妖炎の絵
馬鹿みたいだ。馬鹿なのだ。そう、馬鹿だった。
この2年、私は望みの無い恋をしていた。頭では分かっていたのに……。
そして、今日、それは終わりを告げた。
いつも通りの職場の朝礼で、営業2課のアイツと秘書課の子との結婚が決まったと報告された。
噂では、役員の親戚筋だというその子がアイツに一目惚れし、積極的にアプローチしていたということだ。
アイツは、新入社員の頃からモテていた。なぜか、長いこと特定の彼女はいなかったようだが。
イケメンというほどではないが、清潔感があり、話題も豊富。誰とでも気兼ねなく、そして真面目な態度で接することから、先輩からも後輩からも、もちろん同僚からも信頼されていた。
地方の支社を廻って、2年前から、ここで再び一緒に働くようになった。
たまたま同期であった私にも、日頃から、さり気ない気遣いをしてくれていた。
気付けば、その声に耳をそばだてるようになっていたし、ホワイトボードのアイツの欄にも目が行った。
目立たない地味な私は、望みは無いと知りながら、髪形の変化や思い切って買った新しい口紅の色に気付いて誉め言葉をかけてくれるアイツの声に、心を躍らせていた。
ただの、社交辞令だったのに……。
私は、アイツに群がる“その他大勢”の1人に過ぎなかった。
昔見た、炎の周りに円を描くように群がる蛾の絵が、頭に浮かんだ。
蛾は、燃え上る炎に向かって飛び、やがて、焼かれて死ぬのだ。
なぜ、わざわざ、火に向かって飛ぶのだろうか? 近付かなければよいのに。
近付かなければよかったのに……。
同僚たちの冷やかしの声に、にこやかに笑ってみせるアイツの顔を、まともに見ることはできなかった。
ロッカールームで着替え終わり、会社の玄関へ向かう途中で、経理課の1人に声をかけられた。
「大丈夫ですか? なんだか顔色がよくないですよ。」
私は、明日は休日であるから問題ないと答えて、その場を離れた。
土曜日の朝、目が覚めた時、既に9時を過ぎていたが、私は、だるい体を引きずるようにして起きた。
会社を出てからの記憶が定かでない。
かなり重症のようだ。我ながら情けない。
今日は、どうしようか?
部屋の中にじっとしていても、負の感情が溢れてくるだけの気がする。
かといって、どこかに出かけるのも……。
2年前にこの町に越してくる前には、休日を共にする友人も何人かいた。
しかし、友人たちは、結婚し、子供が生まれ……。いつの間にか疎遠になっていった。
こんな時に、慰めてくれる相手もいない……。
とりあえず、洗濯をし、部屋に掃除機をかけたら、昼近くになった。
そうだ、駅の近くに、1度入ってみたいと思っていたお店があった……。
ふいに思い付いたが、1人だ。
いくら考えても人数が増えるわけもなく、私は諦めた。
パスタを茹で、冷蔵庫の中にあったバジルソースと和えた。ミニトマトときゅうりの簡単なサラダ。それとヨーグルト。
ぱっとしない休日のブランチを口にしながら、私は、あの絵のことを思い出していた。
午後2時、私は、最寄駅から3つ目の駅に併設されている大型書店に向かっていた。
あの絵が載せられた画集がないか、知りたかった。
あの絵を描いた画家は40歳という若さで亡くなったらしい。事故で左脚を切断したという情報がネットに出ていた。
なぜ、そんなにも、あの絵が気になるのか?
自分でも、よく分からない。
ただ、深い闇に浮かぶ炎と、それに群がって集まる妖艶な蛾の群れのイメージが、頭から離れてくれなかった。
蛾は夜行性の虫だ。
光に近付こうとする性質は、正の走光性というらしい。
これは、本来、水平に飛行する為の指標として真上からの月明かりを利用しているためであるとされている。
蛾は、光源方向に背(身体上面)を向けて飛行する。
炎や誘蛾灯などの点光源があると、本来の垂直方向への上昇力が光源に向けられるため、螺旋状に飛行して、最終的に光源に衝突してしまう。
逃れられない運命なのだ。
なぜ、そんな絶望的な情景なのに、あの絵は、美しく見えたのだろう?
結局、書店には、画集は置かれていなかった。
私は、目的を果たせなかったのにもかかわらず、なぜか、ほっとしていた。
店員は、注文すれば取り寄せもできると言ったが、頼まなかった。
あの美しい絵を前にしたら、自分も炎へと取り込まれてしまうような気がしたのだ。




