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山に遺体を捨てたその日、せっかくだからと山頂まで登って行くと街明かりの向こう側に、月に照らされている海が見えた。近くで見たくなって遺体を運んで来た車で家に帰らずに海を見に行った。
着く頃には、べったりと肌に張り付いていた汗はもう乾いていた。月明かりしかない浜辺を歩いていると高校の同級生とバッタリ会った。
お互いにこんな夜中に出会うなんて、と驚いたが、懐かしさから浜辺に座って昔話をした。高校生の頃に合った出来事、あのときはああだった、こうだった、そう思っていた、あれはそれが原因だったのか。なんて話が盛り上がって、どちらも店や家に行こうなんて言わずに時間すら忘れて気づけば空が明るくなっていた。
さすがにもう帰ろう、と私が立ち上がると彼は私の連絡先を知りたがった。私の携帯は車に置いたままだったのでその旨を伝えて車が止めてある駐車場まで一緒に行った。
助手席に寝転がっていた携帯を拾って連絡先を交換しようとすると、どうして海に来たのか、と質問して来た。
遺体を捨てに山に行ったら海が見えたからとは言えずに、なんとなくとしか言えない、と答えた後にお前こそどうしてと聞く前に、これも何かの縁だ、と彼は昔話では語らなかった今の話をした。
しばらく家を空けなければならないんだ、俺は猫を飼っていて、その間世話ができなくなる。留守の間、代わりに猫の世話をしてくれないか。
どうして海に来たのか、と質問した後に何故そんな話をして来たのかが気になってすぐに返答できなかったが、絶対に嫌だ。とキッパリ答えると、餌をやるだけでいい。一週間だけでいい。と食い下がった。
悩んだということは別にいいかな、と少しでも思ったということだろう。と彼は私が返答に詰まったことを指摘した。勘違いを起こしてくれたのならその方がいいが、猫の世話はしたくはない。
お前の家はどこにあるんだ、と聞くと、この辺の近くにある、と街の方を指差した。私の住んでいる家はこの辺にはない、ここから車で一時間はかかる、だから世話をするのは無理だ、と苦笑すると、そんなところからわざわざ来たのか、と驚いていた。
失言だったが、だから早く帰らないといけない、と連絡先も交換せずに携帯を助手席に戻して、運転席のドアを開けた。
お前さえ良ければ、このあと予定がないのなら、家に寄っていかないか、と提案された。早く帰らないといけないと言った相手に対して予定がないなら家に、など矛盾している。強引に話を長引かせて猫の世話を頼むつもりか、それとも話し足りないのか。
一度帰らせてくれ、また連絡するから、と運転席から助手席の携帯を拾うと、今度は彼が、携帯は家にあるんだ、と言い出した。初めからそのつもりだったのか、それとも今思い出したのか、何も言わずに運転席と助手席の間にある収納からペンを取り出し、彼の腕に直接電話番号を書いた。
家に着いたら電話をかけてくれ、私も家に着いたら履歴からまたかけ直す。
彼と別れて宣言通り車で一時間弱かけ、自分の住んでいる二階建てのアパートに着いた。車から荷物を降ろして一階の自分の部屋に入る。近所付き合いが苦手なので、誰とも出会わなかったことにホッとする。
鍵をかけて、シャワーを浴びた。汗を洗い流してさっぱりすると、頭が冴えて突然体が震えた。
震える手で髪の毛を乾かしながらテレビをつけると、ニュース番組が流れていて、普段見ない子供向け番組に切り替えた。こんなに朝早く起きてテレビを見る子供なんているのだろうか。ぼんやりとアニメのキャラクターがご飯を食べているのを見て、昨日の夜から何も食べていないことを思い出した。
食欲はないが、習慣として何か食べようと台所に行くと、コンロにカレーの入った鍋があった。食べる気も起きずに三枚重ねた大きめの袋にカレーを入れて捨てた。
冷蔵庫の中を見るといくつか保存容器に作り置きの料理が入っていた。新聞紙に包んで捨てると冷蔵庫には何も残らない。炊飯器を開けてご飯の有無を確認してから、冷蔵庫から卵を取り出した。
卵かけご飯を作って食べると、ガリ、と殻を噛んだ。それが嫌になったわけじゃないが、それも捨てた。もういっそ全て捨ててしまおうか。引っ越す予定でもあったし、家具も荷物を全て捨てて、実家にでも……と考えて、昔のことを思い出して、今日同級生と出会ったことを思い出して、携帯を車に忘れて来たことも思い出した。
番号を一つ変えて書くんだった。そうすれば今後関わることはなかったと、考えても仕方がない。携帯を取りに外に出ると、二階の住人が駐車場で尻尾の短い猫を撫でていた。軽く挨拶をすると、餌はあげてないですよ、と聞いてもいない言い訳をした。疑ってませんよ、と言って携帯を持って部屋に戻った。
鍵を閉めて携帯を見ると知らない番号から着信が二件かかって来ていた。最後にかかって来たのは三分前。かけ直すと、数回のコールで相手と繋がった。
騙されたかと思った。と開口一番に言われた。騙そうとは思っていなかったが騙せば良かったとは思った。
そんなことするわけがない、と言うとそうだよな、とホッとしたように言った。今日はお前、仕事じゃないのか、と聞いてきたので、仕事ならもっと早く帰っている、と答えると、そうだよな、今何をしているんだ、とまた聞いてきた。質問ばかりだ。
お前の方こそ何をしているんだ、と聞き返すと、少し答えるのに躊躇したのか、間をおいてから、派遣会社で働いている、と言った。派遣する方で……。
それなら戸惑わなくても良いじゃないか。と言うと人手が足りなくて、自分もたまに派遣されに行くんだ、だから、派遣する方ではあるけど、たまに派遣される側で、大したことはしていないんだ、と言った。躊躇するのは、また何か、言わない訳があるんだろう。
働いているだけ良いじゃないか、と言うとそれで、お前は何をしているんだ? と改めて聞いてきた。
何もしていない。と言うと、ああ、と何かを察したようにそうか、と言った。電話越しに気まずさを感じたが、すぐに、じゃあ、と少し声のトーンが明るくなった。
一日五千円、一週間で三万五千円、でどうだ。
何がどうなんだ、と聞くと、猫の世話、と言った。そんなに困っているのかと答えに悩んでいると、毎日来てくれたら四万にする、と足してきた。
家にいないなら初日と最後の日だけ行って、毎日行ったと言ってしまえば、四万円が貰えるのではないかと邪なことを考えてしまった。それを考えると言うことは、少しやっても良いかもしれないと、どこかで思っているのかもしれない。
猫。猫か、猫の世話……。駐車場で見た猫は、誰かから餌を貰っているのだろうか、例えば、ペット禁止のこのアパートの住人に。
見たこともない家に行って、猫に餌をやる想像をした。やってくれるか? と不安げな声が聞こえて、いや、ちょっと、と戸惑っていると、遠いからなあ、とため息混じりに独り言を、もしくは私に対してつぶやいた。
それに返答せずに、いつからなんだ、と聞いてから言葉が足りなかったと思い、いつから家を空けなければいけないんだ、と足した。
彼は、明後日だ、と呟くように言って、電話の向こうで紙をめくる音がした後、月曜日の十五時に家を出る、とはっきり言った。
今日になるまでに、ペットシッターやホテルなんかを調べておけば良かったのにと思うだけで言わなかった。探したのかもしれない。ペットは住処が変わると大きなストレスにもなる。見つからなかった、見つけられなかった理由を考えたところで久しぶり会った私に頼んで来ている状況は変わらない。
うだつの上がらない私に甚だ苛ついていそうなので、いい加減結論を言った。
やってもいい、と。
その日の夕方、出会った海で彼と待ち合わせた。あの夜、家から山に行って、山から海へ行ったので、家から直接海へ向かうのに苦労した。散々迷った挙句になんとか海へたどり着くと、彼は、迷ったのか、と言ってきた。寝坊した、と答えた。
助手席に座る彼の案内で車を走らせた。街を過ぎて国道から外れ山道に入った。周りは木に囲まれ辛うじて存在する道路を進んで行くと突然左手に家が現れた。塀も何もなく、草の生えていないぼんやりとした入り口から敷地に入る。家の前の何もない土地で、ここに車を停めておいてくれ、と言われた。
白い車が一台停まっていたので、その車の隣に停めた。餌をやりに来たときも、この辺りに停めておいてくれ、道路に停めると車が通りにくくなるから、と言われて、この家よりももっと奥に家があり、しかも誰かが住んでいるのかと驚いた。
静かなところだな、と車から降りて辺りを見回しながら言うと、彼は、ご近所はあってないようなもので、畑も田んぼもないから重機の音も野焼きもない、と嬉しそうに話した。買ったのか、借りているのか、と聞こうかと考えたがやめた。
彼はポケットから鍵を取り出し、鍵を開けて家に入った。こんな田舎なのに、鍵は閉めるのかと思いながら、続いて家の中に入った。
左手に靴箱があり、その上に電話機が置いてあった。玄関ホールの奥には階段とその隣に扉、左右にも部屋の扉がある。靴を脱いであがると、右手にある部屋に案内された。
その部屋はリビング兼キッチンで、入ってすぐに大きい白いソファが目についた。その前にはガラステーブルが置いてあった。私の住んでいる安アパートには入らなさそうなテレビもあって、羨ましくなった。
こっち、と部屋の左半分にあるキッチの方へ呼ばれて行くと、シンクの下の収納を開けて蓋のついたバケツとコップを取り出した。蓋をあけると中にはシリアルのような猫の餌が満タンに詰まっていた。ペット用の計量カップでその餌を一番上のメモリまで掬うと、蓋を閉めてバケツを収納に閉まった。
餌を持って彼はソファの方へ向かった。入り口からは見えなかったが、ソファの陰に水の入った花柄の容器と、何も入っていない飛行機の絵が描かれた容器が床に置いてあった。空の容器に餌を入れて、彼は、私を見た。
これだけで良い。
分かった、と頷くと、守ってほしいことがいくつかある、とコップを持ってキッチンの方へ戻った。
まず一つ、餌は出しっ放しにしないこと、コップも餌も棚に入れて、戸をきちんと閉める。
二つ目、二階には絶対に行かないこと。
三つ目、家を出るときは、鍵を絶対に閉めること。
これだけ守ってくれれば後は何していても良い。勝手に住んでくれても良い。と、笑っていた。勝手に住むことは冗談だと思ってつられて笑うと、家は人が住んでいなければボロくなるから、約束を守ってくれるなら住んでいても良い、一階に風呂もトイレも寝室もある、と目を見てはっきり言った。
餌をやるために、遠くから通わせるということに罪悪感があったのか、それとも防犯のためなのかは分からないが、じゃあ、DVDでも持ってきて、この部屋で見て帰ろうかな、と言うと、ぜひそうしてくれ、と嬉しそうだった。
餌皿の隣にある水を指差して、この水は変えなくても良いのか、と聞くと、その容器はあってないようなものだから大丈夫だ、と断られた。私はそれを四つ目の約束として受け取った。
茶を出すから座っていてくれ、と言われたが断った。なぜ家をあけるのかは知らないが、それの準備もあるだろう。話だけを聞いて暗くなる前に家を出た。
彼は別れ際にも餌をやるだけで良い。後は約束を守ってくれれば、と言った。餌をきちんと仕舞うこと、二階には行かないこと、鍵を閉めること。と、私が繰り返すと彼は満足そうに家の鍵を私に渡した。
それじゃあまた、と車に乗ると彼は運転席の窓を軽く叩いた。窓を開けると、気をつけて帰れよ、と言った。
帰り道で、私は件の猫を見ていないことに気づいた。人見知りをする猫ならば、丸一日家にいても見ないこともあるか。餌をあげていれば一週間のうちの一日でも見かけることはあるだろう。
家に帰るために、私はまた海に行って、それから家に帰った。山の方へ行かなくても、出来る限り海沿いを走っていけば自分の住む町にたどり着くことに気づいた。ほとんど一本道だ。
それが分かっても、家に着く頃には真っ暗になっていた。暗くなったらあの山道を走るのは怖いなと考えながら車から降りると、部屋の前に何か置いてあるのが見えた。何か宅配を頼んでいたかと思案しながらよく見てみると灰色の猫が寝転がっていた。目を閉じているが耳はこちらを向いて警戒はしているのに、近づいても逃げない。尻尾がとても短くて、朝にいた猫と同じか、兄弟だと分かった。
ドアにぴったり引っ付いていたが、猫を気遣っていては部屋に入れない。鍵を開けて無理やりドアを開けようとすると猫はのそのそとゆっくり離れて、別の場所に寝転がった。人間に怯えない。慣れている。こいつはどれだけここで暮らしているんだろう。彼の家の猫は出てこなかったのに……。
部屋に入ると生ゴミの入った袋が目について嫌になる。明日は部屋の掃除をしよう。全て捨ててしまおう。服も、家具も、いつも見に行くだけのリサイクルショップにでも持って行こう。
以前リサイクルショップに行ったとき、ハムスターの小屋と、市販の床材や餌が半分と、トイレや給水器等が一式あったことを思い出した。恐らくハムスターが死んでしまい、もうこれらは必要なくなってしまったから売りに来たんだろう。これほど容赦なく、全て捨ててしまうのかと、商品を見て思った。なのに、今は私が全て捨てようとしている。
私に死を悼む権利などない。死を乗り越えて忘れようにも昨日の今日で気持ちが切り替えられない。残していったものを全て捨ててしまえば気が晴れるだろうか。遺体が見つかって捕まれば、少しは罪悪感でも芽生えるだろうか。