転生して悪役令嬢のメイドになったら地獄を見た話
たまにはこんな話も読みたいな~と思って書きました
「メアリお嬢様、紅茶をお持ちしました」
「あら。そこに置いておいてちょうだい。下がって良いわよ」
「はい。では、失礼致します」
悪役令嬢メアリ・ルージュの使用人に転生してから、3日が過ぎていた。
メアリに紅茶を運んだ使用人──エマ・タイラーは、元々日本でOLをしていた、しがないモブである。
ネット小説を読むことを小さな生きがいとしていて、最近は転生悪女モノを好んで読んでいた。
だからだろうか。
そんなエマは、お決まりのようにトラックに追突した後、気が付けば、新米メイドのエマ・タイラーとして、ルージュ家に仕えることになっていた。
エマは単純に驚いたが、しかし、どこかで期待感もあった。
今まで密かに憧れていた、異世界転生である。排ガスとコンクリート製の現実からおさらばして、優雅でしっとりとした貴族社会(※エマの想像です)の中で生きられるなんて。
エマは、どこを見渡してもクラシックなブラックのドレスが広がる光景を、ソワソワしながら見つめていた。
ルージュ邸には、使用人の数が多い。
パタパタとドレスの裾を優雅に翻しながら、貞淑なメイドたちが洗濯物や食事を運んで行き交っている。
清潔なエプロンドレスがふわりと揺れて、どこからかバラの香りのする風が吹いていた。
「(本物のメイドさんって、やっぱりかわいい……!)」
エマは密かに胸の前で拳を握りしめ、ガッツポーズをした。
彼女は昔から、ドレスに憧れていた性質であったため、この光景が見られるだけでも嬉しいのである。
まさか死んだ後にも意識を保ち続けて、さらには前世の記憶を持ったまま、別の世界での人生がスタートできるなんて。
なおかつその新たな人生は、自分がずっと憧れていた、クラシカルでファンタジックな世界で始まるなんて。
──本当は、王子様に愛されるヒロインに生まれてみたかったけど。
でも、これで全然十分だわ。エマは謙虚にそう思った。
これだけの使用人を雇えるような、安定した地位を築く貴族へ仕えて、素朴で丁寧な暮らしをしながら老いていく……。
それも悪くないような気がした。
むしろ、そんな暮らしをしてみたかった。
例えばお嬢様のために、美しい庭園でハーブを育てたり、美味しい紅茶の淹れ方を追求してみたり、破れたお洋服を繕ってみたり──。
時間をいかに効率的に使うか、という現代の思想に疲れ切っていたエマは、こうした「盛大な時間の無駄」のような暮らしに憧れていたのだ。
現代ほど産業化の進んでいない時代なら、「え? こんなことで衣食住を保障されてて良いんですか?」と思うような暮らしができるんじゃないか。
エマは、無責任に想像力を膨らませて、そんなことさえ考えていた。
ところで、一つ気がかりなことがあるとすれば、それはメアリのことだった。
何となく──本当に何となくであるが、エマがこの三日、ルージュ邸で過ごす間に、どことなく不穏な空気を感じることがあったのである。
それはメアリ本人からではなく、ルージュ邸にやって来た、客人の方から感じた空気だったのだけれど。
ルージュ邸を訪れた貴族たちは、誰もが委縮したような面持ちで、メアリやメアリの父親を見ていた。
それは猛獣を相手にするときのような、慎重さを含んだ表情である。
誰もが少し青ざめて、僅かに冷や汗をにじませながら。拳を一度キュッと握りしめてから、笑顔を浮かべていた。
エマは、それとよく似た表情を、前世で勤めていた企業のオフィスで見たことがある。
酷い暴言を吐くパワハラ上司に、部下が向けるのと同じ目だ。
相手の神経を逆なでしないように、注意深く彼らの機微を伺う目。
客人がそんな目を、己の主人たちへ向けるのを、エマは目ざとく気づいていた。
だからこそ、ほんの少し、己の主人やメアリへ不安を抱いたりしたのだが……。
「今日の紅茶、とても美味しかったわ。また明日も頼むわね」
「はい。あ、あの。とても光栄です、お嬢様」
メアリは、エマも思わず見とれてしまうような美しい微笑みを浮かべて、優雅にそう言った。
だからエマはちょっと言葉に詰まってしまって、たどたどしく言葉を返す。
メアリは、本当に美しい女の子なのだ。
細く柔らかい金の髪は、絹糸のように繊細で、光の束を集めたように神秘的である。
美しくカッティングされたガーネットのような双眸は、白鳥の羽のような睫毛で縁取られている。
陶器のように、毛穴一つない艶やかな肌。
高名な彫刻が色づいて、そのまま動いているような見目なのだ。
メアリの齢は17歳前後で、時折翻ったドレスの裾から覗く足首は、少女の無邪気さを持っている。
それに、こうしてエマのような、一使用人にわざわざ「紅茶が美味しかった」と話をしてくれるなんて。
エマが読んできたネット小説の「悪役令嬢」とは、最もかけ離れた少女である。
だからエマも、次第に「メアリは悪役令嬢ではないのではないか?」と思い始めていた。
しかし、客人たちが彼女に向ける眼差しが、どうにも心の端っこに引っかかって。
「……」
エマは釈然としない心持ちで、メアリの紅茶のカップを下げた。
それでも人間、褒められれば、嬉しくなるというもので。
エマは翌日、少し早めに起きて、紅茶を淹れる練習をしていた。少しずつ、色々な茶葉をブレンドして、昨日よりも美味しくなるよう、紅茶を淹れる。
「──あら」
エマの作業していた厨房に、ふわりとメアリが現れた。
それはまるで花がほころんだように美しく、パッと厨房が華やいだようだった。
「メアリお嬢様、おはようございます」
「お父様に紅茶を持っていくの? なら、ついでに伝言をお願いしたいのだけれど──」
「あ、いえ。これはメアリお嬢様にと思いまして」
「私に……? でも、いつもと違う香りだわ。茶葉を間違えているから、淹れなおして頂戴ね」
メアリは、「気づかなかったのかな?」というように、優しくエマへそう言った。
まるで子供を諭すような口調である。
エマは、優しいお嬢様に少し照れながら、はにかみ笑いをして「これは、」と説明をした。
「昨日、お嬢様が紅茶を褒めてくださいましたから。もっと美味しい紅茶を淹れられるようにと、茶葉のブレンドを変えてみたのです」
「……? 私、そんな指示してないわ」
「あ。えっと。私が自発的にやったことで──お嬢様に、より美味しい紅茶を届けられたらな、と思いまして」
キョトン、とした顔で、メアリはエマのブラウンの瞳を見つめていた。
それから小鳥のように小首を傾げて、「ええっと……」と言う。
「ティースプーンはあるかしら。それから、布巾を濡らして持ってきて頂戴」
「? かしこまりました」
エマは何の気なしに、戸棚からティースプーンを取り出して、メアリへ手渡した。それから近くにあった布巾を濡らし、ギュッと水気を絞る。
メアリはちょこんとそれを受け取ると、火にかけていた薬缶をどけた。
それからティースプーンの持ち手に濡れた布巾を巻いて、おもむろにスプーンを火で炙る。
パチパチ、と乾いた音が、白い朝日に包まれた厨房に響く。
どこからか小鳥の声が聞こえて、風が木々の下をくぐる音がする。
クリーンで清潔な朝だった。車も馬車も近くを通らないから、とても静かな朝なのだ。
メアリは白磁の柔らかな片手で、エマの右手にそっと触れる。
それからエスコートをするように、エマの手を自分の方へ引いた。
「お嬢様……?」
エマはどぎまぎして、顔を少し赤くして言った。
メアリの横顔は、冬の日の湖のように澄んでいて、長い睫毛が朝日を浴びてきらめいている。
「ギ、ッ」
そんな儚い朝に、不釣り合いな声が響いた。
ジュゥーーッと肉の焼けるような音がして、小さく薄い煙が、エマの右手の甲から立ち上る。
「あ、アっ? おじょッ、あ”!」
エマは針を突き刺されたような痛みに、訳も分からず悲鳴を上げた。
右手が焼けるように痛くって、とにかく手を引っ込めようとする。けれど、気づけばメアリに、手首をうっ血するほど強く掴まれていて、逃げられない。
エマは意味が分からなくて、混乱した。
恐怖も怒りも、何も思いつかなかった。ただただ頭が真っ白になって、壊れたおもちゃみたいに、同じ悲鳴を上げ続けることしかできない。
知らず知らずのうちに、足ががくがくと震えていた。熱い。痛い。熱い。痛い。なんで? どういうこと? なにがどうなったらこうなるの?
「あなたは、自分に自由意志を持つ権利があると思っていて?」
メアリはエマの手首を掴んだまま、澄んだ声で静かに言った。
「指示したこと以外、やってはダメよ。自由意志は、人間の特権なの。あなたにその権利はないのよ。あなたはここに来たばかりだから、まだ知らなかったかしら。教えてあげるわね」
メアリは、つとめて優しい顔で、悪魔のような囁きをした。
純粋な善意を説くような声音で、修道女のように控えめに笑い、スプーンを焼きごてにしている。
その辻褄の合わなさに、エマはただ目を見開いて、眼球と目蓋の隙間から涙をにじませた。
「あなたはルージュ家の使用人。ルージュ家の、財産なの。「財産」は、自分から動いたり、自分の意志を持ったりはしないでしょう。私たちが管理し、私たちが運用するものなの」
「あ”、離ッ……! おじょ、さま”っ」
「ごめんなさいね。先に教えてあげていれば良かったわね」
メアリからの懲罰は、これで終わった。
ふっとたおやかな手つきで、ティースプーンをまな板の上に置く。
「次から気を付けて頂戴ね。それから、その紅茶は捨ててしまって構わないわ。新しく、いつもの紅茶を淹れて頂戴」
それからエマは、手の震えを抑えられなかった。
あの後、震える手で紅茶を持っていき、紅茶を全部ひっくり返してメアリの部屋の絨毯を汚すなど、失敗をした。
けれどメアリは、それには眉一つ動かさず、「拭いておいて頂戴な。紅茶は、もう一度持ってきてくれればいいわ」と微笑んでいた。
エマは明らかに失敗をしたというのに、何の罰則も与えられなかった。
メアリはいつもの優しい顔で、新しくエマが運んできた紅茶を受け取って言う。
「紅茶、とても美味しかったわ。また明日も頼むわね」
エマには訳が分からなかった。
そもそも朝の件に関しては、なぜあんな仕打ちをされたのかも分からない。
なのに、朝にメアリは罰則を与えて、明らかな失敗をした先ほどは、罰の一つもなかった。
エマはゾッとして、ギュッと己の手を腹の前で握った。怯えたように肩をいからせ、目を見開いて下を向く。
右手の甲は、赤く焼けて水ぶくれができていた。
──なんだったの? どうして、こんなことされたの?
メアリの考えを一つも理解できなかったエマは、ただただ混乱して、訳が分からないゆえに、メアリに怯えた。
客人たちが、ルージュ家に怯えたような眼差しを向ける理由が、少し分かった気がした。
エマはクラシックなドレスの行き交う廊下を、もうはしゃいだ気持ちで歩くことができなくなった。
「──あら?」
メアリの声を聞いたエマは、びく! と肩を震わせて、恐る恐る視線を手元から上げた。
エマは今、納屋で自分の着ていたドレスを繕っていた。
庭木の手入れをしている際、枝に引っかけて破ってしまったのである。
エマはメアリから奇妙な罰を受けて以来、とにかく、メアリの目につかないような場所で働くようにしていた。
今回、エマは「服を破ったことが知られたら、怒られるかもしれない」と思い、こっそりと納屋で自分の服を繕っていたのである。
「こんなところで、何をしているの?」
「あ……あ、あの。服を……繕っておりました。枝に引っかけて、しまって。その……申し訳……」
「まあ。では、次からは、それは私に報告してね。服を繕うべきか、新調すべきか、判断を下すのは私たち──意志あるものの仕事なの」
「お、お嬢様の、お手を煩わせて……申し訳ありません」
「? 私は、謝罪を指示したわけではないわ。改善を指示しているの」
「は、はい。お嬢様。申し訳……」
思わず、と言った様子で謝罪を口にするエマに、メアリは困ったような溜息をついた。
「……ごめんなさいね。私、家畜の言葉はよくわからないの」
「……え」
シンプルな悪口だった。
エマは、そんな言葉がメアリから出るのが不思議で、ギョッとしたようにメアリの真紅の瞳を見つめる。
メアリは、突如恐ろしい女へ変貌するけれど、それでも、そういった低俗な悪口は言わない性質であった。
本物のご令嬢で、高貴な身分の人間なのである。
単純であさましい悪態を口にすることはなく、日々を聖人のように暮らしているのだ。
なのでエマは、少しだけショックを受けた。
メアリのことはわけがわからないけれど、それでも、人を見下すようなことは言わない人間だと思っていたから。
しかしメアリは、そんなことを言いつつ、エマを侮蔑したような顔をするわけではなかった。
本当に困ったような顔で、彼女は胸の前で穏やかに手を結んでいる。
「あなたに、謝罪じゃなく改善を……と指示したいのだけれど、私の言葉じゃ伝わらないのね。けれど、私、家畜の言葉には明るくなくて。あなたに、教えることができないわ……」
エマは本当に困った様子のメアリを見て、絶句した。
この子、本当に、自分と使用人を「違う生き物」だと思ってる。
本気でそう信じてるんだ。
悪意があるとかじゃなくて。そういうものだと、思ってる。
今までエマが失敗したことに怒らなかったのも、それが原因だ、とエマは思った。
畜生風情に、初めから「期待などしていなかった」のだ。
相手は畜生だから、失敗するし、人間ほど上手くなんかできない。
だからメアリは怒らなかったし、他のルージュ家の人間も、使用人の失敗に声を荒らげたりしなかった。
「……っ!」
エマは、ここで叫び出さないことの方が不思議なくらいであった。
自分は、今まで散々悪役令嬢のシナリオを読んできたから。
悪役令嬢の「悪どさ」なんて、分かり切ったつもりでいた。
けれど、考えてみてほしい。
非常識な無茶を押し通して、気に入らないもの全てに嫌がらせしているような令嬢は、単なるワガママ娘である。
王子との恋が実らず、ヒロインに嫉妬していじめをするような令嬢は、ただの嫉妬屋である。
本物の「悪役令嬢」は、善悪の価値観からして、信じられないほど嚙み合わなかった。
普通の神経を持った人間ではないのだ。
常識も信じるものも何もかも違うから、きっと一生、彼女の思想を理解する日は来ない。
エマは、転生を喜んだことを強く後悔した。
悪意のない「悪役令嬢」を、どうやって成敗すればいいのか。
その答えがまるで分らなかったからだ。
まるで分らなかったから、きっと、この物語(人生)は、改善することなく進むのだろう。
だって、エマはメアリのことを、崩しようがない。
彼女は悪事を働いていないし、単純で分かりやすい無茶を言っていない。
子供じみた暴論を言っていないし、致命的に頭が悪いわけでもない。
「一人の人間」を崩したり、陥れることがこんなに難しいことだなんて、エマは知らなかった。
エマの知る悪役令嬢は、どんな人間が見ても一発で糾弾できるレベルの、分かりやすい悪事を働いていたし。
崩していくのは容易だった。だからこそ、オチも大方予想がついて、勧善懲悪で終わっていく物語にカタルシスがある。
自分の物語が、こんなふうに終わってしまうなんて、思ってもいなかったのだ。
きっとなにか面白い、無茶苦茶な事件が起きるんだと思っていた。
だって転生先は、悪役令嬢のメイドだ。
非常識な理論でいじめられて、誰が見ても分かる間抜けな理屈で貶められ、そんなところを、王子か何かに救われる。
そういう話でなきゃ、おかしいじゃない。
……エマはこの先、どうやって生きていけばいいか分からなくなった。
メアリの優しい眼差しを一心に受けながら、ただただ、どこからか聞こえる川の音だけを聞いていた。
川からは時折、ポトン──という音が聞こえる。
芋虫が川に転げ落ちるような、ポトン──という音が。