信、プロローグ
羽間信が篠崎幸に会ったのは、母親の葬式の時だった。
俺の記憶にある母親は病気がちで、殆ど伏せていたが、俺が四才の時に病院で息を引き取った。
当時は死ぬことがよく分からなかった。家で荼毘に伏せて寝ている母を見て、何故目を冷まさないのだろうと不思議に思っていた。その後骨になった母を見たときはじめて、もう母には会えないのだと理解した。
父は警官で厳格な人だったので、男が泣くのを禁じていた。俺は父の目をさけるように、家の裏庭に隠れて、声を出さずに泣いていた。
コウが現れたのはそんな時だった。
俺の家の隣には洋館が立っていた。
前は老夫婦が住んでいたが、旦那さんが倒れて引っ越し、最近は誰も住んでいなかった。
その洋館には広い庭がある。初夏には木香薔薇が鉄柵にからまり、黄色い小さな花が柵一面に咲き誇っていた。
その柵の隙間から、幸は俺の家の庭に入ってきた。
背後でガサリと音がしたので、俺はあわてて涙を袖で拭った。音を立てたのは、父親でも喪服を着た大人でもなくて、見たことがない小さな女の子だった。
「えっ……?」
その子は俺くらいの背丈で、白いワンピースを着ていた。真っ直ぐで長い黒髪を頭の上で二つに結って、黄色いリボンをつけている。柵をくぐったときについたんだろう、頭には木香薔薇の花びらがくっついていた。
俺はしばらく呆然としていたが、泣いていたのが見られたのが恥ずかしくて、立ち上がって怒鳴った。
「誰だよ! ここはぼくんちだぞ、かってにはいってくるな!」
俺はその子に人差し指を向けて言う。しかし日本語が通じないみたいで、その女の子は黙って首をかしげていた。
その子はまっすぐに俺のところに近付いて来る。そして、近くでじっと俺を見ていた。
「うわ……」
俺はその女の子を近くで見て気がついた。その子の目は黒くなくて、春の木々のような緑色だった。肌も白くて目が大きく、幼稚園でみるどの女の子とも違う顔立ちだった。
「外人だ……」
俺ははじめて見た外国人に、どうしようか困って固まっていた。するとその女の子が俺を指した。
「Where does it hurt? 」
「……は? ほぇ? あ?」
俺はその子が何と言ったか分からなかった。
するとその子はさらに近付いてきて、俺の頭をよしよしと撫でる。
普段なら「バカにするな」と怒るところだったが、何だか無性に悲しくなって、俺の目から涙がこぼれ落ちた。
「What's the matter?」
「お、おかあさんが、しんじゃった……」
俺は意味が通じないことを知っていて、日本語でつぶやいた。口に出すと余計に悲しくなって、涙が頬を伝って落ちる。
その女の子は黙ってじっと俺を見ていたが、撫でていた手を俺の頬にあてた。
「Let me kiss it to make it better.」
そう言って、その子は目を閉じ、顔を寄せて、俺の口に口をつけた。
俺は驚き、慌てて彼女から離れる。するとその子は、自分の胸に手を当てて俺に聞いた。
「Does it still hurt?」
「だ……え、何言ってるのかわかんない……」
俺は困って首を横に振った。
女の子はじっと俺を見て、俺の涙が止まってなかったので、もう一度俺に手を伸ばした。
「うわ……」
俺はまたキスをされるのかと驚いて身をすくめた。頬に彼女の手が触れたときに、体温のあたたかさから、俺はいろんなことを思い出した。
保育園の友達はお母さんと一緒に登園していたのに、俺は父かヘルパーさんだったこと。母はたいてい病院にいたこと。父も忙しくて、毎日殆ど保育園にいたこと。
そういった寂しさや、やるせないことがたくさん溢れて、ギュッと固まったものが、その子の体温に触れて溶けていくような気がした。
回想から戻った時、その子の手はすでに離れていた。
あれ? と思い下を向くと、その女の子は俺の足元で、スウスウと寝息をたてて寝ていた。
◇◇◇
「初対面から突然寝るヤツだったよな……」
暗闇の中、俺は幸の部屋のベッドの横に座って、寝ている幸を見ていた。幸の頬は涙に濡れていて、俺の手をギュッと握りしめている。
俺が幼稚園の頃に、お隣の洋館に越してきた女の子は、突然寝る病気を患っていた。
夜に寝るのとは違って、何の予兆もなく気が付いたら寝ているのだ。しかも寝ているときは大抵変な夢を見ている。
それは一貫して、いつも同じ世界で、絵本やライトノベルで出てくるような、魔法があり竜のいる異世界の夢だった。
平和な夢を見たときはいいけど、戦争だったり災害の夢を見たとき、幸はひどく動揺して、俺がそばにいないと眠ることが出来なかった。なので何度も夜に呼び出された。
「お前ママ大好きだろ? 何でママじゃ寝ないの?」
俺は、幸のおでこに貼り付いた髪の毛を指でどかした。
幸の髪は肩辺りで切り揃えられていて、前髪も同じ長さなので、いつも額が出ている。
俺としては、長い髪をリボンで結っている、出会った頃の幸の姿が好きだったが、物心つく頃に、幸は自分でその髪を切り落としてしまった。
あのときは俺もママも驚いた。ハサミを手にしている幸が、さらに短くしようとしたので、二人で幸を止めた。
ママと俺で幸を説得し、「短くするのは肩まで」という協定をとりつけた。
それから、おでこ全開のおかっぱが、幸の定番の髪型になった。
「出会った頃はワンピースとか着てたのにな……」
俺は寝ている幸を見てため息をついた。
物心つく頃から幸は、Tシャツに短パンという男の子みたいな格好をしている。最近は暑いから、Tシャツがキャミソールかタンクトップになっているが、下は変わらず短パンで、寝巻きも同様だった。
暦は九月になったがまだ夜は暑い。クーラーをつけていても、寝汗で幸の服が肌にはりついていた。幸は体に凹凸がなく、痩せていて鎖骨が浮き出して見えるが、それでも俺にとっては大切な、守りたい女の子だった。
離れて見るとほぼ平らな胸も、間近で見ると成長しているのがわかる。
俺はやり場のなさを感じて、手は繋いだまま、視線を明かりが漏れる廊下にうつした。
四才の頃、庭で幸と出会ったあの日から、俺はどうしようもなく幸に惹かれていた。
幸が自分になついていることはしあわせだと思うし、幸のこの病を癒せるのが自分だけだと言う、今の状況もまんざらでもなかった。
開けてある扉から、廊下の光が入ってくる。
災害の夢を見たらしい幸は、その顔を涙で濡らし、瞼を赤く腫らしていた。
俺は濡らしたタオルで幸の顔を拭いて、熱があるときにするように、タオルを目の上に置いた。
「学校とか無ければ日がな一日幸を見てられんのになぁ……」
幸が外人であること。
顔立ちや肌の色、瞳の色が一人だけ違うこと。そして寝てしまう病気があることで、中学校での幸の存在は浮いていて、面倒なことになっていた。
「夜が明けなければいいのに」
俺がひとりつぶやくと、背後からトントンとノックの音が聞こえた。
扉を見ると、開け放たれたドアの前に、エレンママがお盆を持って立っていた。
キャミソールに短パンという娘とは違って、ママはシルクの白い長袖のパジャマを着ている。
普段は後でひとつにくくっている長い金髪も、夜だからかおろしていて、廊下の灯りが逆光になりその輪郭を照らしている。
ただでさえ絵画っぽいママの姿が、天使が頭に光輪を乗せて立っているように見えて、俺は手で目を擦った。
「Thanks for your hard work.ゴクロウである」
ママは変な日本語をつけて俺の前にミルクを置いた。
「サンキュー」
俺は軽く会釈をして、ミルクを飲んだ。
まだ暑いのでアイスミルクだったが、冬場はハチミツ入りのホットミルクを出すのがママの定番だ。
ママは俺がミルクを飲む脇で、幸の部屋のクロゼットを開けて布団一式をだした。
「あー、ママ、俺家に帰りますよ? えーと、アイゴーホーム」
聞いていないのか、ママは布団を出してシーツを敷く。
「ごゆっくりナサレヨ」
ママはまた変な日本語を言い、俺が前に使っていた枕を出して、きれいなタオルを巻いた。
俺は苦笑して固まっていると、エレンママは布団をもうひとつ並べた。
「We're all sleeping together tonight.共に」
「あー。ハイ……」
ここで寝ろと言うことか。
俺は苦笑いをして、ママが用意した布団に転がった。
ママは俺が寝転がったのを見て、満足そうに頷き、コップを片付けに部屋を出ていった。俺は幸の部屋の天井を見ながら、そっとため息をついた。
幸の母親には、俺が幼稚園の頃からずっと面倒を見てもらっている。
エレンママは、食事や幼稚園の送迎、そして多忙な父親が家に帰るまでの居場所を提供してくれた。
まあ、エレンママの家事能力は極めて低いので、ヘルパーの人や前にこの洋館に住んでいた老婦人、藤野さんにも多大にお世話になったけどね。
俺はエレンママの作るものすごく塩辛いおにぎりを思い出して苦笑した。
たとえ、世間知らずでも、家事能力が無くても、世間からしてみたらエレンママは立派な保護者だ。
もし俺の母が死んだときにエレンママがいなかったら、俺は保護施設に行っていただろう。それくらい俺の父は仕事が忙しく、また俺を引き取れる余裕のある親戚もいなかった。
幸のママと、俺をここに連れてきた幸には絶大な恩義を感じている。実際エレンママには頭があがらない。
なのでママに「ここにいろ」と言われたら逆らえない。ましてや幸に手を出すとか絶対に出来ない。いくら好きでも。
実際もう中二なんだから、食事も放課後の居場所も自分一人で問題無いが、「ただいま」、「おかえり」がない自分の家はなんとも寂しくて、人恋しさにこちらに来てしまう。
一見、幸が俺に依存しているように見えるが、実際はその逆で、俺がこの家に居付いてるんだ。
俺が眠らずにそんなことを考えていたら、ママが部屋に戻って来ていた。ママは俺の隣に寝転んで、俺の胸部をトントンと叩いた。ママはそのままゆっくりとした調子で、英語の歌を歌っていた。
廊下の灯りも消えて、闇のなかエレンママの英語の子守唄を聞いていたら、自然と意識が遠のいて眠りについた。
男女どちらとも主人公になります
数十年前に描いた絵を挿入しました
小さな信が理解していなかったので、初対面の英語の和訳はつけませんでした