのは知っている。

 鏡面に反射する月だろうが、空の彼方の月だろうが声が届かないのも知っている。

 理屈っぽい私にはわかるんだ。いつもかも、なんでもかんでも理由を求めてしまうから。

 でも、こうして意味のないことをしているのがいまは楽しい。そう思えることにこそ意味があるだなんて、気を抜けばまた私は理屈をこねる。それを誤魔化すようにバラードのサビを上ずった声でやり過ごした。

 ちょっぴり気恥ずかしくて振り返る。誰かがいれば地獄だったけれど、幸い人の気配はない。ほっと胸をなでおろしてひと呼吸おく。


 家を出てからどれほど時間が経っただろう。まだ夜が明ける気配はない。まだ非日常に酔っていられる。

 この目が届く範囲は、いまだけは私の世界だ。 

 そんな風に胸が高鳴るのを知ってか知らずか、呼吸を挟むタイミングにふと自然のものではない音がした気がした。慌てて声を引っ込め、じっと耳をすませてみれば、木の板を小突いたような音が不思議な間隔で聞こえてくる。

 音の方向を頼りに恐る恐る振り返ると、夜空よりも黒い影があぜ道の上をゆっくりと動いていた。奇妙なシルエットに肝が冷えそうになったものの、何かを抱えた人間らしいことはすぐにわかった。ほっとしかけたけれど、よく考えてみればお化けよりも人間の方がよっぽど怖い。人のことを言えた義理ではないけれど、こんな夜更けにあぜ道を歩いているような人間がまともであるはずがないからだ。

 影はのそのそと近付いてくる。シルエットの大きさからして大人の男性には違いない。


 もしかすると、まずい状況だろうか。


 どう転んだって逃げ出すのが一番いい。そうわかっていながらも、好奇心が私を押しとどめた。

 身構えも、立ち上がりもせずにじっと影を見据えていると、男はぐんぐんと距離を詰めてくる。もうあと十歩もない――

 と思ったところで、その足はぴたりと止まった。


「邪魔しちゃいましたかね」


 耳に入ったのは、拍子抜けするほど物腰柔らかで優しい声色だった。

 ぴんと張っていた緊張の糸がぷつりと切れて肩の力が抜ける。うっすらと見えるようになった顔を注視すれば、穏やかそうな雰囲気が滲み出ていた。距離を置いているのもきっと、私が怖がらないようにとの配慮だろう。


「あ、と……急にこんな大男に話しかけられても困りますよね。すみません。ただ、遠巻きに聞こえたあなたの声が素敵だなと思って、どうしても声をかけたくなってしまって」


 照れ隠しに頭をかく仕草についほだされて、小さく笑ってしまった。

 笑ってしまってから、聞き捨てならない言葉に目を見開いた。


「え、私の声、聞こえてたんですか!?」

「はい。あのコンビニを出て帰る途中に人の声が聞こえた気がして、辺りをふらふらとしてたら聞こえてきたんです」


 そう言って彼が指さしたコンビニは確かに声を投げていた方向にある。百メートルや二百メートルどころの距離ではない。月までは届かなかったけれど、どうやら思ってもないほど遠くに声が伸びていたらしい。それは嬉しいけれど。


「す、すみません……」


 迷惑をかけるつもりも、誰かに聞かせるつもりも毛頭なかった。

 ジャンルの統一感もなく曲の切れ目さえも適当に歌っていたのを不特定多数に聞かれていたかもしれないと思うと、恥ずかしさに顔がゆだっていく。


「いやいや。注意しにきたわけではないんです。どちらかというと僕も似たような側と言うか……」


 もぞりと背中を丸めた彼が背中側から正面に回したもの。謎のシルエットと、どこか聞き馴染みあると思っていた木の音の正体がつながった。


「もしよかったらご一緒したいと思って」


 アコースティックギターを抱えて、彼は穏やかに笑う。その雰囲気にふわりと懐かしい気持ちが込み上げて、断る選択肢も消えてしまった。


「私で、良ければ……」

「もちろん! いやあ、嬉しいな」


 自信なく答えたのに対して、彼は快く応えてくれた。

 誰かに聞かせるでもなく、ただ互いの自己満足のために演奏を合わせる機会がこうしてまた訪れるなんて。

 わずかに浮かせていた腰を落ち着けて目配せをすると、彼は頷いて近くの地べたに腰掛けた。手慣らしとチューニングのために鳴らす開放弦の音をそばで聴いているだけでわくわくしてくる。さあ何を歌おうかと思い馳せたところで、ふと不安がわいた。


「あの、私そんなにメジャーな曲知らなくて、あなたの弾ける曲にあんまり合わせられないかも……」

「ああ、いや。知らなくてもある程度は合わせられるので、僕のことは気にせず好きに歌ってください」


 彼は準備完了の合図代わりに弦をひと撫でして、手でミュートをかける。不意に訪れた風の音もない静寂に緊張感が高まった。

 思わず顔を見合わせる。朗らかな彼の顔を見つめたまま必死で頭を回した。

 こういう時に当たり障りのない、誰もが知っていそうで自信を持って歌えるのは――


「おっ」


 私の歌い出しに小声で反応して、彼は絶妙にタイミングを合わせてくれた。大学の頃にもよく歌った、カントリーの中でも有名な曲。

 この曲に特別な思い入れはなかった。大学の頃は歌う側じゃなかったからなおさら。

 でも今は、言葉に尽くせない心地良さに乗せられて一心不乱に歌っている。こんなに歌うのが気持ちいい曲だったなんて知らなかった。彼が見事に私を盛り立ててくれているのか、二人になってもなお私が世界を形作っているような錯覚を味わっていられた。

 そんな我儘を許してもらえるのがまた、心地良かった。


「……良い選曲だ」

「あはは。ちょっと古くさいよね」

「いや、痺れたよ。きみの声にぴったりだ」


 晴れやかな気分で言葉を交わす。そんな風に褒められるのは慣れていないけど、たとえお世話でも悪い気はしない。


「ありがと。自己肯定感が高まった」

「それは何より。良ければもっと聞かせて欲しいな」


 ジャンジャン、と小気味よく弦を鳴らして催促してくる。そうやって乗せられるままに、私はあれやこれやと歌いたいように歌った。

 ギターが合わせやすそうなバラードに限らず、アップテンポな曲も、それこそアニソンに至るまで。彼の知らなさそうな曲を歌い出しても、宣言していた通りすぐにギターでついてきてくれた。


「合わせられるの、すごいね」


 またひとしきり歌いあげて、息をつくように口を開く。彼はありがとうと言いたげな笑みとともに、小気味のいいコードをさらりと鳴らした。


「洋楽、けっこう聴くの?」

「え? ああ、それは……大学の頃にカントリーやってたから」

「へぇ! どうりであの選曲。歌も上手いわけだ」

「や、歌は歌ってなかったんだ。私はバンジョーっていう楽器の担当だったから、弾くばっかりで。あんまわかんないと思うけど」


 聞きなれないであろう楽器の名前に小首を傾げて、彼は小さくうなずく。


「そっか。でも、本当は歌も歌いたかったんでしょ」

「っ、それは……うん」


 会ったばかりの相手にそこまで見抜かれるなんて思わなかった。


「歌ってみたかったけど、誰にも言い出せないまま卒業しちゃったんだ。それからは楽器を触ることもなくなって、音楽をやるっていっても時々カラオケで歌うぐらい」

「あとはここで歌うのと?」


 そんなことを真剣な顔して訊かれるものだから、つい笑いがこみ上げる。


「いやいや、今日のは気まぐれ。わざわざこんな夜中に、こんな遠くまで来て歌ったりしないよ。寝付けなくて、ふと思い立って散歩してたらこうなっただけ」

「はは。いいねそういうの。歌にできそうだ」


 そう言う彼は視線を中空に向けて、試すようにいくつかのコードを軽く鳴らしてみる。それだけで曲のできそうな雰囲気が漂ってきて、言い様もなくわくわくした。


「自分で曲作ったりするの?」

「たまにね。どこでお披露目するわけでもないけど」

「そう、なんだ」


 もったいない。そう言いたかったけど、軽率に言ってはいけないような気がして口をつぐむ。


「人前で楽器は弾けても歌う勇気はないし、歌は歌うより聴く方が好きだから」

「ふうん……」


 納得した。それなら仕方ないねと、そう言おうと思った。


「じゃあ私が歌おっか」


 言い終えて、口をついて出た自分の言葉に内心驚いていた。

 どうしてそう言ったのか。

 どうしてそう言いたくなったのか。

 その答えは玄関を出てからいままでの間に詰まっている。

 冷静になると恥ずかしさのあまり田んぼに飛び込みたくなるけれど、なんとか飛び込まずに済むらしかった。


「ほんとに? ぜひ歌って欲しい!」


 顔を輝かせる彼のずっと後ろ。地平線の彼方では、薄らと空が白んでいた。

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