30、(信)夕闇、校庭にて
!流血注意
空は血のように赤く染まり、太陽は空から消え去ろうとしていた。足元に伸びる自分の長い影をみながら、俺は一人部室棟に向かった。
俺は緊張して、部活棟にある女子の部室をノックした。
今日は先生方の事情で全ての部活動が休みになっている。なので校庭に人影は見えず、部活棟も静まり返っていた。
「菊子、いるのか? 俺だ、羽間だ」
女子の部室なので、俺は開けるのを躊躇っていたら、扉は中から開いた。
「入って……」
菊子が俺の手を強く引くので、俺はバランスを崩し、室内のロッカーに手をついた。
中に入ると、薄暗い中菊子が一人で立っていた。部室は整頓されていて、幸が閉じ込められている様子は無い。
「用件は何? 朝に保健室に行っていたけど大丈夫なの? 具合わるいんじゃないの?」
俺がためらいがちに菊子に話し掛けると、菊子はなにも言わずに涙を流した。
「やっぱり調子わるいんじゃないのか? 早く帰ったほうがいい、先生誰か残ってるかな……呼んでこようか?」
方向転換してドアに向かうと、菊子がドアの前に立ち塞がった。
「菊子……?」
俺は呆然として菊子を見る。菊子の顔色は真っ白で、唇の色だけが異様に赤く見えた。菊子は下を向いて、震える手で俺の袖をつかんだ。
「行かないで、ここにいて……」
「いつまでいればいい? 実は今、幸を探しているんだ。用件があれば早く言ってくれ、時間が惜しい」
「…………」
菊子はうつむいたまま口を開くが、声は聞こえなかった。俺は菊子の声を聞こうと身を屈めた。
菊子の顔が髪に隠れて見えなかったので、俺は自分より少し背の高い菊子の顔を下から覗いた。すると、菊子が一歩踏み出し、俺の口にキスをした。
「……っ!」
俺が驚いて菊子を突き飛ばすと、菊子の体は音をたてて扉にぶつかった。
「あっ、ゴメン……」
口では謝るが、菊子の方向に体が動かなかった。菊子の唇が触れたとき、俺は明確に思い出した。
あの日、あの交差点で、俺の唇を噛みきったのは菊子だ。この背格好、髪の長さ、そして真っ赤な薄い唇……。
俺は菊子を警戒しながらじりじりと後退する。菊子は部室の扉に背をつけたまま、何も言わずに顔を覆って泣いていた。
「菊子、何があった? 白竜に会ったのか? 教えてくれ」
心臓がドクドクと音を立てる、額に脂汗が浮かぶ。俺は言葉を口から捻り出すが、俺の心は交差点で食われた時の恐怖にのまれていた。
目の前で女子が泣いているのに、その姿に恐怖しか感じない。何かひとつでも、菊子がレアナではないと分かればいいのに。
視線を彷徨わせて、手がかりを探すが、目の前にいる女が菊子なのか、レアナなのかは分からなかった。
……もし菊子が白竜に会ったとしたら、どうして菊子に異世界の住人が見えたのだろう?
幸の近くにいるというのが見える条件としたら、吉田と俺の父親だって見える筈だ、なのにふたりには猫が見えていなかった。
菊子はスカートのポケットに手を入れた。
俺は警戒しながら菊子の動きを見ていたが、菊子が取り出したのはビニールに入った俺のSDカードだった。菊子はそれを俺のシャツのポケットに入れた。
「委員長、もしかしてそれの中を……」
見たのか? と聞くより早く、菊子が駆け寄り俺の上半身を押した。
「うわっ」
ものすごい力で押されて、俺は後ろに倒れ尻餅をついた。狭い部室なので、ロッカーに頭を打ち付ける。それを痛がる間もなく、菊子が覆い被さって来た。
「菊子? どうした?」
俺は痛みに顔を歪めながら、自分に覆い被さる女を見る。菊子は泣きながら、倒れた俺の体の上に乗り、手で腕を押さえた。
「……ザマくん、わ、私……」
泣きながら菊子が小さな声で言う。
「ラレチャッタノ……シロイ……トリニ」
「何? 菊子、聞こえない、もっと大きな声で」
その瞬間、菊子の眼球は真っ白になり、涙を流しながら、左手に持っていたもの俺の左肩に向かって振り下ろした。
「うわっ!」
肩に燃えるように熱く、鋭い痛みが走った。肩を見ると、そこにはアイスピックが深々と刺さっていた。
「菊子……何で……?」
痛みに呻きながら聞くと、菊子は躊躇なくそれを引き抜いた。
「うあっ!」
瞬間の激しい痛みに意識が飛ぶ。
俺が声にならない悲鳴を上げると、菊子はキャハハハと笑って、アイスピックを赤い舌でベロリとなめた。その顔が愉悦に歪む。
「ああ、これ、これよ……見つけた……」
「な……?」
俺は痛みにうめき、脂汗を流しながら菊子を見た。菊子の髪は一部だけ白くなっていて、眼球は完全に白かった。
「レアナか……やはり、お前だったのか……」
俺がそう言うと、レアナは微笑みながら俺の腕の傷を指でなぞる。そして赤い舌で血を拭った。
「ワタシ、ずっと探していたの、サーの言う、もうひとつのカテを……見つけた、コレデイイ……」
……何だって?
「ズット、ズット探していたのよ……私を見えるヒトは少なかったから、手探りで……ヒトツヒトツ……。お陰でヒトがどれだけ脆いものか、ドウシタラ動けなくナルノカワカッタ……」
……やはり通り魔はコイツだったのか……? 菊子を操って、俺を食って味をしめたのか、他の見えるヤツも襲った? 菊子の姿で、隣街まで行って……?
俺は自分に覆い被さる、菊子の体に入った化け物を見た。真っ白な眼球は蝋人形のように不気味で、常に笑っている顔が逆に恐ろしい。
だから親父が学校に来て、髪の長い生徒から話を聞いていたのか? 親父は、コイツがのりうつった菊子を探していたのか?
俺の脳裏に、剣道をしている菊子の姿が浮かんだ。誰よりも強くて、誰よりも熱心で、真面目で、誰よりも正義感に溢れていた菊子に魔がとりついた。そのせいで菊子は俺や他人を襲う羽目になったんだ。
俺はなんとか抜け出そうと体をよじるが、レアナの力は強くてどうにもならなかった。そうしているうちに、菊子の瞳にだんだん色がついてきて、黒に戻った。
「ハザマクン、私、私……ゴメンね、私……」
「菊子、泣かなくていいから、どいてくれ……」
「私……私、アナタガスキ……デモ、シノザキサン……私、アキラメヨウト……」
菊子の涙が俺の頬に落ちた。
俺の左肩に血が流れる度に、激痛が波のように襲ってくる。その痛みに顔を歪めながら、俺は菊子に話しかけた。
「菊子、もういいから家に帰りな? これからここは危なくなると思うから、早く逃げろ」
「……ど、どうしてこんな……ょうきょうなのに、ワタシの事……メナイノ? ワタシ、ウウ……」
菊子は泣きながら、辛そうに顔を歪める。
「大丈夫、菊子、この程度の怪我では死なないから、泣くな……」
俺が動くほうの手で菊子の頭を撫でると、部室の扉が勢いよく開いた。そこから三人の女生徒に引き連れられて、幸が入って来た。
「ほーら篠崎、あれがあんたの男だよ、やっぱり美人のほうがいいって、馬鹿だねー、電波はねー」
そう言うのは、クラスで幸の顔を覗き込んでいた市原という文芸部の女だった。他の二名もその友達だろう。PC室で何度か見た覚えがある。
俺は入って来た幸に大声で言った。
「コウ、レアナだ、逃げろ!」
「……!」
幸は弾かれたように肩を揺らして、暫く呆然としていた。
『レアナ……? アレクは?』
幸が聞くと、レアナは立ち上がり、天井を仰ぎ見てキャハハハと笑った。体は菊子なのに、髪はまだらに白くなり、眼球が白く濁っている。
『No.6は今は何処かに転がっているでしょうね! この前ワタシにしたようにしてやったから』
『……ッ!』
幸の息を飲む音が響き、周りの女生徒がオロオロとお互いを見合わせた。
「えっ、何? この女、菊子なの?」
「何語? 篠崎は何言ってんの? コイツ菊子?」
「やだ、違うよ、何なの……?」
俺はレアナの背中めがけて体当たりをした。うろたえる女生徒に俺は大声で叫ぶ。
「逃げろ! 早く外に出て、全力で走れ!」
「……!」
女生徒は弾かれたように動き、悲鳴を上げて部室から飛び出した。しかしレアナがそれを追いかけ、一人一人校庭に転がしていった。
「アアア……」
幸がよろつく足でレアナを追いかけようとするので、俺は幸を捕まえて校舎裏に引っ張って行った。
「信、信、あの子たちが、菊子さんが……」
幸が泣きながら後ろを向くので、俺は力のままに幸を引いて走った。俺は急いで白竜から逃げ、建物にかくれて息を整えた。
「菊子はレアナに食われた……菊子にのりうつっているレアナは人に触れるようだ。今は逃げるしかないだろ……」
「他の人たちはどうするの……?」
幸が泣きながら言うので、俺は幸の肩を引き寄せた。幸は心底怯えて、ガタガタと震えていた。
「俺たちではレアナに対峙するのは無理だ。力が違いすぎる。レアナがいる限りは校庭に戻るのは自殺行為だ……」
幸はフルフルと首を横に振る。
「レ……レアナの狙いは私一人よ? 私が行けば皆助かるわ」
「いや、レアナは俺に、もうひとつの糧と言っていた。もしかしたら扉を開けるためにこの世界の人間の血が必要なのかもしれない」
「だったら……余計にあの人たちを置いていけないよ……」
そう言って学校に戻ろうとする幸を、俺は怒鳴り付けた。
「コウ! 俺の言うことを聞け!」
「……うう」
幸は目に涙をためて俺を見た。
「校庭にいる女子は致命傷ではない筈だ、血は出ていなかったし、そもそもあいつらは化け物が見えていない。それは糧として使えないと言うことだろう? 俺たちは猫を探しながら一旦家に帰ろう。レアナが俺たちを追ってきたら、あいつらの生存率が上がる」
「うぁ、だって、だって……」
二人で隠れていたら、どこからか救急車のサイレンの音が聞こえて来た。建物から顔をのぞかせて救急車を見ると、救急車は中学校に入って行った。
「誰が通報してくれた? ほら幸、あっちは平気だ、行くよ」
「え、うん……」
泣きじゃくる幸を引いて、俺は家に続く長い坂を上った。
月は血を吸ったように赤みを増して、空から二人を見ていた。




