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12-5、変化


 ひんやりとした地下湖から、重い扉を開けると、白い壁に囲まれた広い部屋に出た。

 鳥のように優美な竜の像がふたりを出迎える。

 二の王はシェレン姫を連れて西の学舎に戻ってきた。


 祝賀会からずっと、シェレンはファリナ城で守って貰っていた。その間にカウズは終末に向けての準備をし、平行して塔での婚礼準備も整えた。

 シェレンは結婚式の衣装や、持参する調度品等を塔に運び、日々新生活の準備に明け暮れていた。

 カウズとシェレンは久々にふたりで風の塔に登り、風竜に挨拶をした。


「只今戻りました、風竜。長らくお待たせしましたね」


 カウズのまわりに風竜の小さな端末が風に舞って帰還を喜ぶ。シェンはその端末を手のひらに乗せて、ただいまのキスをした。

 風竜は空に舞い上がり、二人に柔らかな祝福の風を送った。



「かねてから、姫にお聞きしたいことがありました」

「何ですか? カウズ様」


 姫はパチパチと黒目がちな瞳を瞬く。カウズは右手を顎に当てて聞いた。


「姫って、小さい男がお好きですか? 何か、この体を気に入っているようなので……」

「そ、そのようなことはありませんよ、普段は小さい人をあまりお見かけしませんので、お世話に力が入ってしまったと申しますか、し、失礼でしたね、申し訳ありません……」


 混乱してうろたえるシェレンに、カウズは優しげに目を細めた。


「では、私が成長しても問題はありませんか? 私はサーラレーンとは違って、もとには戻せませんが」

「はい、カウズ様が成長されるのは、とても喜ばしいことです」

「そう、一般的な観念の話では無いのですが……」

「……と、おっしゃいますと?」


 カウズが何を聞いているのかを、理解出来ないと首を傾げるシェレンを、カウズはじっと見つめた。


「私が明日にでも、貴方の兄上のような年齢になっても、問題はありませんか?」

「カウズ様が、兄上に!?」

「年齢の話ですよ、人が入れ替わるという話ではありません」


 シェレンは目をぐるぐると回し、しばらく考えて、ギュッとカウズの手を握った。


「突然変わられたら驚きますが、私は問題はありません、むしろ、殿方は大きなほうが頼りがいがあって、よろしいかと思います」

「ならばシェンに頼られるよう、それなりに体を鍛えますね」

「……はい、私も強くなります。ええ、アマミク姫を目指します、二度とカウズ様を誘拐させません」

「アマミクを目指すのは止めてくださいよ」


 カウズは笑って、シェレンの肩を引き寄せた。シェレンはカウズの肩に頭をもたれて目を閉じる。

 カウズはシェレンの長い黒髪をそっと撫でた。


「……私、今まで老いたことがなかったのです」

「えっ?」


 姫は頭を上げてカウズを見る。


「アマツチも、アマミクも昔から青年以上には老化していませんでした。多分、私もまた青年期で成長が止まると思います」

「……はい」


 知っていた事を本人から伝えられて、シェレンはそっと目を伏せた。

 シェレンは数年で二の王の年齢を追い越し、老いて先に死んでしまう。そんな悲しい未来かふたりの間にはある。


「でね、今回は老いて見ようと思うのです。貴方にあわせて」

「そんなことが出来ますの?」

「アスラで、レーンから時の操り方をお聞きしました。まあ、私の体限定ですが、時を動かせるようになりました」


 カウズは姫に聞く。


「シェレンは、私が老いても愛してくれますか?」


 シェンはカウズを見て、何度か瞬きした。瞬きする度に涙が盛り上がり、頬を流れた。

 シェンはカウズに抱きついて、耳の側で言う。


「私、どんなカウズ様でも大好きです!」


 カウズとシェレンは抱き合って口付けを交わした。カウズはシェンの耳元で語る。


「……最初の一週間くらいで、貴方より背が高くなりますよ? 大丈夫ですか?」


 シェンはカウズの目を見て言った。


「だ、大丈夫ですよ! ちょっと心臓がもたないかもしれせんが、頑張ります!」

「心臓?」

「がんばりますので!」


 シェンは小さなカウズを忘れないように、その抱き心地を心に刻み込んだ。



◇◇


 異界での生活に慣れて来た。

 向こうの世界からものを調達しないでもいいように、畑も少しずつ広げていくつもりだ。


 アレクが言うには、動く水溜まりのような魔物が便利らしい。

 ゼロリーと言う名前らしい水溜まりは、なんと汚物を分解して肥料に変えてくれるとか。

 私は城のあちらこちらにいるゼロリーをバケツにいれて、トイレに置いたり、畑に置いたりと有効活用した。


 私のすることは、四匹の小鬼たちがすぐに真似をする。なのでゼロリー管理は小鬼に任せるようになった。



 生活が安定したなぁと慢心するのもつかのま、私は腹部に異常を感じて、トイレにいって青ざめた。


「……うああ、生理だぁ。ちゃんと血が出るやつぅぅ」


 私は久しぶりに感じた鈍痛と不快感に呻いた。

 私がベッドに腰かけて、生理用に布を細かく切って折っていると、猫のアレクが心配そうに私を覗き込んだ。


「病気じゃないから心配いないで、でもしばらくの間は辛いから、私から離れていた方がいいよ」


 アレクは何も答えず私の隣に座った。そのまま丸くなって目を閉じる。私はハサミをおいて、その背中をそっと撫でた。


「君はこれが平気なんだねぇ。まぞなの?」


 私はクスっと笑って、猫のアレクを抱き上げ胸に抱いた。



「食堂から、作りおきしていたパンとか二、三日分の水と食料を持ってこよう。そしてあたたかい樹木の部屋でしばらくこもっていればいいか」


 私はのんきに引きこもり計画を立てる。

 アレクを抱いて、カゴを持ち、厨房で食料を物色しているとレーンに声を掛けられた。

 いつもは用事がなければ寄って来ないのに、声を掛けられたく無い時に限って寄ってくる。

 私はカゴを手で隠した。


「フレイはどこか怪我をしているか? 見せてみろ」

「ひえっ! し、してないよ、大丈夫……」


 私があせってレーンと距離を取ると、レーンが詰め寄ってきた。


「魔物共が、お前から血の臭いがするというぞ? 下手すると食われるぞ?」

「……食っ!?」


 私は真っ赤になって、食堂の大きな机を回ってレーンから逃げた。するとレーンはひょいと机の上に乗り、私の前に立ちはだかった。

 すかさず猫のアレクが飛び出し、毛を逆立てレーンを威嚇する。

 私はアレクを抱き上げて、レーンをひっかかないように手で制した。


「レーン、心配しなくても大丈夫だよ。確かに血は出ているけどね。ファリナでは結晶になって霧散してたみたいだけど、ここでは普通なの……」

「何が?」

「生理……」


 生理と告げても、レーンは分からないと首を傾げた。

 前にカウズにばらされたときに説明をしておけば良かったと、今になって後悔する。


「えーっとですね、女は体の中に卵を作ります。それが使われないと体の外に排出します。頻度は一月に一度です。それと合わせて血が出るの。病気や怪我じゃないよ、五日くらいで終わる、うっとーしー体のサイクルです……」


 レーンはなるほどと相づちを打つ。


「そのせいでお前が無傷のまま、聖地やファリナが浄化されていたのか……」

「聖地のはよくわからない。でもファリナはそうみたい……」


 ……ううっ、信の姿をした男の子に生理の話をするのはイヤだ。恥ずかしくてしねる。


『レーン、離れろ。コウが困惑している』


 おそらく私の死にそうな気持ちに同調した猫が、レーンの前に立ちはだかる。

 レーンはふむと考えて猫に待てと言った。


「樹木の部屋とフレイの寝室のある階層は、小鬼も含め立ち入り禁止にする。俺がダメでクソ猫が良いというのがまったく分からないが、好きなだけ引きこもっていろ」

「あ、ありがとう……」


 私はおずおずとお礼を言った。


「ねぇレーン、どうしてここは血が結晶にならないの? 異界だから?」

「そうだよ。ここはあの世界から切り離しているから魔力を取られない。コウにとって、ここのほうが体の負担が無いんだ。向こうではよく寝込んでいたがここでは無いだろう?」

「向こうはいるだけで魔力消えていくのね……」


 私が真剣な顔をして考えているので、レーンはフフッと笑う。


「いや、体から魔力が抜け出るわけではない、摂取する魔力よりも、排出する魔力のほうが多いから、その分足りなくなっているだけだろう」

「摂取は食べ物ね? 排出とは?」

「血とか、汗とか、涙とか……」

「あ、よくアレクに舐められるやつだ」


 ……そして多分トイレもだね、回数や量的にトイレが一番魔力を失いそうだ。


 レーンはククッと笑って言う。


「魔力はなるべく消費しないようにしたのだが、勝手に血を流すとは思ってなかったな」

「ねえレーン、私の血って、何かに使える? 例えば聖地自治区の浄化とか……」


 それを聞くとレーンは露骨に嫌そうな顔をした。


「使えないならアレクに消してもらうけど……」

「それも勿体無いな……」


 レーンは少し考えていた。


「コウは今その血を持っているのか?」


 私は頷いた。血を吸わせた布をどこに捨てようか悩んでカゴにいれていた。布をかけて目隠ししている状態のカゴを出す。

 レーンが右手を前に掲げると、手に青い魔方陣が浮かんだ。私はその手に触れて発動を止めた。


「ん、やめるか?」

「違うの。レーン、信の結晶には限りがあるでしょ? どうせならカゴの中身を使って……」


 レーンは少し驚いたが、信がしていたように私の頭を撫でて、緑の魔方陣を展開した。

 私はレーンから一歩離れてその様子を見ていた。

 私の血は緑に光り、学院の泉で見たような透明な花に変わった。

 私は驚いてその花を一輪手に取ってみる。それは薄く緑の色がついたガラスのような透明な石で、光にあてるとキラキラと輝いた。


「キレイ……」


 ……捨てるはずのものがこんなキレイな花になるなんて。


 私はしばらく感心してその花を見ていた。


「これ、いっぱい集めれば信を帰せるかな」

「……まあ、可能だろうな、この量だと足りないが」

「どれくらい必要なのかわかる?」

「これの二十倍くらいかな」


 ……手元にある血は一日分だから、五日掛ける四で二十、四回くらい貯めればいいか。問題は、レーンに結晶化してもらうのはかなり気まずいな。


 私がうーんと悩んでいると、黒猫がニャンと鳴く。


「アレクは結晶に出きる?」

「ニャ」


 ……必要最小限の返事をされた。


 私がアレクの無口っぷりに呆れていると、レーンは笑って黒猫に手を伸ばす。

 レーンは猫を抱き上げて、よしよしと撫でていた。アレクもまんざらではないようで、嬉しそうに目を細める。


「レーンは猫が好きなの?」

「いや、生き物は何でも好きだよ。この形状は愛でやすいだけだ、こいつもそれを分かっていてこの姿をしているのだろう、変身出来るヤツの特権だな」


 レーンはそう言って、猫を私の腕に返す。

 私はアレクを抱っこして、カゴに入った緑の結晶をちらりと見た。


「色々教えてくれて、ありがとう、レーン」

「お前を閉じ込めているのに礼を言われるとは思わなんだ」

「私だって少しは考えるのよ? メグミクが生まれるまで、私はここにいたほうが良いのでしょう?」


 そう言うと、レーンは意外な顔をした。


「フレイとサーは、全員の王が生まれてから私を呼んでくれたら良かったのにね……」

「冒頭で世界を破滅する力が揃っていたら、俺は速攻でこの世界を壊したよ」

「……ひっ」


 レーンは平然と恐ろしい事を言う。

 出会った頃のレーンだったら、確かにそうしていただろう。レーンは社会性が欠如していて、直情的で思ったままに行動する、レーンは信と正反対の行動をする。


「だから、エレノア妃はお腹の子どもと死んだのかしら? レーンを止めるために?」


 ……レーンを穏和に変えるために、信が配置されたのだろうか? だとしたら、フレイの意図は私や信よりも、レーンのためにあるのかもしれない?


「信は、レーンの先生なのかもね……」


 ……人として生きていくための、ね……。


「は? 何言ってる?」


 ポツリと呟く私の頭をレーンはぺしりとはたいて、樹木の間を出ていった。



◇◇


 異界で共に暮らしても、レーンと私との距離は縮まらなかったが、小鬼達とは仲良くなった。

 私がパンをこねれば真似をして、沢山のパン生地を作り、私が歌えばその歌を覚えた。

 しまいには、カタコトだがこの世界の人の言葉を理解するようになる。


 ヒヨコのように私の後ろをつけ回す小鬼達を、私はとても可愛がって、いちろー、じろー、さぶろー、たろーと簡単に名前をつけて区別した。

 小鬼達はすくすくと大きくなり、一月程で私の身長を超えた。


「……わっ!」


 人型アレクがよくやる、私を抱えあげるのを、鬼の子らも真似して私を持ち上げて得意気な顔をする。


「たろくん、いきなり持ち上げてはいけません!」


 私は怒るが、呼ばれた子はケラケラ笑う。



「一月で背を追い越された、大鬼すごい」

「元から身の丈二メートルをゆうに越える種族だからな」


 レーンが竈を覗き込ながら私に答えた。

 私はアレクを胸に抱いてレーンに聞く。


「レーンは何でこの子達を作ったの? 兵士にするの?」

「ここまで温和に育って兵士は無理だろ。このままお前の助手で良いのでは?」


 私は今のままと言われてほっとした。

 私は先に焼き上がって冷ましていたパンに切れ目を入れる。


「レーンは何故魔物を沢山作ったの? 魔物が大好きなの?」

「人より純粋で単純で忠実だからな。お前の竜好きみたいなもんだろ」

「なるほど」


 私はレーンのパンにリンゴジャムを一匙落として、レーンに渡す。そして竈に戻りカモミールティーを淹れた。

 カモミールは前に火竜にあげたミレイのハーブだ。火竜は律儀に増やして、異界にも分けてくれていた。

 レーンはカップの波紋をじっと見ていた。


「彼らには重要な仕事があって、死んだときにそれが発動するようにはしている」

「……?」


 私はレーンが何を言っているのか分からなかった。


「そうだ、レーン、銀の盆はどこにあるの?」

「遠見の球の部屋にあるけど何?」

「世界に人が産まれなくなったのは、レーンがやったの?」

「ここ数年間は魔物を産み出すのに盆から光を割いていたが、それ以前は知らんよ。自然淘汰では?」


 私は猫を撫でながら言う。


「サーは人を嫌いになったのかしら?」

「寝てるのに介入して来んだろ、もう魔物は作らないから、お前が調整してみたらどうだ? まあ、魔力は使わないでほしいが」

「……やってみるね」


 私はパンを食料庫の棚に置いて、布をかけて厨房を出ていく。


「がんばれよ」


 レーンは甘いリンゴの香りがするお茶を飲みつつ見送った。


◇◇


 私は樹木のある部屋に来て、黒猫を地面に降ろす。


「アレク、人の形に戻ってください」


 私がお願いすると、猫は変化して長身の男性に変わる。常に不機嫌そうな顔をしている綺麗な顔立ちの黒竜にとまどいつつ、私は銀の盆の前に立った。


「どうする? コウ?」

「取り合えず、現状から把握しましょう。どれくらい割ける余地があるのかしら」


 黒竜は銀の盆に溜まる光の水を触った。


「……二十くらいしか割けない。何故にこんなに光が枯渇しているのか?」

「自治区でいっぱい浄化したのよ、塔に光は保管してあると思うのだけど?」


 もしかして、人に与える分の命が勝手に動植物に分配されてるのかな? パソコンのエラー的な?


 アレクは銀の盆に張られた光る水に手を浸けて、しばらく目を閉じていた。


「……回路に詰りがある、この詰りのせいで、光が他の回路に流れているようだ、直すには時間がかかる」

「時間がかかっても直せるのね? ならアレクは、銀の盆の修理を最優先でお願いね」


 アレクは顔を上げて、じっと私を見る。長身のつり目の美形にガン見されると冷や汗が出る。


「コウの体を守る事と、銀の盆の修理の優先順位を決めろ」

「えっと……はい、銀の盆の修理が最優先です。その間の護衛については、私もここでアレクと一緒にいます、ここには魔物が近寄れない決まりだし、私の護衛はしなくてよくなるからね」


 アレクは心配性なのか、首を僅かに傾げてこっちを見ている。


「……夜は?」

「夜は寝なさい、もしかして、夜寝ないで警護していたの? 寝室には魔物が入らないようにレーンが決めたでしょ、夜は一緒に寝ましょう」

「その決まりに、レーンは含まれない」

「レーンは寝ないもの、私の寝室には来ないわ」


 信は徹夜する癖があるからね、夢中になったら寝食忘れて作業をするのだ。掃除する前の埋もれたベッドを見ても、レーンは夜にベッドで寝ることは無い。


「万が一、夜にレーンが来たら?」

「その場合は仕方がないから、レーンも一緒に寝ればいいと思うわ、どうせベッドに書類を積んで寝る場所が無いのだろうし、仕方がない」


 私を見るアレクの眉が少しだけ寄せられる。今の会話で不興を買ってしまったようだ。そんなに怒られるようなことを言ったつもりは無いんだけどな。


 アレクの視線が痛くて、私は方向転換した。


「と、とりあえず、この前懐妊したファリナの兵士さんの所は無事かしら」


 私は遠見の球に移動し、懐妊した奥さんを見た。奥さんのお腹はかなり大きくなり、しあわせそうに小さな靴下を編んでいた。


「大丈夫だった。彼女は定期的に見守ろう」


 私は盆に戻って言う。


「二十は本当に少ないわよね、塔から送って貰えないかしら?」


 アレクは黙って私を見た。


「ここの命を削って各地に当てることはできる」

「駄目、それは駄目! ここ女の子いないから、もう増えないから駄目よ!」

「……では、現状の二十を三つの国に分担して、残り二は自治区に」


 私は頷いた。


「ひとまず六人ずつです。各王よろしくお願いします」


 私は銀の盆に手を置いて、祈るような気持ちで盆の光を見送った。


 ……もし最速で二の王がこの光を利用したとしたら、メグミクの誕生まで一年くらいになる。それまでに私は、レーンが使っている信の体と、信を日本に返さなくちゃいけない。


 どうしたら信の゛十四才の九月゛を越えられるのか、どうしたら信の魂を信の体に入れて、あの傷を再現しないように押さえられるのか……?


 私や信の奇跡を可能にするには、サーじゃなくて、私たちの神様にお願いしないと駄目なのかもしれない。

 そして、それが成功しても、やはり信とは別れなくてはいけないんだな……信には菊子さんがいるしね……。


 あの学院のシスターは毎日病院に通っていた。菊子さんが目を覚ませば、信も日本に帰って信のパパに会える。


 ……あの未来に繋げるには何をどうしたらいいのだろう。


 気が付くと、自然に涙がこぼれていたようで、頬を伝う涙が落ちて膝に跳ねた。


 ……信の事を考えたらメソメソしてくるなぁ……やめよ。


 私が伏せていた顔を上げたら、隣にいたアレクの顔がいやに近くにあった。白い細い輪郭に、闇夜のような黒目がちな瞳が目に入る。その顔がさらに近付いて、私の頬を口で撫でた。


「……ひぇ」


 涙を舐められるのは猫の時によくやられていたけど、ヒトの姿だと破壊力が違う。とても端正に作られたお顔が目の前にある。

 私は上気した頬を押さえながら、アレクの顔を押して遠ざけた。

 アレクはパチパチと瞬きをして、不思議そうに私を見た。


「……えっと……猫だと平気なんだけど、ヒトの姿で近寄られるとこう……心臓が持たないのでやめてほしい」

「何故?」


 真顔で聞かれても困る。

 アレク本体は男性のような姿をしているけれど、性別は無いのだから、ママやミクさんに対するようにくっついてもいいのだろうか? 信は羽間信の体に入ったレーンは危険だと言っていたが、アレクなら問題ない? いや、黒竜には何か思う所があるとか聖地でぼやいていた気がする。難しい。


「……コウは、ヒトにくっついているのが好きだ。猫とヒトの姿では安心感に違いを覚える。泣いている時は、この形のほうがいいのではないか?」

「それはそうなんだけどね、信に怒られそうだから、やっぱりダメかな……」


 アレクはしばらく黙って目を伏せていたが、体の表面に霧を纏い、私に向かって手を伸ばした。

 黒い霧から現れた腕は白く長く、左手の薬指にはプラチナの指輪をはめていた。黒い霧は金色の頭髪に変わり、霧の中から自分と同じ目の色を持つ、金髪の女性が現れた。


「……ママ」


 エレンママの姿をしたアレクは、そっと私の頭を撫でて、私を胸に抱いた。見かけはママだけど、匂いが全く無い。でもママの匂いは何時でも思い出せる。目を閉じるとママの好きな香水やシャンプーの香りが脳裏によみがえる。そして、ハーブや紅茶の香りも。


「どうして、黒以外の色を」


 ああそうか、今私の耳にはママの結晶がついている、アレクは私と契約したことで、その結晶から情報を読み取れる。レアナがファナとして塔で生きていたように。


 メソメソしている私を、アレクは最大限に甘やかしてくれる。いつも不機嫌顔なのに、アレクは優しい。そして自分はなんて弱くて情けない主なんだ……。


 私は顔を手で覆って涙を引っ込めようと鼻をすする。


「逆効果か」

「うう……ゴメン、悲しいのは君も辛いよね、すぐに涙引っ込めるから……」

「泣けばいい、気にしない」


 ……ママの声なのに、抑揚のない無愛想な言い方なのが可愛い。


 私の心が読めるアレクは、きっと見抜いているだろう。くっつきたいのは誰でもいいわけでは無いのだと。それは、アレクでも、信の体に入っているレーンでも足りない事を。

 私はやっぱり信の側にいたい。彼の側で、彼を見ていたいのだ。


 私は泣きながら、座っているアレクの頭に抱きついた。


 ……寂しい。一人は怖い。嫌われるのは怖い。死ぬのも怖い。信に会いたい、会いたい、会いたい……。


 そんな、押し潰されそうな不安をずっと一人で抱えてきた。


 私が嗚咽をこらえてアレクの頭にしがみついていると、アレクは私を抱えあげて、赤子をあやすように背中を叩いてくれた。その手つきが優しくて、余計に涙がこぼれた。


「ごめんね、アレク、ごめんね……」


 私はアレクにしがみついて、しばらく泣いていた。

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