或る男の身の上話
「ウェイター。珈琲を一杯、砂糖とミルクありありで。」
さて、今のわたくしは言いますと、駄々をこねる子供さながらに、無邪気に必死に死を希いるばかりでございます。かの偉大な哲学者たちは生涯を尽くし於て、(主に人類が)生きることへの意味を模索しているばかりでございました。しかし私には彼らが唯々、甘く一途に自らの精神的肉体的絶対自由、言い換えますと死ぬことを希っていただけにしか見えないのでございます。死とはこの世で一番魅力的な存在でございます。もともと人間は、創造主たる両親の、ただ子供が家族が欲しいという邪な欲望のため、色欲のため自己保存のために生み出されただけであります。原初のアダムとイブでさえ、神に媚びへつらう満足したただの奴隷でありました。裕福な奴隷である人間にとって自由とは生涯をかけて有象無象の中からすくい上げ形付け獲得するものでございますが、今のこの楽天主義の世に置いて、自由とは本来人間が生まれたときからすでに獲得している身近な隣人に錯覚されてしまっているのでございます。されてしまっている。と使用しているように自由には意志があり主体性があるものだとわたくしは思っております。人間の歴史において私の考える真の自由に到達した人間を敬称した言葉に、「悪魔に魂を売った」という表現がございます。人間が人間を統治支配するために生みだした道徳、倫理、所謂人間性等をすべて放棄し捨てた、真の自由を獲得した人間のことを指す言葉でございます。私はできることなら悪魔なるものに魂を売ってみとうございました。しかし私の住むこの極東の島国ジパングにおいて「悪魔に魂を売る」という秩序を破壊し混沌に帰る、神に逆らう行為は恥の文化圏においてはそもそも日本民族の集合的無意識にすらない選択肢の一つでございます。罪の文化で誕生した自由への闘争はジパングでは理解されていないのでございます。そのような中でわたくしはこの他人から理解されない危険な思想を持つようになり、このように貴方に語ることなったのかが今回の本論にあたるところでございまして。