13、交差する時間
私は熱に浮かされたように、ふらふらと帰路についた。
菊子さんははっきりと信が好きだと言った。それを元に、今までの彼女の行動を思うと、菊子さんが私に優しくしてくれる理由もはっきりした。
……ようするに、菊子さんは信に近付きたかったのだ。
信の隣の家の私に優しくすることは、信にもよく思って貰えるだろう。普段の信の様子もうかがえるし、より近付ける。その利点を思えば、いじめられっ子の世話なんて楽なものだろう。
……善意でも、好意でも無かった。菊子さんは、菊子さんの目的のために私に優しくしてくれたんだ。
「はぁ……」
所詮ヒトなんてそんなものか。己の利益あってヒトに近づくのだ。それはより良い遺伝子の獲得の為でもあり、自己拡大の為でもある。当たり前の事だ。傷ついたと、騙されたと思うのは私が間違っている。
……菊子さんの目的は信だった。
なら信はどうして私に優しくしてくれるのだろう? 信にも菊子さんのように利己的な目的があるのだろうか?
私は突然明かされた思惑と打算に打ちのめされて、暑さの中を泳ぐような気持ちで、とにかく足を前に動かした。
生ぬるく重い大気の先に信がいる。私は遭難者が島を見つけた気持ちで、その方向に向かって足を動かした。
……信に会いたい。
菊子さんの事を私から信に話すつもりはないけど、やはり信に会いたい。そばにいたい。
私は一心不乱に坂を上っていたが、歩調が狭まり足が止まった。
……ダメだ、会うわけにはいかない。
信は菊子さんが好きだろう。そして、菊子さんが信を好きというなら、相思相愛だ。明日にはふたりが付き合っていても不思議はない。信が私から解放されても、私が信を追いかけたら意味がない。
……何のために私は信を探してしまうのだろう?
私はダメだと思いつつも、察知する方向に向かって歩きだした。
通学路からそれて、私は見知らぬ公園に足を踏み入れた。そこは木の多い場所で、視界が悪く少し不気味だ。もしかしたら公園ではなく私有地かもしれない。
私は木々の間を抜けて、緩やかな傾斜を下りつつ、信のいる方に足を進める。ついた先には池があった。池のまわりには古びたベンチが置いてあり、そこに見知らぬ人が座っていた。
……あれ?
今まで信への探知が外れた事はなかった。
なのに私の目の前には、目の見えない人が持つ杖をベンチに立て掛けて、項垂れている茶髪の青年がいる。
青年は長い髪をうしろでひとつに縛っていた。少しウェーブのついた長い前髪を、顔の両脇に流している。その人は目が悪いのか、暗い色のサングラスをかけていた。
『そこにだれかいますか?』
その青年が美しい発音の英語で言うので、私は『います』と答えた。
『あなたは英語がわかりますか?』
『わかります』
『どこにいますか?』
その人は、両手をふらふらと前に出して動かした。私は恐る恐るその人の前に出る。私が目の前に立っても、その人は私を見ず、目を閉じたまま、足音を聞くように耳を傾けた。
……この人、目が見えないみたい
『ここにいます。どうかしましたか?』
私が青年の大きな手を握って聞くと、その人は安心したように微笑んだ。
『知り合いが扉から出られなくて困っています。手伝って貰えますか?』
『えっ?』
私は違和感をおぼえた。
私の狂った感覚はいまだにこの人が信だと告げる。しかし目の前にいる人は信よりもずっと年上で、背が高く、体つきががっしりとしていた。そして、信の父親が吸うタバコの臭いがした。
私は暑さに目眩を感じていた。
どこか遠くでサイレンの音が聞こえる。
足元がふわふわして、いま自分がどこにいるのかも曖昧になる。
私は早く帰宅したくて、用件を急がせた。
『そ、その知り合いの方はどこにいますか?』
『すぐそばに来ています。手を引きたいけど、私の手は彼に届きません。手伝って貰えますか?』
……この人は何を言っているのだろう? 彼って誰? 他に誰かいるの?
辺りを見回しても、薄暗い不気味な池と雑木林しか見あたらない。ここには私とこの人以外は誰もいないように見える。
ドクドクと自分の心臓の鼓動がうるさく感じた。本来ならば警戒をするべきなのだろうが、私はどうしてもこの人を手伝いたかった。
私の脳裏に、花咲く庭で泣いていた小さな男の子の姿が浮かぶ。
今目の前にいるこの青年と、小さな信が重なって見えた。
……私はこの人を助けたい。キミが望むなら、私は何だってするよ。
『どうすればいいですか?』
私は彼の手を両手で握しめて、彼の指示を待つ。
『一緒に同じ言葉を言ってください』
私は、その人がしゃべっているのが英語なのか日本語なのか分からなくなった。ただ、意味は分かるので、小さく頷いた。
その人は、座っている彼の前に私を立たせ、私を池に向かせた。そして白い杖を池に差し向ける。
『闇をさ迷う憐れな月よ、光射す方に進みなさい』
「えっ? 今なんて?」
今度は聞き取れた。日本語でも英語でもない言葉だった。その人は、夢の世界の言葉を話していた。
私は困ってその人の顔を見る。その人は私には目もくれず、周囲に耳を澄ましていた。
その人が動き、右手を前に出して、人差し指で池を指した。私はまた池を見るが、当たり前だが池には誰もいなかった。
『貴方も目を閉じて、今の言葉を続けてください』
『えっ?』
その人が言う言葉を良く聞いて、私はつっかえながら言葉を紡ぐ。
『……や、闇にさまよう月よ、光の指す方にすすみなさい……』
異世界の言葉を口に出すと、私の体が熱くなって、足元が緑に光ったような気がした。私はその人の言葉をよく聞いて、次の語句を口に出す。
『フレイレリーンの名において命じる、闇夜の月よ、その永劫の闇を抜けて我が前に現れたまへ』
……フレイ? どうしてその名前を?
私は一瞬疑問に思うが、その言葉を私が言うと、足元から光が吹き出した。光は回りながら池に向かって飛んでいった。
『えっ? えっ?』
盲目の青年は、困惑する私の肩に両手を置いてその身を引き寄せた。そして私の肩をがっしりとした手で捕まえて、左手で池を指し示した。
その池を指差す彼の左手には血がついていた。
……この人、怪我してる? さっきはなんともなかったのに。
私はその血が気になったが、彼は構わず私を前に向かせる。
『来るよ。彼をしっかり捕まえて』
『はい』
池から『彼』が現れるような気がして、私は池に向かい、思いっきり身を乗り出して手を伸ばした。池に落ちるかも知れないとは考えなかった。
……だって、この人が私を捕まえていてくれる。
私は池から現れた彼の手をつかんで、思いっきり引っ張った。
力が必要なのは最初だけだった。
『彼』の体は水から抜けると、とたんに抵抗を失い、ふわりと浮かぶように水面から飛び出した。
……来た。
私がそう思ったと同時に、私の意識が遠くなった。私は崩れるようにその場に倒れ込むが、池から現れた人が私を抱き上げたような気がした。
……あたたかい。私は、この人の手を知っている。
消えかかる意識の端で、その人の怒ったような優しい黒い瞳が見えたような気がした。
そのまま私は意識を失った。
子どもの頃住んでいた地域に底無し沼がありました。
そこには鳥居や祠などもあって、いまだに夢で迷い混みます。
古地図検索でその場所を見ていたら「彼岸澤」と書いてあって、怖さが増しました。