14、永劫の闇の中から
上も下も、右も左も分からない完全な闇の中に、『私』はずっと囚われていた。
何故自分がここにいるのか、そして私とは誰なのか、そんな当たり前なことさえも完全に忘却していた。
覚えていることはただ一つ、女が泣いていたことだけだ。
闇の中に一粒の水滴が落ちた。
その水は青い波紋となり、光りながら闇を震わせた。その水滴はあたたかく、波紋は記憶を呼び覚ました。
――長い、黒髪の女……
こことは違う場所に囚われていたその女は、ずっと外に出たがっていた。
そして人に会いたがっていた。
神はそれを禁じていたので、彼女がそこに囚われていることは当たり前だと思っていた。
彼女の外に出たいという願いは全て拒否するべきだと樹木も肯定していた。
そのあたりまえの日常を破壊したのは彼だった。
彼は、彼女に憧憬し、愛し、そして同情した。
彼は彼女に体を与えた。
今思えばそれが全ての過ちだったと思う。
体を与えられた彼女は外に踏み出し、人々から愛され、憎まれ、そして殺された。
――彼女は外に出るべきでは無かった。
何度でも思う。
永遠に続く闇の中で、何度それを後悔しただろう。
あのとき私が彼女を外に出さなければ、彼女は殺される事も無かったのに。
青い波紋に導かれるように、闇の中に光が浮かんだ。春の新緑のような緑色の光に、私は眩しくて目を細める。その光は私を導くようにまたたき、声を届けた。
私はその光を知っていた。
その声を知っていた。
その声は、光を目指して進め、闇を抜けろと言うので、途切れそうな意識を繋いで、そのあたたかい、小さな手を握った。
そして、私は再び彼女に廻り会った。
◇◇
目を冷ましたとき、幸はまた自宅のソファーに寝かせられていた。
辺りは暗く、日は完全に落ちていて、網戸から入ってくる夜風がレースのカーテンを揺らしている。
私は喉の渇きを覚えてソファーから床に下りた。
「……あれっ?」
ただ立ち上がるだけなのに、いやに体が重く感じる。
歩いてキッチンにいくのが困難だったので、私は壁やソファーにつかまりながらよろよろと移動した。
しかし、ソファーからキッチンの扉までは距離があり、つかまる所が無かった。私は大きく足を踏み出して、扉につかまろうとするが、勢いが足りず、派手な音をたてて床に転んだ。
「……痛い」
肩と肘を思いっきりぶつけてじんじんする。
どうして体がこんなに重いのか、私はどうやって学校から家に帰って来たのかは全く思い出せない。
私が痛みにうめいて体を丸めていると、リビングの電気がつけられ、部屋は明るくなった。
「What happened,Kou?(どうしたの?)」
「ママ、転んだ。I fell」
「アラアラ タイヘン」
ママは私を起こして壁にもたれて座らせる。
そして私の熱を確認して頷き、キッチンから水を持ってきてくれた。
私は英語でママに聞いた。
『(ママ、私どうやって帰ってきた? 覚えてないの)」
ママは私に水を飲ませてにこやかに笑う。
「(歩いて帰ってきました。眠いと言って、ソファーでずっと寝ていたわ。信と私は夕飯をすませたけど、何か食べますか?)」
「(食べる、お腹すいた……)」
私は座ったまま壁に寄りかかり、ママの言葉に疑問を覚えた。学校を出た記憶はあるが、家に戻ってきた記憶は無い。
事のおこりはあれだ。菊子さんが信を好きだと言ったこと。私に信との仲をとりもてと言われたことだ。私はそれを了承した。してしまった。
「……うわぁ、どうしよう」
私は頭を抱えて足をじたばたしていると、ママは私を抱えあげて、ソファーに座らせた。
……世間知らずで方向音痴だけど、背が高くて力持ちなんだよなぁ、毎日坂を走ったり、ダンスの練習とかしてるからかな?
私がママを見ていると、ママは先日の余りのオニオンスープにパンを入れたのもをスプーンですくって、私に食べさせてくれる。
私はおとなしく一口食べて、苦笑いをした。
「(ママ、一人で食べられるよ。これじゃあ赤ちゃんだよ)」
私はママが持っているスプーンに手を伸ばすが、ママは首を横に振った。
「Open your mouth,(口を開けて)」
ママが笑って言うので、私は諦めて口を開けた。
熱々でもない、ほんのりあたたかいオニオンスープのパン粥は、心も体も弱った私の体に染み渡った。それは、世界で一番美味しいもののように思えた。
翌日私はママに助けられながら、重い体を引きずって通学した。
ママとは校門でお別れして、なるべく近い道を選んで教室に向かう。普段使わないルートだったせいか、体育館に通じるドアの前で先生に怒られてる男子が見えた。
部活あがりの体操着のまま怒られている男子生徒は信で、見ている私に気がついてあっちにいけと手で追い払った。
……信が怒られるとか珍しい
私は果てなく長いように思える階段を、手すりにつかまりながら一段一段上がっていく。
「もう、何で体こんなに重い……」
ママは風邪じゃないかと言っていたが、熱も怪我もなかった。ただ単に体が重くて、体の中心がへなっているだけだ。歩ける……。
私がヨロヨロと階段を上がっていたら、後ろから信が追いかけてきて、私の腕を信の肩にかけた。
「また弱ってる? 眠いか?」
信が支えてくれているので、なんとか階段を登りきれた。
「なんか、昨日から体重いの。眠くは……あんまりない」
「無くもないんだな? 保健室に行くか?」
信が私を心配していたが、私はまわりの視線が気になったので断った。
「信は先生に何言われていたの? 私のせいで怒られた?」
「んなわけあるか」
信は私の頭を軽く小突いた。
「昨日PCを壊した件で話をしただけだ。今日の放課後蓋明けて放電してみたいから先生に許可を取った」
「ふーん」
私は信が何を言っているのか分からなかったので適当に受け流した。信は教室に向かいながら一人呟いていた。
「ぶっちゃけPCはどうでもいいんだ、俺のSDカードを取り出したい」
「学校のパソコンは大切にしようよ……」
教室が見えたので一旦信から離れて、私が先に教室に入ろうとすると、信が私を引き留めた。
「コウ、袖に血がついてる」
「えっ?」
信が血がついてる場所を指で指し示すが、背中側だったのでよく見えなかった。血と聞いて思い出すのは暗い池と髪の長い青年だ。
「……」
私は呆然として教室の後ろで立ち尽くした。
なんで今まで忘れていたのだろう。あの、目の見えない人の事を、そして、池から引き上げた『あの人』の事を……。
池から来た『あの人』は何処にいるの?
もしかして私、あそこに『あの人』を置いてきてしまったの?
私は鞄を捨てて、身を翻して教室から飛び出そうとしたが、足がもつれて派手に転んだ。
「アホ、いきなり走り出すな」
信があわてて私を起こして私の膝を見る。
音につられて吉田もやってきて、私の膝を見て顔をしかめた。膝は床に打ち付けられ、裂けて血が流れていた。
「うわー、痛そう……」
「行かなきゃ……」
それでも教室を出ようとする私を、信がはたく。
「アホウ、もう先生来るから後にしろ」
「……でも、探しに行かなきゃ」
「何を?」
その騒動を見ていた菊子が、さっと私を背負った。
「羽間くんは先生に言っておいて? 保健室で手当てしてもらってくるから」
「助かる、ありがとう」
私は菊子に背負われて保健室に向かった。
そのまま私は保健室に寝かせて貰うことになった。
菊子は保険医に私を預けるとさっさと教室に戻った。私が動けないのはいつもの寝不足だろうと、強制的に寝かされた。
私はカーテンに仕切られた狭い天井を見て、フゥと息をつく。
ベッド脇のカーテンは閉められていて、カーテンの中には私しかいない。その筈なのに、私はベッドの隣に誰かいるような気がしていた。
夢の中のフレイが殺されてから、私はもうあの夢を見なくなった。しかし、今までに見た沢山の夢が、私自身の記憶であるかのように私の中に降り積もっている。
私は目を閉じて、昨日手を引いた彼の事を思い出していた。
最初に彼を見たのは育成ポットの中だった。
彼はその世界を構成する貴重な結晶から作られた、人の形をした竜だった。彼を作った子が、フレイにどんな姿がいいか聞いてくれたのでフレイは喜んで答えた。
――No.5は白い竜、白竜なの。
肌も髪も瞳も雪のように白くてとても綺麗な人よ。
名前は雪の白。レアナ・マクリーン。
No.6は黒よ。黒竜。
闇の中の月。アレクセイ・レーン。
『二人は双子で、単独では竜の姿になれないの。二人は同じものなのに天秤のように揺れていて、片方が怒って入るときは片方が冷静に慰めるのよ』
それを言うと、その子は笑った。
『竜は怒らないし泣かないよ、樹木に制御されている』
『あら、制御されているから悲しまないわけではないわ。双竜はお互いを支え合うために二人いるの。仲良しなのよ……』
いつの間にか寝ていたようだ。
私が目を開けると、保健室のベッドの脇に黒い服を着た青年が座っていた。常識で考えると驚いて悲鳴をあげる所だが、不思議なことに私は全然怖いとは思わなかった。
私はその人に向けて手を伸ばす。
『アレクセイ』
その青年はフレイの夢の中にいた人に見えた。
髪も瞳も服も黒く、肌だけが白い。
ショートカットが少し伸びたような髪型をしていて、前髪はとても長く、すき間から綺麗な形をした、つり目の目が見える。
眉は細く形が良く、とても綺麗な顔をしていた。
夏なのに、ハイネックの膝丈まである上着を着ていて、腰を黒い布でベルトのように巻いている。黒い手袋、黒いズボンに黒いブーツと、上から下まで黒い。なのに顔の肌の色だけが白くて、闇夜の月のようだった。
夢でみていたよりも、実際の彼は男性寄りで、背がとても高く、女っぽさは全く無かった。
先生が部屋にいるので、音声は発せずに口だけを動かして彼を呼んだ。
彼は頷いて、枕元まで来てくれる。
私はベッドから身を起こして、その手に触れた。
……あたたかい。
彼は、夢の中の人だと思っていたのに、ちゃんと感触があり、血が通っているようにあたたかかった。
『どうしてあなたはここにいるの?』
私が声を出さずに聞くと、彼は何も言わずに私を見ていた。
……そうだ、この人無口なんだ、必要がないとしゃべらない。
私はなんと聞こうか悩んでいたら、彼は私の手を取ってじろじろ見ていた。私の手のひらは転んだ時に赤く腫れて、血がにじんでいた。
『怪我、他にも』
『うん、昨日から何回も転んだからね、そこは痛くないよ』
私が笑うと、彼は私の手のひらに口をつけた。
「ひゃっ!」
私はビックリして大きな声を上げてしまった。保険医は気がついて私に声をかける。
「篠崎さん? 起きたの」
保険医が突然カーテンを開けたので、私は心臓が止まるかと思うほど驚いた。
私は枕元に座って、自分の左手で口を押さえて黙っていた。顔は耳まで真っ赤で、心臓は早鐘のように鳴り響いている。
「目が覚めた? 教室に戻る?」
私の目の前に長身の黒髪の青年がいるのに、保険医には私しか見えないようで、普段通りに話し掛けてきた。
私は首を横に振りつづけていたら、保険医は「そう」と言って、カーテンを閉めた。
私はずり落ちるようにベッドに寝転がり、フーッと息を吐いた。
アレクが私の顔を心配そうに覗く。
私は力なく笑って、彼の頭を撫でた。
……君は、人からは見えないんだね。
今度は思うだけだったが、彼には伝わったようで頷いてくれた。
私はその自分の手を見て気が付く。
……傷が、腫れが治ってる。
彼の口が触れた手と、彼の顔を交互に見ていたら、アレクは私の膝を指差した。
私の膝は手当てされて、大きな絆創膏が貼られていたが、血がにじんでいてズキズキと痛かった。
アレクが絆創膏を剥がそうとするので、私はアレクの手を引いて、「やめて」と顔を横に振った。
……こんなおおきな男の姿をしている人に膝にキスされたらショック死しちゃうからね!
彼はしばらく私を見ていたが、頷いて目を閉じた。
私は不思議に思い、じっと彼を見ていたら、彼の体から黒い霧が吹き出して、輪郭がぐにゃりと歪んだ。
そのまま彼は黒い霧になり、形がどんどん縮んでゆき、ドッジボールくらいのサイズになった。そのボールが割れて、頭と手足と長い尻尾が現れた。
アレクは黒い小さな猫に変わった。
『ニャア』
……変身できるんだ……傷を治したりとか、キミは魔法が使えるのね。
私は両手を伸ばして子猫を抱きしめた。
はじめて触れる子猫は、小さくて柔らかくてあたたかかった。
……かわいい
私は頬を緩ませて、子猫のスベスベした背中を撫でていたら、猫は手で膝を指した。
……膝はどうしても治したいのね、痛いのわかるの?
私は猫を脇に置いて、絆創膏をそっとめくると、打ち身と腫れと擦り傷のコンボで、本人も顔を背けるグロさだった。
黒猫は傷に怯まず傷口に近寄り、絆創膏を全部剥がせと私の手をつついた。私はえいっと絆創膏を取る。猫は「ニャ」と鳴くと、二度三度膝をなめた。すると傷が緑色に光った。
……おおお、治ってく
緑の光りはチリチリと音を出し、外側から傷を癒していった。膝の傷は見る間にかさぶたになり、腫れが引いて、傷跡も跡形なく消えた。
……やっぱり竜はスゴい。
私は胸がいっぱいになって、猫に向かって両手を伸ばした。猫は私の足の上を静かに歩いてくる。
『ありがとう、君は、とても優しい子……』
私は黒猫をそっと抱いて、柔らかい毛に顔を寄せた。黒猫は目を細めてじっとしていた。