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35話 エールの帰還

 夜の海は底知れない深さがある。気をつけないと飲みこまれてしまいそうだ。

 ヒュドラを倒してからもトロイメライ号はずっとウェンディゴの近海にいた。

 他ならぬエールを捜索するためだ。だが結果は空振りが続いている。


 セレナには好きな言葉がある。希望を持たずに生きることは死ぬことに等しい、という言葉だ。例え今は見つからなくても、エールはきっと生きている。どんな状況でも希望は捨てない。それがセレナの信条なのだ。


「ぴぃちゃんは~……まだ5歳なんだ。私は7歳だよー……私が、お姉ちゃん!」

「ぴぃ? ぴぃ。ぴぃぴぃ!」


 甲板の縁でエリーゼとテオドラの子供、クラウディウスが何かを話している。

 もっともセレナからはもっぱらぴぃちゃんという愛称で呼ばれている。

 スパーダもエリーゼもセレナに倣ってぴぃちゃんと呼ぶ。


 クラウディウスは本人の希望で、現在一時的に預かっている状態だ。

 それにしても寝てばかりのエリーゼが積極的に話しかけているのはめずらしい。


「ふっふーん。私についてくるんだよー。ぴぃちゃん。海の彼方へよーそろー!」

「ぴぃ! ぴぃ~!」


 ぱちぱちぱち。クラウディウスは拍手をした。一体何の会話をしているのやら。

 セレナはその様子を見つめていると、夜空を羽ばたく影に気づいた。

 満月の光が鮮やかにその巨大なものの正体を露にする。竜のテオドラだ。


「ここにいたか。これで貸し借りは無しだよ。私を顎で使うなんて大した度胸だね、お前は」


 水面近くまで降下してきたテオドラはひょいと何かを落とした。

 尻もちをついて甲板に着地したのは、なんとエールだった。


「え、エール……なの!?」


 セレナは急いでエールに走り寄って、その身体をぎゅっと抱き締めた。

 このちっちゃくて柔らかい感触。体温高めのぬくもり。間違いなくエールだ。


「エール……! 本当に無事だったんだね! 良かった……!」

「う、うん。心配かけちゃってごめんね……でもほら、私は元気だから」


 一度離れてエールの顔を確認する。

 なんだか戸惑っているけれどこのぽやっとした幼い顔立ち。

 短めの白金の髪。大きなアーモンド型の優しい瞳。間違いなくエールだ。

 セレナはあらためてもう一度ぎゅーっと抱き締める。


「んもぉ~! 信じてたけど、こんなに心配するのもう嫌だからね!」

「うん……私も怖いからもうしないよ……流れ着いた島で助けられなかったら、本当に死んでたかもしれないし……」


 流れ着いた島で何があったか聞きたいところだが、それは後回しだ。

 スパーダとバルカロールもやって来て、まずはエールの無事を喜んだ。

 次に捜索を手伝ってくれたテオドラに感謝した。テオドラは去り際にこう言い残した。


「お前たちは普通の人間よりそそっかしいね。出来の悪い子供がいる気分だ」


 息子のクラウディウスはお前たちよりずっと賢いがな、と付け加えて。

 なぜ一度は戦った相手を助けてくれたのか。それは彼女自身にしか分からない。

 だが魔物の中には人間と分かり合える者もいるのだとエールとセレナは思った。

 テオドラは念を押すようにラフィーネには気をつけろ、とも忠告してくれた。


「これで一件落着だな。誰も欠けることなくヒュドラを退治できた。ひとまずそれを喜ぼうじゃねぇか」


 バルカロールが最後に話を纏めて、ウェンディゴの港へと戻る。

 宿屋へ帰ると疲れがどっと押し寄せてきてエールは泥のように眠った。

 ラフィーネと相対した時は強がりこそしたが、内心では緊張していたからだ。


 彼女がミノタウロスに任せて姿を消した時、心の底から安堵した。

 ああ。あの得体の知れない恐ろしい存在と戦わなくて良かったと。

 戦っていたら十中八九殺されていただろう。それほどの相手だった。


 そんなエールも朝を迎える頃にはすっかり体力が回復していた。

 とはいえ熟睡のあまり危うく寝坊するところではあった。

 宿屋の食堂は決まった時間にしかご飯を出さないので、恐ろしいことに寝過ごすとご飯抜きになる。


 スパーダとエリーゼは、ヒュドラ退治の報告をしに冒険者ギルドへ行った。

 セレナとバルカロールとエールの三人で、のんびりした穏やかな朝を過ごす。


「エールの嬢ちゃんたちはこれからどうする気だい。『最果ての楽園』を目指すんだろ?」


 バルカロールのティーカップからは湯気がほのかに立ち昇っている。

 茶葉はたぶんアールグレイだ。ベルガモットの芳香を嗅ぐと落ち着く。


 彼の確認には理由がある。これからの旅には船が必要だ。

 カノンは北へ向かったという情報だが具体的にどこかは分からない。

 また、『最果ての楽園』は少なくとも国外のどこかに存在する可能性が高い。


 この両方の可能性から、自由に使える船の入手が急務となる。

 船を購入する資金や動かすための船乗りを探す目途があるのか。

 バルカロールは、それを聞いているのだ。


「そうですね……まだ何も決まってません。でも確かなのは……」

「……確かなのは?」

「船を買うお金を持ってないってことですね……」


 バルカロールはずっこけそうになった。


「そ、そうか。まぁそりゃそうだな。良ければ俺もその旅に協力させてくれねぇか。船なら持ってるし、船員の伝手もある。それに……俺はまだ楽園を見つけることを諦めちゃいねぇんだ」

「協力してくれるのは嬉しいけど、バルカロールさん。トロイメライ号って今は借り物ですよね。借金の形を一時的に貸してもらえただけで……」


 セレナの言う通り、トロイメライ号は現在貿易商トレドの所有物である。

 武装魔導船があれば過酷な旅でも心強いが、借りパクするわけにもいかない。


「それについては簡単な話だ。借金を返せば良いんだよ。何も当てが無いわけじゃない……説得できるかどうかが問題でな」

「大丈夫なんですか? もしかして闇金に手を出すとかじゃ……」

「ちげぇよセレナ! 昔、俺を援助をしてくれてたパトロンに頼んでみるんだよ」


 バルカロールも説得できる自信はあまり無い。

 だが、ダメもとで頼んでみる以外の方法が今は思いつかない。


「あの……バルカロールさん、そのパトロンの人はどういう方なんですか?」

「メーテルリンク伯爵って言う、ウェンディゴの港湾地域を管理する貴族の方だ」


 天蓋都市は幾つもの地域に分かれており、この国の貴族たちが管理している。

 行政地域、商業地域、居住地域、自然地域、農業地域など。このウェンディゴは港湾都市でもあるため、港を管理するメーテルリンク伯爵は相応の地位にいる人物である。


「先代は『最果ての楽園』を見つけることを生涯の目標として、援助を惜しまずにいてくれた。でも病気で急逝しちまってな。息子さんが後を継いでからは『絵空事に投資しても意味がない』なんて言われちまって援助も打ち切りだ」

「うわーお。世知辛いですねー……」


 セレナが苦い顔をして紅茶を一口飲んだ。

 正直、エールはそんな人を説得できる勝算は低いように思えた。

 現在のメーテルリンク伯爵の考え方は現実的な意見に聞こえたからだ。


「ま……ともかく一回頼みに行ってみよう。しつこくお願いすれば少しは協力してくれるかもしれん」


 その時だった。宿屋の食堂に、子分を連れて貿易商トレドが姿を現したのである。何やらにやにやと薄気味悪く笑いながらバルカロールの肩を叩く。


「よぉ! バルカロール、よくやったじゃねぇか。ヒュドラを退治できたんだって? おかげで俺も商売を再開できるぜ。こりゃ感謝してもしきれないなぁ」

「なんだ急に。俺は船を動かしてただけだ。大したことはしてねぇよ。用はそれだけか?」

「んな訳ねぇだろ。忠告しておこうと思ってな。俺が船を貸すのは魔物退治までだ。終わったなら返してもらうぜぇ。トロイメライ号は俺の船だからなぁ?」


 わざわざやって来て何を言うのかと思えば、なんとも嫌味な男だろうか。

 トレドは未だに楽園探しを夢見るバルカロールの想いを知っていて、こんなことを言いにきたのだ。


「俺は優しいからよ。整備代を払えなんて酷なことは言わねぇから安心してくれよ。はっはっは! じゃあな!」


 トレドが去っていくまでの間、バルカロールは何も言わなかった。

 ただ今にも飛びかかりそうな怒りの形相でトレドをずっと睨みつけていた。

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