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ヤマダヒフミ自選評論集

川上弘美「センセイの鞄」の他者性の無さ  

 

 最近、ライムスター宇多丸の映画批評が好きになって聞いている。一番唸ったのは、「ドラえもん スタンド・バイ・ミー」の批評だった。


 宇多丸の批評は特に、こきおろしている時の、怒りと論理とが噛み合わさった感じが心地よい。自分も聞いている内に同じような事をやってみたいと思ったので、真似てみようと思った。批評の対象としては「川上弘美」の「センセイの鞄」を取り上げる。先に言っておくと、川上弘美に私怨はない。川上弘美ファンがこの文章を読む事があれば、鼻で笑ってもらえれば良いかと思う。


                      ※



 まず、先に確認しておきたい事だが、川上弘美という作家のジャンルは「純文学」と言って間違いないだろう。川上弘美は芥川賞受賞者であり、芥川賞の選考委員を十年以上も努めている。「センセイの鞄」で谷崎潤一郎賞も取っている。文壇の真ん中にいる人だ。形式的に、世間的にも、「文学」をやっている「プロ中のプロ」と言っても良いかと思う。

 

 それにもかかわらず、自分などには疑問なのが「え? 川上弘美って『文学』なの?」という事だ。


 もちろん、「文学」とは何か? というのは結局定義の問題だし、これはなんとでも答えが出る。定義の話をすれば水掛け論になるし、こういうものははっきりした境界を定める事はできない。仏教哲学の「不生不滅」という一語が、生とか死の定義の不可能性を伝えているが、それが正しいと思っている。


 だから、今から言うのは「川上弘美は自分の中の文学の定義から外れていると感じる」という話である。「それだったら客観的答えじゃないだろ」と思う人は、客観的答えとは何かについてよく考えて欲しい。しかし、この話をしている暇はないので、先に進む。

                       

 さて、まず、自分がイメージする「文学」とは何かを話す。文学と言われれば、ケルアック、サリンジャー、カフカ、太宰治、小林秀雄らを思い浮かべるし、もっと大きく膨らんでくると、バルザックだとか、ドストエフスキー、シェイクスピアというような存在になってくる。

 

 どこまでも「文学」をするか?と言うと、人によって答えは違うだろうが、自分の基準の中では、村上春樹・村上龍は文学だなと感じる部分がある。だから、村上春樹を批判する文章を以前に書いたが、それは川上弘美に対するのとは違う態度になっている。川上弘美に対しては「え? これが文学? どこが?」という感じだが、村上春樹は、「これは文学だけど、ちょっとおかしいんじゃないか」というようなもので、違いがある。


 だから、今から言うのは、そういう自分の基準と、自分から見た作品の価値との乖離についてであり、「いや、別にあれはあれでいいじゃん」という人はこの文章を読む必要はない。これから述べるが「それの何が悪いの?」「別にそれでいいじゃん」「売れてるからいいじゃん」という人は、正に、川上弘美がその中にいる「同一性」の中にすっぽりはまっている人である。だから、そういう人は「それでいい」わけである。それでいいわけだ。


                        ※


 内容に入る。まず、「センセイの鞄」という作品を一読して感じるのは「キモチワルイ」という事だ。わざとカタカナにして書いたが、そもそも先生を「センセイ」とカタカナ表記にする所から、「日本の文学」を「ニッポンの文学」として、その浅はかさを「わざとやってる」風にするような、そういう気持ち悪さがある。悪口ばかり言っても仕方ないので引用してみよう。



 「ツキコさんてひとはね、ちょっとばかりおセンチなんですよ」突然センセイの声がしたと思ったら、センセイはすぐうしろの木の陰からひょいと現れた。



 これが「センセイ」と呼ばれる主人公の恋人だ。主人公は四十前のツキコという女で、恋人は「センセイ」という七十近くの初老の男。年の差カップルの話だ。


 正直、引用するだけでも気持ち悪いのだが、センセイは自分の事を「ワタクシ」と言う。「おセンチ」だとか、平気で言う。「おさげの女」という古い言葉も平気で使うし「ツキコさんは、巨人がお嫌いですか」なんてバカ丁寧な質問をしたりする。


 この文章をこうして書いているだけでもテンションが落ちていくのが自分でわかるが、この作品は、センセイとツキコという年の差カップルのイチャイチャを延々と見せられる話だ。これは誇張ではなく、本当にただ延々とイチャイチャしている。一応、仲違い的な場面も描き出されるが、(どうせイチャつきに戻るんだろう)という目で眺めていると、そのとおりになる。


 この小説自体、そんなに語れるものがないのだが、まず、キャラクター達の幼児性というのが目につく。センセイというのは、結構年を食っているのに小学生みたいだし、ツキコという女も四十前なのに、こちらも小学生みたいな印象を受ける。



 「ツキコさん、そんなにくっつくと、ワタクシは恥ずかしいです」

 「さっきはセンセイから抱き寄せてくれたのに」

 「あれは、一世一代の決心でした」

 「でも、センセイの抱き寄せかた、なれてました」

 「そりゃあ、ワタクシはかつて結婚もしておりましたし」



 …とまあ、こんな調子である。それほど説明する必要もないだろうが、こんな二人の、自己批判のない、同一性の中に溶けたバカップルのイチャつきを見せられるわけである。だから、この作品が受けたという事は、このイチャつきに自分を同化させる事ができた人がそれだけ多かったという事だろう。


                      ※


 宇多丸が、荻上直子映画や、「ルーキーズ ー卒業ー」、映画「食堂かたつむり」に対して「他者性がない」という批判をしていたが、その批判が全く、「センセイの鞄」という作品に当てはまると思う。

 

 この作品はセンセイとツキコのイチャつきを延々と書いた作品で、他者というものが一切ない。ただ、通路で他人を妨害しようが、二人の間だけで気持ちよければいいというそういう作品だ。

 

 そもそもが、このセンセイというキャラクターには明らかにリアルさが欠けている。最初から空想的な描写で、作者の「理想の男性」を描いたものかもしれないが、それにしても、意図が低すぎる。あるいはこれが「少女漫画」というジャンルなら「そういうものだよね」となるが、一応、著者は「芥川賞の選考委員」だし、「純文学」なのだろう。自分の文学という観点からすると「これが文学?」と思ってしまう。


 例えば、作品の最後に「はじめてわたしはセンセイに、強く激しく抱かれた」という一文があるのだが、センセイはもう結構な年である。男性から言えば、その年でちゃんと勃起するのか?と疑問だし、「ツキコさん、ちょっと待っててください。今、バイアグラを飲みますから」とかいう描写があってもいいはずだが、もちろん、そういう描写をすると、少女漫画ファンタジーは崩れてしまうから、そういうものは描かない。ただ、「強く激しく抱かれた」という一行で終わらせる。


 というか、センセイというのは、全体的に、「去勢された男性」というイメージが強く、「女子が考える素敵な年上のセンセイ」という以上のものは何もない。だから、このセンセイは「強く激しく抱く」事が可能なのか? そんな男臭さ、生々しさは全然見当たらないけど、大丈夫なのか? 一体、どんな行為だったんだろう? と疑問になるが、そういう生々しさは作者は避ける。しかし、現実の生々しさを避けて、これが「純文学」だとするなら、「純文学」って何なのだろう。


 それから、ツキコという女も四十前なのに、まるで十四、五の「恋する乙女」という感じで、幼稚過ぎるのだが、こう言うと、十四、五の聡明な女性に対する侮辱になってしまうだろう。とにかく、ツキコもセンセイも極めて幼児的で、ツキコは「センセイ、センセイ」と延々やっていて、センセイも「ツキコさん、ツキコさん」とやっている。特に、センセイがツキコを抱きしめるシーンがあるが、少女漫画以外のなにものでもない。カップルが目の前でイチャついている所を見せられるので、「えー、帰っていいっすか?」という感じにしかならない。


 宇多丸は、上記の映画作品を批判する際に「他者性がない」と指摘していた。この作品も、他者不在のファンタジー作品なのだが、それを示す場面がある。というのは、「他者」が二人の世界に闖入する場面があって、そこが緊張感のあるただ一つの描写だからだ。そこを抜き出してみよう。


 (途中、小島孝とかいう男が出てきて三角関係になりそうになるが、これは明らかにセンセイとツキコの仲を盛り上がらせる為に形式的に出ているので、緊張感はない。その場面は無視する)

 

 

 「おたくら、どういうんですか」

 突然、男が話しかけてきた。男の皿の上の昆布もはんぺんも、ほんの少しちぎりとったままに置いてある。四本目の徳利から自分の盃にそそぎながら、男は酒じみた息をこちらに吹きかけるようにする。男の耳のピアスが、きれいに光っていた。

 「どういうとは」センセイも徳利を傾けながら、答えた。

 「あのさ、いいご身分だよね、おたくら」笑いながら、言う。笑いに、妙なものが混じっている。

 


 …しかし、この手の作品というのは妙というか、面白いと思うが、こういう作品の場合、しばしば、作者が「間違っている」「異常」「おかしい」と思っている方のキャラクターが真実を語る。すなわち、作者にとっては、間違っていると思われる方が正しい事を言ってしまう。 

 

 それにしても、こうして抜書してみると、描写の部分から悪意に満ちている。これは飲み屋で絡まれるシーンだが、相手の男は年の差カップルにイラッときて絡んできたらしい。男は、「耳にピアス」をしていて「酒じみた息」を吹きかけてくる。男が嫌な奴だというのを示す為に、食べ物をちぎって置いてある、という描写がされる。


 宇多丸の言うように、こうした「自分達だけの世界」では、「他者」に対しては極めて辛辣である。イチャついているカップルが、二人の仲を阻害する人間に対しては非情になるというようなものだ。センセイとツキコに絡んでくる男はわざとらしく悪意ある描写がなされていて、極めて類型的だ。しかし、僕には男の言う通り、この二人は「いいご身分」だとしか思えない。


 この二人は、金銭的に苦しむ描写はされない。また、何かに苦悩したり、懊悩したり、葛藤を抱えている様子はなく、抜け殻のような甘えた生活を送っている。ただ二人でイチャイチャしている。自分達の仲を阻害するような、「柄の悪い男」は悪意ある人間であるから、どうなってもいいわけである。作者も、二人のカップルと同じ目線で男を見る。例えば、柄の悪い人間は何故柄の悪い人間にならざるを得なかったのか?なんて面倒な問題は考えない。自分達の空間を乱すものはみんなクズでしかない。ここで、たおやかだとか、やんわりした優しい雰囲気は、「他者」に対していかに排撃的になるかがよく示されている。それは男に対する悪意ある、類型的な描写として示されるのであって、本当の世界、現実の過酷な世界は、この作品の外にずっと続いている。しかし、この作家はそれらを全て拒否する。そして自分達のイチャイチャ空間に閉じこもり、それ以外の全てを否定する。内部においてだけ、ふんわり優しい空気が現れる。


 絡んできた男は、ほんの少し作品に出てきただけで退場させられる。センセイは密かに、男のピアスを盗んできて、それがささやかな復讐とされて話は終わる。


 結局の所、この作品は上級国民たる「センセイ」「ツキコさん」のたおやかな雰囲気を延々と描いたもので、その空間以外のものは存在しない。それ以外のものは、「絡んでくる男」のように、悪意のある見方をされて、作品外に追放される。


 宇多丸メソッドをメタな構造にも採用すると、こういう小説並びに、この作品の読者、作者からすれば、今自分が書いているこの文章も「他者」でしかないという風になる。つまり、ヤマダヒフミも、僕の文章も、自分達の雰囲気を壊す敵としてしか感じられないだろう。そうなると、僕も上述のような悪意ある描写の中で、彼らの世界から追放されるだろう。彼らの視界に入る事がもしあれば。(そもそも視界にすら入らないのだろうが)


 世界は全きものとして完成された。ここは歴史の終わりであり、そこに入ってくる闖入者はさっさと外に放り出せばいい。後はセンセイとツキコさんがイチャイチャして終わりである。二人は時に喧嘩もするだろうが、またくっつく。くっつく事はわかりきっている。


 伊藤計劃という作家は、現代の日本では、唯一と言っていいほど、「思想」を持っていた作家だったと思う。伊藤計劃は、「自分達の世界さえ良ければ、世界の外の人を犠牲にしても良いのか?」「自分達がシステムによって救われる事は本当に善か?」という問題を考えていた。そこには、他者に対する目があり、同時に、自分達が自分達に閉じこもる様への正視があった。川上弘美には、そういう目はないし、むしろ、そういうものを考える人すら彼女の世界から放り出すだろう。そして、こういう作品がベストセラーとして売れる世界に自分達は生きている。世界は、ある意味で川上弘美的に完成された。他者なき世界は完成された。しかし、その外側に密かに排出した「ゴミ」は必ずや、復讐の機会を伺っているだろう。


 川上弘美からすれば、僕という人間も「ゴミ」の一種であるだろう。それにしても、こういうものが文学だとすれば、何が文学なのか、自分にはわからなくなる。この作品は、ただ自分達に気持ちの良い空間を描き出し、それ以外の現実は捨て去った作品である。真実ではなく、幻想でしかない。こういう幻想は長持ちしないが、それは大多数の人間が同時に夢見る事によって、普遍的であるように信じられる。こういうものが文学だと言われる限り、文学は社会に対して何の影響も与えられないだろう。文学が、もし社会に影響を与えるとすれば、それは文学が社会から見捨てられる事を覚悟していないと無理であろうと思う。


 外部なき世界に発展はない。川上弘美的幼児の戯れる世界の内部で、彼らはその世界を守る為ならどんな事でもするだろう。彼らはその世界を守る為なら、どれほどでも残酷でもなれるだろう。しかしその残酷さも見えない覆いをかけて、綺麗に包み込んで消されてしまう。残酷な現実は描かれるのではなく、ただ彼らの世界から追放される。誰かが苦しんでいても、悲しんでいても、彼らの世界の論理を認める限り、彼らは自分の世界に入れてやる。苦しみや悲しみ、苦悩は疎外されている。そういうものを疎外して「文学」というものはありうるのか。人間というのは何だろう。


 自分達だけがそれでいいとしたら、後の事はどうでもいいわけである。仮に子供の頃から虐待されて、その為に心が壊れた人間がいたとしても、「センセイ」も「ツキコさん」も冷たい視線を向けるだろう。この人間が酒場で絡む人間となって現れて、その人間にも何らかの運命があったとしても、同じ人間という資格すら、与えてはくれないだろう。世界は単一のものとしてある。作家は現実を冷酷に描くのではなく、現実を排除する。その排除に冷酷さがあるとしても、誰もなんとも思わない。だって、他人だもの。

 

 そんな世界がいつまでうまく回り続けるかはわからない。きっと川上弘美という人は幸福な作家であろうし、幸福なのだろう。幸福な作家は良い作家だろうか。気持ちよくなれる、楽しい面白い、「ワタシタチ」は素晴らしいものだろうか。世界はこの作品の外に続いている。自然も現実も真実も、全てこの世界からはみ出ている。


 かつての文豪の仕事は、世界を己の力でねじ伏せようとする苦しい努力だった。今はその努力はいらない。そんな苦しまなくても、幸福になれる。僕達は川上弘美を読み、共感し、同意し、感動して本を閉じる。すると、世界が今まで明るく見えるのか。もちろん、そうだろう。世界を幻影で覆い、自分達の悲惨から目をそむける。非人間的な、生々しさを欠いたセンセイとツキコさんが残る。そういう世界で僕達は永遠にメリーゴーランドに乗っている。このメリーゴーランドの上で、僕達は生きて、死ぬ。しかし、この汚れた遊園地の外側には、現実という、醜いがそれ故、本当に美しいものが待っている。本当の作家は、外の世界に目を向ける。しかしそれ故に、彼は内部の人達には嫌われてしまうのかもしれない。


 




 (本来はもっと本文を引用して精密に論じたかったのだが、いくらページを開いてもあまりにも中身がスカスカなので、できなかった。どこでもイチャついていて、本当にそれだけである。こんなものが文学なら、文学というのは死んだ方がマシだろう。最近、黒子のバスケ脅迫事件の犯人が書いた本を読んだが、彼は実際犯罪を犯して捕まったという所から、「自分とは何か?」という問いを発して、その答えを自分なりに掴もうとしていた。もちろん、犯罪それ自体は否定されるべきものだが、自分に対する疑問がない作品というのは、読むに足りないと思う。


 それにしても、ある時代、ある社会において「雰囲気」で肯定されているものが次の時代には流れ去ってしまうという事情というのが、自分にもよく飲み込めてきた。漠然とした自己肯定、「自分達」の肯定は同じ空気感で生きている人々にはありがたいものだが、その空気が消えると、読むに値しないものになる。だから、逆説的ではあるが、時代を超えるものは、その時代の雰囲気・空気から疎外されるようなものなのだと思う。異邦人だけが、時代と時代、共同体と共同体をまたぐような役割を持つ事ができる。川上弘美らのやさしいほんわかした雰囲気は、それらを肯定しているもの含めて、その全てがそれほどの時間もかからずに流れ去っていくだろう)

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[良い点] 頭が悪いが、堂々とレビューを書いているところ 内容が薄いものを引き延ばして人に興味をもってもらえるよう工夫しているところ それに自分で気づいていないところ [気になる点] 考察が薄いのにも…
[一言] センセイの鞄は大昔に読んだ覚えがあって、もう中身も覚えてない、僕にとってもその程度の作品でしかないのだけど、これはさすがに言いがかりじゃないですか? 川上弘美も「知らんがな」以外、返す言葉が…
[一言] 歳を食うと、案外精神年齢って若返ってくるもので、極論を言えば子供=老人となりリアルな描写になってしまったりします。 キレる高齢者問題ってこの辺が根っこにあって、自制が小学生レベルに低下してい…
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