血の恐怖
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
君は何か、怖いものはあるかな? ここで訊きたいのは、何かしらの「恐怖症」と呼ばれる奴だ。
僕の母親は典型的な高所恐怖症。
本屋さんとかに置いてある、上の棚から物を取るための踏み台。あれにすら乗ることを怖がるんだ。
せいぜい高さ数十センチしかない、小さな台。
あそこから少しでも下を見下ろしたとたん、母親は、悲鳴をあげながら飛び降りてしまうんだ。上を見ている限りは、そんなことをする気配は全然ないのにさ。
これ、恐怖症を持たない人だったら、さぞこっけいに見えるだろう。でも、これをいじられるのは、本当に辛い。やめてもらいたい。
僕自身にも、恐怖症をめぐる体験があるんでね。
その時の体験話。聞いてみないかい?
一月ごろ、僕が小学生だった時。朝のホームルームで立たされていたことがある。
日直で何かの仕事をしていたか、何か忘れ物をしてしまったのか、理由ははっきりと覚えていない。ただ、立たされたまま先生の話を聞くことになったのは覚えている。
昨晩、学校の通学路近辺で通り魔の被害があったらしい、というものだった。職員会議で詳しい話があがったようで、先生は事故現場に飛び散っていた、血痕について触れてきたんだ。
被害者はすれ違う時に、刃物で切られたらしい。厚着をしていたためか致命傷は避けられたものの、腕をざっくりと切られて、アスファルトには赤黒い血だまりができていた……。
それを聞いたとたん、僕は思わず、体中に寒気が走った。実際、手足の指の先がぷるぷると震えているのを感じていたよ。
突然、取り出される刃物。断ち切られる服の生地。露わになった肌と、一瞬遅れて浮かび上がる傷と血の軌跡。手で押さえようと、溢れ出る赤いしずく……刃の光と、血のぬめりが、脳裏で同時にてかり出す。
その間も先生の話は続き、しばらく登下校は集団で行うこと。できる限り外遊びを控えることなどが呼び掛けられて、締め。僕も、「座っていいよ」と促された。
僕は自分のイスの背もたれを掴もうとして――できなかった。
つまむ程度なら何とか。でも、そこから先は力を入れることができず、ぷるぷると手全体が震えた。
もしも今、力を入れてしまったら、指や手のひら、手首や上腕、どこからか血が噴き出てしまうんじゃないのか。
そんな不安と、変わらず、頭の中で鈍く光り続けている血のしたたり。それを思うと震えが止まらないんだ。
震えるばかりで動こうとしない俺に、隣の女の子が「大丈夫?」と声を掛けてくる。
「ごめん、何だか力が入らなくて。イス、引いてもらっていい?」
隣の子が背もたれを掴むと、あっけなくイスは机の下から引きずり出された。どうにか足は動き、そこへ腰を下ろす僕。
かすかに後ろの席から笑い声が漏れたけど、僕はそれに構うことなく、両手のひらに浮かぶ汗を、ズボンの太もも当たりでごしごしと拭う。
その両拳は、まだしっかりと握り込むことができずにいた。
それからだ。僕が血や、それを臭わせるような言葉や文字を見ると、力が抜けるようになったのは。
血という言葉、目にしても、口にしても、耳にしても、瞬時に頭の中で、あの通り魔事件を聞いた時にイメージした出血と血だまりの現場が、反芻される。
文字通り、胃の中で消化しきっていたはずのものが、またたくまに食道を逆流して口の中へ溜まり込んでくる。吐き出さんばかりの勢いを伴って。
そうやって持ちこたえている間が、あの手に力が入らず、震えにつかれる時間。
もしも「吐き戻して」しまう時があれば、きっと僕の皮膚の内側からも血が噴き出し、頭の中で思っていた光景が実現してしまうんだ――。
この発作に襲われると、僕は鉛筆すらまともに握れず、取り落としてしまい、息切れもしてくる。
ひたすら血のことを考えないようにしながら、また汗をかき始める両手を、服やズボンでごしごしとこする羽目になるんだ。
短い時間で行う漢字テストで、血に関する熟語が出てきたりすると最悪。
ほぼ爪の先だけで鉛筆をつまみ、ぎこちないタッチで書くより他になくなり、解読不能とされて、バツを食らうんだ。
この症状のことを、みんなに話すと笑われたよ。実際に力が入らない時には、まるで見世物のように、遠巻きに僕を眺めて、くすくす笑うんだ。僕が熱心な道化師に見えてしかたなかったらしい。
家族にも相談をした。
「誰だって、怖いものを持っているさ、気にするな」と、一応、理解は得られたけれど、治療法に関しては分からない。
病院に行くか? という意見も出たけど、僕は反対した。
行くとなれば、おそらく平日の学校に行く前に向かうことになる。遅刻する可能性が高い。
みんなが揃っている教室に、後からのそのそと入っていく――度胸がなかった。
ひとまず、血液関連からはできるだけ距離をとり、様子を見ることになったけど、生傷と隣り合わせの年齢じゃ、それも難しかったよ
体育の授業の時だ。
この時期、校庭のトラックを使った持久走が行われていたんだけど、すぐ前を走っていた男の子が、不意に倒れたんだ。
ろくに手をつかず、頭から転んだから「やばい」って、僕にも分かったね。不幸中の幸いで、身体はトラックの内側へ転がり込み、他の人の邪魔にはなりづらい。
すぐさま僕も走るのをやめて、近くへかがみこんだけど、すぐに足から力が抜けてしまう。
うつぶせになった彼の顔の辺りから、じんわりと血がにじんできたんだ。顔の中ほどの位置からだったから、鼻血だったんだろう。
他の走っている子たちは遠く、最初に駆けつけてくれたのは先生だったんだけど、その間の十数秒、僕は彼に対して何もできなかった。ただその場に崩れ落ちて、抜けていく力のままに震えているだけだったんだ。
先生が尋ねてくることに対する受け答えはできたけど、いざ先生が彼を抱きかかえる時には、目をそむけてしまった。
彼の顔についているであろう血、地面に残されているであろう血痕、そのいずれも見たくなかったんだ。
彼が運ばれていく中、ついていくことも、見送りもすることなく、背中を向けて目を閉じて、必死に手を体操着の裾にごしごしとこすりつける男。道化師に加えて「薄情者」のレッテルを貼られるのに、そう時間はかからなかった。
僕が血液に関することで腑抜けになってしまうことは、もうクラス内に完全に知れ渡っていた。そして格好の攻撃材料を見つけた男子どもは、先生の目を盗んで、僕に「克服特訓」と称して、嫌がらせをしてくる。
本やネットから仕入れてきた、スプラッタな画像を見せてくることに始まり、これ見よがしに血が含まれる小説のワンフレーズ朗読。ノートや教科書に、でかでかと「血」の一字を書きなぐるなど、数に任せた暴力だった。
目を閉じれば耳から。耳を塞げばその手をどけられ、血の小節が注がれる。
そうなるともう僕は抗う力さえ無くしてしまい、もう彼らが飽きるか、先生がやって来て退散するかのどちらかを待つしかない。
それが連日のことで、僕は疲れ切っていた。授業中にもスキを見ては「血が出た!」って僕にだけ聞こえるようにつぶやいてくるもんだから、力は抜けっぱなし。このところ手足ばかりでなく、体中が震えるようになってきている。
――これを一度でも味わわせられたら、こんな気は起こらないだろうに……くそ!
放課後。その日も男子の人垣ができていて、僕は帰ることもできず「特訓」に付き合わせられた。
目を無理やりこじ開けられて見させられたのは、とある事件の写真。血だけでなく、その出どころである「人の一部」も紛れ込んだ、およそ小学生が見るべき画じゃない、猟奇的なものだった。
もう、耐えきれない。僕が叫ぶと、震えを越えて、胃から湧き上がってくるものがあった。
痛い。それが通るのどの奥が痛くてたまらない。鼻がツンとする。目を閉じずにはいられない。
こじ開ける指を、頭を振って無理やりほどき、机に突っ伏す。それをいつもの逃げの姿勢と思ったか、連中は「血の朗読」へと切り替える。
手は震え続けて力が入らない。残っているのは、口のすぐ手前までたどりついてうずいている、痛みの塊だけ。
――もう、どうとでもなれよ。
僕が大きくえずいて、その塊を吐き出す。喉や口が一気にズキンと痛んで、それっきり力が抜けてしまったんだ、
気がついた時。僕は病院のベッドで寝かされていた。
すぐそばには両親の姿もある。下校時間になって学校を見回っていた先生が、救急車を呼び、僕たちのことを運んで、親たちにも連絡してくれたらしい。
「たち」という言葉に、僕は引っかかる。もしかして、連中も病院に来ているのだろうか。でも、発作が出た僕ならともかく、どうしてあいつらまで?
僕の質問に対し、両親は最初の問いだけ答えてくれた。彼らはひとり残らず、この病院に運ばれていると。
でも、それがどうしてなのかは、適当にはぐらかされてしまったよ。
気がついたことで、お医者さんが身体を診てくれる。特に問題はなさそうだが、一応、今晩と次の日の午前中までは、病院にいるように言われたよ。
二日後。向かった学校には、あの日のメンツは一人も登校していなかった。
「特訓現場」として使われていた、僕の机と四方の二席付近は、入念にワックスがけをしたようでピカピカだ。
そして担任の先生も休み。代わりの先生が授業を進めてくれることに。
結局、数ヶ月後まで状態は変わらず、クラス替えを迎える。その過程で、僕に特訓を施していた連中は、もれなく別のクラスになってしまったよ。
僕が吐いてしまった後に何があったのか。それはあれから尋ねる機会がなく、今も謎のまま。でももしかすると、親の言葉が的を射ていたんじゃないか、と僕は思っている。
――誰だって、怖いものを持っている。
ひょっとしたら血を怖がっていたのは、僕ではなく、僕が持っている何かだったのかもしれない。
それがあの時えずいたことで、連中の目の前に、さらされたんじゃないかな。